第五章 エピローグ:北方の牙、動く
小谷の村の遥か北方、広大な屋敷を構える一人の領主が、家臣に耳打ちをしながら細めた目を地図に落とした。
その視線の先には、領地の南境が鮮明に描かれた図面が広がっている。
北境に接する寒村、小谷の村は、形式上は南方の小領主の統治下にある。この北領主にとって、そこはいずれ吸収すべき “周縁” に過ぎなかった。 数年来、北領主は野盗の跋扈を黙認し、時には資金や隠れ家を与えて南領の村々を揺さぶらせてきた。村を疲弊させ、南方領主の力をじわじわと削り、いずれ交渉の余地も抵抗の意志も奪うための布石であった。
ところがこの春、小谷の村だけが野盗の襲撃を退けた。南領主の庇護もなく、用心棒を雇う金もないはずのあのさびれた寒村が、だ。 北領主は不快げに眉をひそめた。
「妙なことだ。念のため、調べよ」
家臣は間者を野盗の残党のもとへ走らせて事情を探らせるとともに、軽微な偵察を村へ向けた。 村は相変わらず貧しく、武装らしい備えも見えない。それでも野盗がなぜ失敗したのか、その理屈は掴めなかった。
数日がたち、ようやく野盗のもとから戻った使者は困惑の色を隠せずに報告した。
「野盗どもが申すには、山の向こうに異様な者どもが居ると。鉄の箱を転がし、鉄の筒を抱えておるとか。実際に現地へ走らせた者も、不審な装いの集団を目撃しております」
北領主は鼻で笑った。怪しげな尾ひれの付いた噂など、この乱世では珍しくもない。 しかし、同様の情報が全く別の筋からも上がってくると、一笑に付して済ませることもできなくなってきた。
そこで、より踏み込んだ偵察が放たれた。商人に偽装した間者、旅人を装った素破。偵察からの報告と野盗の証言、それらの断片が積み重なり、次第に輪郭が形づくられていく。 どうやら小谷の村の背後、山を越えた先に、見たこともない施設を築いた集団が存在するらしい。 服装も、武具らしきものも村の者とはまるで異なり、村の政には直接関与せぬものの、鋭い眼光で周囲を警戒しているという。
北領主は、暗い興味を抱いた。
「殺しはせぬのか。あるいは、できぬのか。捕縛も追跡もせず、ただ退けるのみとは……軍に似て軍にあらず、か」
さらに調査を続けた。 完全に闇に閉ざされた新月の真夜中、隠密が山向こうの施設へ忍び込もうとした。しかし、謎の集団やその設備の姿を捉えるどころか、その外周に近づくやいなや隠密の接近は看破された。
『そこの黒ずくめの三人、止まりなさい。これ以上接近すれば攻撃する』
夜の静寂を切り裂く、奇妙な大声。
なおも距離を詰めようとした隠密は、闇の中から正確無比な攻撃を受け、退却を余儀なくされた。
その後も何度か隠密を遣わしたが、施設外周に近付くやいなや、あの謎の警告を受け、撤退に追い込まれるのだ。
その一方で、村人や行商、旅人に扮した偵察は施設の門前までは辿り着くことができた。ただし、門を潜ることは叶わない。例外は一度だけ。任務中に怪我を負った偵察が浮浪者に扮して接触した際、彼らは手厚い手当てを施し、握り飯らしき軽食を与えたという。食事自体に大した違いはなかったが、手当ての際に使われた薬品と道具は、領主の家中にも存在せぬ代物であった。
北領主は方針を変えた。 怪我を負った老人、母子の浮浪者など、より “弱者” を装った偵察を執拗に送り出した。しかし、以後は門前で冷静に観察され、あるいは通常の簡単な手当てを受けるだけで相手にされず、情報を引き出すことはできなかった。
夏の終わり、再び間者を村へ潜り込ませると、戻ってきた報告には明らかな変化があった。 飢えた子供が減っている。老人さえ野良に立ち、冬支度が妙に早く進んでいる。壊れた柵は修繕され、建物のいくつかは修繕・新調されていた。農具が増え、どこから流れたとも知れぬ暖衣や、見慣れぬ道具、鉄でできた精巧な器物が小屋に置かれていた。
「何が起こっている」
疑念がが生じた。周辺の村々が衰退するなか、なぜあの村だけが活気を取り戻すのか。村人にそんな底力はない。南方の小領主が施策を打つとは考えづづらい。あの守銭奴の阿呆領主が年貢も先細るこの寒村に資源を投じるはずもない。となれば、あの得体の知れぬ集団が関わっていると考えるのが自然であろう。
別の偵察が、苦渋を滲ませて報告した。
「あの集団が持つ道具も技術も、我々の常識では理解し得ませぬ。小さな村を立て直す程度、彼らにとっては造作もないことなのかもしれませぬ。ただ、どうしても近づけぬのです。殺されはしませんが、手も足も出ないのです」
村の山向こうには謎の少数武力集団が居座っている。村と交易めいたやり取りをし、物資を与えているらしい。村はそれによって生気を取り戻しつつある。
(あの村には、なにかとてつもない価値がある。あの山向こうの集団が庇護すべき、何かが)
薬か、資源か、人材か、あるいは未知の技術か。何であれ、放置すれば南方領の益となる。逆に吸収できれば、我らにとって無上の力となるだろう。山向こうの謎の屋敷まで落とせば、あの妙な武具や道具さえ手に入る。肝要なのは、迅速性だ。南方の阿呆が気づく前、村が力を蓄える前に動かねばならない。
北領主は、冷酷な結論を導き出した。 村は弱い。山向こうの集団は恐るべき索敵能力と武力を持つようだが、これまで一人も死者を出していない以上、殺傷力や広域制圧能力は限定的と見てよい。所詮は少数に強いだけで、多数の軍勢には対応しきれまい。こちらが兵を揃えて押し潰せば済む話だ。
領主は側近を手招きした。
「地図を整えよ。小谷の村までの道、尾根、水源、すべてだ」
次に、声を潜める。
「間者を倍にせよ。村と山向こうの両方だ。信峰領の動きも逐一探れ」
帳面を閉じ、短く命じた。
「冬が来る前に兵を動かす。準備を怠るな。……山向こうの者どもが何者であれ、我が軍勢に抗える道理はない」
これが、後に起こる凄惨な武力衝突の幕開けとなる。
村で起こった変化は、ただ生き残るためのわずかな動きであったが、敵対領主の眼には、奪い取るべき “獲物” として映ったのである。
北領、越嶺領軍が牙を研ぎ、にわかに殺気立ついっぽうで、南領、信峰領主は自領の村に降りかかる戦火の足音に気付くべくもない。彼はただ、今年の年貢の算段を側近に命じていた。




