第二章 エピローグ:村人たちの不安と希望
木材、山菜、そして狩猟。小谷の村人たちは、山に寄り添い、山を敬い生きてきた。山に、生かされてきた。春山での活動が本格化する前に、山の様子を見てくる。それが弥吉が山へ入った理由だった。 だが――弥吉は戻らなかった。
消息を確認するため、最初に山へ入ったのは、弥吉の母親と、彼に近い年代の男二人だった。山の入り口までは、いつも通りの静かな森だった。だが、そこから先が違った。
山菜が不自然なほど綺麗に刈り取られ、周囲の枝は鋭利な刃物で断たれている。何より異様だったのは、枝に括り付けられた“奇妙な素材の桃色の鮮やかな布切れ”と、その下に隠れるようにして枯葉に埋もれた“金属の縄”だった。 地面を見れば、複数人の足跡らしきものがある。らしきもの、というのも、それが村の誰の履物とも違っていたから。今まで見たこともないような、“規則的な溝の模様”が刻まれた足跡だった。
「……今日はもう、やめよう。これ以上は......」
若い男の一人が、震える声で漏らした。
「えっ? でも……」
母親が縋るような声を上げるが、もう一人の男も無言で首を横に振った。 自分たちの理が通じない“何か”が、この山の付近に潜んでいる。その不気味な気配が、重く湿った霧のように一行を包み込んでいた。
それから数日、村では弥吉の名が何度も口にされた。探しに行くべきか、それとも、もう戻らぬものとして扱うべきか。だが、誰も決断を下せず、山深くへ立ち入る勇気も持てなかった。 そんな折、ある村人から、山の尾根沿いに“奇妙な網のようなもの”が立っている、という話が出た。 最初は誰も信じなかった。だが、その後も同じような話をする者が続いた。三人目は、村では誰よりも南の山に詳しい男だった。
「確かに、あんなものは前にはなかった」
男がそう断言したとき、村人たちの疑念は確信に変わり、村は深い沈黙に包まれた。
意を決して向かったのは、その男と最初の若者たちだった。案内に従い山を登ると、男の言う通り木々の合間から、遠くに網のようなものが見える。網は、山の稜線に沿って続いている。男たちは稜線に沿って南西に山を下った。すると網が切れて見たことのない柵へと変わり、少し先からは、一切の歪みのない“岩の壁”がそそり立っている。壁はなぜか蔦に似た網に覆われていた。そのまま距離を取って森のなかを壁沿いに進むと、はるか先に奇妙な装束を纏った男たちが立っている。その辺りに壁の切れ目があり、人が出入りしている。しばらく観察していると、門の前の一人がこちらに歩いてくる。三人は恐怖に口を押さえて息を殺し、身を潜めた。その男は半分ほど来て鋭い視線で周囲を見回すと、再び踵を返して元いた場所に戻っていった。その隙を突いて、三人は静かに森の奥に隠れ、遠回りをして逃げ帰った。村に戻った三人は長老に報告した。
「私一人でも行きます!」
同席していた弥吉の母親の悲痛な叫びを、誰も止めることはできなかった。翌朝、弥吉の母と長老、そして年上の若者の三人は、再びあの場所を目指した。武器は持たず、声を荒げるつもりもない。ただ、あの場所に何かの手掛かりを求めて。あの場所にいる人に、弥吉を探していると伝えるために。
現地に辿り着いた長老は、一人、建物の方におずおずと進み出ると、門の前で崩れ落ちるように膝を突いた。天を突くような堅牢で整った綺麗な壁。一切の歪みもつなぎ目もない格子の門。背をまっすぐに伸ばし微動だにせず門を守る屈強な守衛たち。近くで見て、その姿に圧倒され、恐れ慄き膝から力が抜ける。それでも、弥吉のために、弥吉の母のために、弥吉の行方を聞かなければならない。......だが、彼らに一切の敵意はなかった。言葉も、驚くほど滑らかに通じた。
「弥吉は、ここにいる。命に別状はない。だが、今は会わせることはできない」
鉄のように無機質な表情の奥に、ほんのわずかな憐れみとも同情ともとれる光が宿っているのを、長老は見逃さなかった。何の建物なのか、あそこで何をしているのかは分からない。恐怖がないと言えば嘘になる。だが、老い先短い自分にできるのは、通い詰め、頼み込むことだけだと、長老は腹を括った。
村へ戻り、“弥吉は生きている”と伝えられた瞬間、村の空気は劇的に変わった。 その後も何度か足を運ぶうちに、ある変化が訪れた。あの建物の付近で怪我をした弥吉の母親が、あの場所で見たこともない薬で手当てを受け、戻ってきたのだ。
「あの人たちが言うのなら、弥吉は本当に大丈夫です。きっと、よくしてもらってるんだと思います。」
恐怖はいつしか安心へと変わり、好奇心に駆られて同行を望む村人まで現れるようになった。
そんな日々が過ぎたある夜のこと。村から、ひとりの子が姿を消した。弥吉の様子を気にかけ、あの山の向こうへ何度も一人で足を運んでいた少年だ。夕刻になっても、夜が降りてきても帰らなかった。
「道に迷ったのではないか」
「まさか、獣に――」
不安を募らせながらも、村人たちは闇夜の山を前に立ち尽くすしかなかった。きっとまた弥吉のいるあそこへ行ったのだろう。朝になったら、あの場所に行って聞いてみよう。そう自分たちに言い聞かせ、祈るしかなかった。
その夜更け。 ――腹を揺さぶるような“雷の音”が、村につながる山道の方から轟いた。弥吉が消えたあの夜に聞いた、あの音。 村の誰もが布団の中で息を潜め、朝が来るのを震えて待った。
翌朝、村人たちの代表が恐る恐る山向こうへ向かうと、山道に異様な景色が広がっていた。 点々と続く血の跡、何者かを引きずったような痕跡。灯火の燃え尽きた残骸。そして、道端に捨てられた刀や槍。 だが、不思議なことに、それらの刃には血の一滴すら付いていなかった。
「……何が、あったんだ」
誰かが呟いたが、答えは出ない。獣の死体も、戦った者たちの姿もない。鬼が出たか幽霊か。ただ、一切の抵抗を許さぬ一方的な“力”によって、この刀の主たちが排除された、そんな状況に思える。
年嵩の村人が、静かにあの奇妙な建物のある山の方を見つめ手を合わせ、深く腰を折った。 それがどんな意図があったのか、どのような術を使ったのか分からない。だが、あの壁の向こうの人々が、何か良からぬことを“終わらせてくれた”のだという気がした。
「……あの子も、きっと生きておる」
誰かが言ったその言葉に、皆が深く頷いた。 確かな根拠はない。だが、あの“鋼の隣人たち”なら、きっと――。 そう思えるだけの縁が、いつしか彼らとの間に積み重なっていた。




