夏の終わりとモシータ
夏の終わりには妙に感傷的な気分になる。
憂鬱ってほどではないんだが、ジージー鳴いていた蝉がミンミン鳴き始め、そのうちカナカナ聞こえてきて、いつのまにか、ツクツクホーシが鳴く頃。
あいつが鳴き始めると、夏の終わりを強く感じる。
八月の末、夏休みの最後の日を思い出して、何か取り返しのつかないものを失ったかのような空虚感を感じるのだ。
と言って、社会人をそこそこ長くやっている俺にはもはや夏休みなんてもんはない。夏休みなんてないんだから、この感覚はただの錯覚だ。
夏休みの最後の日までも休みなんて特になく普通に働いてきたし、そして九月に入っても普通に仕事はある。
つまり、普段と何も変わらないのだ。
だから、夏の終わりの日に、俺が感じているこの空虚な気持ちは、多分ただの幻想なのだった。
この気持ちを持つ俺には、きっとまだ小学生の頃の俺がいるのだろう。
まあそれは置いておいて。
近頃はモシータの姿を見なかった。
別にあいつは室内飼いしている子猫のわけじゃあないし、大人の猫どころか、いい年してねこまたになった妖怪なんだから、心配する必要はない。
とはいえ、室内でずーっと猫時代を過ごしていた箱入りの世間知らずだから、少し心配にはなる。
だが、行き先はおおよそ見当がついていた。
帰省だ。
お盆を前に、いつものように店でごろごろしているモシータに俺は言ったのだった。
「お盆くらい、元の飼い主のとこ戻ってやれよなー」
「なにいってるにゃ」
モシータは、ごろっとして裏返ったまま答えた。
「お盆じゃなくても時々帰ってるにゃ」
「それは、なんとなく知ってるけどよ。盆は公式にも帰省することになってんだろ。そういうもんだから、帰ってやれよな。店のことは……、まあ、お前、全然手伝ってないから支障ないんだし」
「にゃあ? そんなこと言って良いのかにゃ?」
むー、とモシータはふてくされた。
「ぼくがいるとお客さんも来るし、魔除けにもなるのに。見た目も可愛くて、お店の景観もよくしてるにゃ」
「はいはい、お前は可愛いよ」
「そうだにゃ。ぼくはその辺のぬいぐるみよりかわいいにゃ。もふもふだし」
「夏にはそのもふもふでかいのがちょっと鬱陶しいんだけどな」
モシータは、飼い主が、やたらと可愛いと連呼して育てたせいで自己肯定感が高いのだ。実際、あざと可愛い顔ではある。
まあ、犬猫は、自己肯定感が高い方が良い。幸せ度も高まるからな。
「鬱陶しいついでに、暑い間に里帰りしろよー。実はな、俺もお盆は帰省客や観光客がいるから店はやるんだが、その後休みを取るんだ。だから盆ぐらいからその辺でお前も帰ったらどうだ」
「そういうことなら、仕方ないにゃあー」
モシータは、ふんっと、猫のよくやる意図が謎のため息を一つ。
「じゃあ、明日からちょっとおねえちゃんたちの様子を見に行ってやるにゃあ。でも、マスターは迂闊な人だから、こっちのお店に来る時はとくに気をつけるように」
「そんなに迂闊かな? 俺」
「迂闊だにゃ。マスターは、変なやつに絡まれやすいにゃ」
「お前がそれを言う?」
そんなわけでモシータは里帰りをし、俺はちょっと気をつけて店を空けていたが、特になんてことも起こらなかった。
そして、盆明けに俺も実家に帰省し、モシータと顔を合わさない日が続いたというわけだ。
俺は予定通りに帰ってきたが、しばらくしてもモシータは帰ってこなかった。まあ、実家の居心地が良いのかもしれない。なんだかんだ意地を張っているが、あいつだって、寂しい気持ちはあるだろうからな。
とはいえ、こんなに帰ってこないと、それはそれでこのまま帰ってこないのか、という気持ちにもなるのだ。
普通はそういうときは、あれは全部夢幻か……という切ない気持ちになるのだが、今回は、俺がまだ裏の世界で喫茶店自体はやっているから、そこまでの気持ちにはならない。
なので、俺はちょっと中途半端な感傷に悩まされていた。
いつものように、表の喫茶店の昼の営業を終えた後、俺は夜は裏の店に顔を出している。
モシータが気をつけろというのだが、来る客に変化はなく、相変わらず見た目は人間の、最近は常連になった客がちまちま来ては、珈琲を飲んで帰っていく。
こっちの客はあまり世間話をしないから、俺もあまり深入りしていない。
その辺の塩梅が良いのか、とりあえず、危険な予兆に出会ったことはここに来てから一度なかった。
最後の客を見送ってから、掃除をする。
そういえば、モシータは今日も帰ってこなかったな、と思いつつ、片付けをしていると、ふと入り口に妙なゴミのようなものがある。
「なんだこれ?」
黒いほこりの塊のようだ。さっき掃き掃除したんだけどな、と思いつつ、箒を持って近づいたところで不意ににゅっと白い手が伸びてきた。
ばちーん、と音がして、黒い埃が弾き飛ばされた。
「もうっ! なにしているにゃ!」
そのまま、ほこりは入り口から伸びてきた手に外に放り出された。
にゅるっと入ってきた白い塊は、普通のサイズの茶トラの猫だった。ちょっとぽっちゃりしている。モシータだ。
「おかえり。なんだ、お前、普通のサイズでも、なんとなく巨猫の類なんだな」
のんびりと迎えたところで、モシータは不機嫌そうな顔になる。
「もう、マスター何やってるにゃあ。こんなのに触っちゃダメだにゃあ」
「こんなの? ほこりだろ?」
「違うにゃ。なんか、よくないやつだにゃ」
ぺしぺしぺし、と猫らしい動きで、モシータはそれをはたいている。何度か繰り返すと、急に黒いほこりが慌てたように虫みたいな姿になって、外に霧散していった。
「なんかは説明できないけど、ニンゲンには良くないやつなのにゃあ」
「そ、そうなのか」
ぼんやりとほこりの去っていった夜の闇を眺める。入り口から入ってくる空気は、盆明けとはいえまだまだムッと熱気が残っていた。
「まったくー、マスターはぼくがいないとだめなんだにゃあ」
ツンツンしながら、モシータは店に入ってくるといつものでかい猫に化けていた。
「それはありがとうよ。でも、モシータ、お前、随分ゆっくりだったな」
とりあえず礼をいうと、モシータは何やら背中のハーネス状のリュックサックをおろして、いつもの定位置に座った。
「ぼくは早く帰ってきたかったんだけど、かいぬしが帰って欲しそうじゃないし、弟たちの面倒をみていたんだにゃ」
モシータは、リュックサックから何か取り出しつつ言ったものだ。
「まったく、一般飼い猫卒業してからも、面倒を見させられるなんて、たいへんだにゃ」
本当にコイツが弟猫たちの面倒を見ていたかは怪しいが、まあ実家を満喫したのは間違いなさそうだ。
モシータは、リュックサックから好きなキャットフードやらを取り出している。
「なんだ、持たせてもらったお土産か?」
「お供えにされていたのやごはんの在庫から、いただいてきたにゃ。弟たちが食べたと思って、みんな気づいてないにゃ」
「それ大丈夫なのかよ」
まあ実家だしな。お盆だから許される所業な気がする。
「これでマスターに美味しいごはんを作ってもらわないと」
「まあ良いけどな。俺は材料費が安くつくから」
モシータは、ねこまただから人間の料理も好きだが、ねこのごはんも好きだ。アレンジした料理はもっと好きなのだ。液体ご飯よりカリカリ派のモシータは、ウェットなチキンにカリカリを優雅にかけたごはんなども好みなので、いちいちリクエストが面倒だったりする。
「にゃあ、忘れていたにゃ。はいこれ」
モシータは、リュックの底からねこの形のクッキーの箱を取り出した。かわいいパッケージだ。
「マスターにお土産買ってきたにゃ」
「えっ、お前、お金どうしたんだよ」
素直にそう尋ねたら、モシータはふふんと鼻で笑う。
「飼い主の夢に化けて出て、買わせたから問題ないにゃあ。居候しているから、挨拶のためのお菓子用意してっていったにゃあ」
「菓子がなくなったら不審がらないか」
「家族の誰かが食べちゃったと思うだけだにゃ。遠慮なく食べて」
「そうか。気を遣ってもらって、ありがとうな」
モシータのやつ、なかなか強かだな。ねこはこう言うものなのかもしれないが。
まあでも、新しい居候先への土産物を買ってくれと、俺も飼い猫に夢枕に立たれて言われたら、多分買うと思う。
「まあいいや。おかえり、モシータ」
「ただいま、マスター」
改めて礼を言うと、モシータはそう答えた。
「せっかくだから、マスターの珈琲が飲みたいにゃ。甘いやつが良いにゃ」
「俺はもう仕事終わりなんだがな」
俺はため息をついたが。
すぐにハシバミ色の瞳。しかも、今は夜だから瞳孔がまんまるだ。そんなかわいい目ででそう言われると、俺もちょっと無碍にしづらい。
「まあいいや。このクッキーも開けて、ちょっとコーヒーブレイクするか」
俺はそう答えて、またこのねことの暮らしが始まったんだなと、妙に実感していた。
*
「マスター、そういえば、みんながお彼岸にも帰って来いっていってたにゃあ。なんだかんだで、しょっちゅう里帰りしないといけない?」
「まあ三ヶ月に一回くらいは、なんかしらの行事があるもんな。そう考えると寂しくないだろ」
「頻度が多いにゃ。多忙なのに。ぼくも大変だにゃあー」




