愛を捧げた王妃
「王妃が殺された」
その知らせに国中に激震が走った。
王妃の亡骸を抱いたまま城に戻った国王は、「ユリアーナ、ユリアーナ」と譫言のように繰り返して、埋葬の間際までその冷たく固くなった体に泣きすがっていた。
一時は後を追うのではないかと心配されていたが、命の灯が潰える間際の王妃が
「陛下、子供たちをお願いします」
と遺言を残したそうで。まるで亡霊のような顔をしつつもとりあえず命を絶つ心配は無いだろうとは周囲は考えている。
王妃を殺した犯人が、かつて王子だったハインツ陛下との仲が社交界で話題となった、聖女と呼ばれていた存在だったというのも物議をかもした。この女――リリエは、その類稀なる治癒魔法の才能を見込まれて教会からの援助を受けて王立の学園に通っていた。しかし当時王太子として側近とともに学んでいたハインツ陛下や婚約者であったユリアーナ殿下と机を並べていたその学園内でリリエは大きな事件を起こしたのだ。
聖女として遇された環境に勘違いをしたのか、彼女はこの国で最も貴き女性には自分こそがふさわしい、と王妃の座を狙ってハインツ王太子に言い寄ったのだ。
悪用を警戒してその手口は公開されていないが、魔法使いとしての力を誤った方向に用いて呪いをかけたとも、畏れ多くも王太子殿下に人心を操る魔法を使ったのでは、伝承に残る魅了魔法では、または薬物を使ったやも知れぬと様々な推測が今でも行われていた。当時を知っている者達によると
「王太子殿下はあの時、大罪の魔女リリエの事を真に愛しているように見えました」
と証言が残っており、仲睦まじいことで知られるハインツ陛下とユリアーナ王妃の仲を裂いてそのような偽りの心を植え付けることができるとは、よほど危険な術なのであろう、と閲覧が禁止された調書からもそれがうかがえた。
リリエによって惑わされた王太子は、ユリアーナ様による真実の愛で正気を取り戻されたのも有名な話だ。リリエによって無実の罪で断罪されたユリアーナ様は、それでも陛下への愛だけを胸に陰謀に立ち向かった美談として本や歌劇の形で今も語られている。
ユリアーナ様はリリエに情けをかけ、「ハインツ様が一度は愛した女性の命を奪うなんて、愛を与えたハインツ様の御心が可哀そう」と助命嘆願をおこなった。あの時聞き入れるのではなかったと陛下はたいそう悔やみ、周囲の者たちも強く処刑を求めるべきだったと皆後悔に暮れている。
たまたまそこにあった儀式用の短剣で王妃ユリアーナを殺害したリリエはその場で取り押さえられた。世継を含めた王子王女殿下の成長を告げ、民の前で仲睦まじい姿を見せた数分後の悲劇を誰が想像できただろうか。
お忍びであったゆえに数を絞られていた護衛、それが表の通りで偶然起きた馬車同士の事故の確認のためにさらに人数を割かれ。教会にいた信徒がお忍びで現れた高貴な方に想定以上にざわめき、一瞬査察に訪れた皆の意識が向いた。
全てが一番悪い状況で重なった。短剣を体の陰に隠したリリエが他の修道女に紛れて近付いたのは運悪くも護衛がほんの少し間に合わないタイミング。針の穴を通すような不幸な偶然が重なった。
犯人リリエはすぐに取り押さえられたものの、正気を失っているリリエのどこにそんな俊敏に動く力があったのか、一瞬のうちに喉、腹、胸を含めた七回の刺突が行われていた。
ユリアーナ様は致命傷を負い、査察の申し入れ時に「奇跡」を実演すると喧伝していた教会側にすぐさまその治癒魔法を使うように命じたのだが。なんと教会は高位の神官達の功績を作るために、聖女と祀り上げるほどの治癒魔法を使えるリリエを利用していて、最近はそれに頼りきりだったせいで他にこんな大怪我を治せるような魔法使いは今日この場にいないのだと床に頭を付けた太った神官は悲鳴交じりに告げる。ならばそのリリエに治療させようとするも、魔術による隷属契約で与えられる苦しみに抗いリリエは命令を拒絶した。
一番近い民間の診療所も治癒魔法の使い手は運悪く不在、同時に遣わせていた王城からの御殿医はあと一歩のところで間に合わず、止血に加わり手を血まみれにしたハインツ陛下の腕の中でユリアーナ王妃は精霊の泉に魂を還してしまった。
ユリアーナの呼吸が止まり、取り押さえられたときにわめいていた内容でその女がリリエだと理解したハインツ陛下は、獣が吠えるような叫び声を上げたそうだ。
「ハインツ様、わたし、これで邪魔なユリアーナがいなくなったからわたしを一番の寵姫にしてくれますよね? わたしこれでしあわせになれますよねっ? こんな生活もうしなくていいんですよね?」
「お前……お前、リリエか?」
「はい、あなた様のリリですよぉハインツ様……かふっ、」
「どうしてお前がここにいる⁈ ユリアーナをなぜ! なぜこんな事を! なぜ! どうして! ああユリアーナ……!」
押さえつけられたところを蹴り飛ばされたリリエは、変装して査察官に混じっていた護衛騎士に肩を床に縫い付けられていていたためその衝撃で大きく頭を仰け反らせた。
「え……? ハインツ様……」
「汚らわしい! 俺の名前を呼ぶな……っ、ああ、ユリアーナが、ユリアーナごめん、俺が愚かだったせいで。俺がこんな女に騙されたせいで、うわあぁぁあ!」
「違う、ちが、騙してなんかない! わたしはハインツ様の事を本当に愛して」
「……っ、お前なんかと出会わなければ良かった!! お前の身勝手な逆恨みのせいで俺の最愛のユリアーナを失ってしまった……ユリアーナ……あぁ……」
「わたし、わたしの幸せはあの学園だけだったのに……わたしハインツ様の事が本当に好きだったから、ハインツ様もわたしを可愛いって、寵姫にしてくれるって、一緒にいて心が休まるのはリリだけだよって言ってくれたのに……! わたしハインツ様のために、」
「黙れ、そのような妄言を!」
「あぐっ」
これ以上当時の話をされるのはまずいと判断した騎士が、押さえつけていた女に警棒を噛ませて猿轡にした。もうリリエの事はどうでも良いと言うように、ハインツは血で汚れることを厭わずユリアーナの亡骸の横に膝をつく。
「ユリアーナ、ユリアーナ……」
教会の本殿で起こったまさかの凶行、そのような危険人物の正体を隠して患者を診させていたと、教会は強く非難されて大きく影響力を落とした。数年前の騒動がおさまらぬ中での大事件は国中で取り上げられた。隠蔽されたかつての犯罪者の処遇、明らかに問題のある監督体制、教会の非は明らかであった上に、福祉に力を入れていた王妃ユリアーナは民からの求心力が大きかったのも影響していた。
国に報告されていた内容には虚偽が多分に含まれており、リリエをあの場に立たせた教会側もだが王妃の命を守れなかった護衛も当然処罰されている。
ハインツ陛下は王妃の名を呼びながら毎晩嘆いているが、学園時代のリリエと王太子の醜聞を知る一部の使用人は皆やるせない気持ちを抱えていた。
貴族連中は当時リリエの尻馬に乗りかけてユリアーナを一時的に冷遇した疚しさを払拭したいらしく、国王ハインツに共感するように大げさに悲痛さを口にし、言葉と表現の限りを尽くしてリリエへの罵詈雑言を口にする。
数年前には「政略だけの婚約とは違う真実の愛」と、当時は強大な力を持っていた教会の顔色を窺ってはやし立てていたその口で。
「結局さ、自分の浮気が大ごとになって、処刑だの三千年相当の禁固刑だのを浮気相手一人にひっかぶせるのがおっかなくなって怖気づいただけでしょう」
「ユリアーナ様は慈悲からあんな提案をされましたけど、王としてそこはきっぱり断るべきです。あんな女を生かしてしまったために王妃様は……」
「陛下は責任から逃げて楽な方に逃げたんでしょうね。今だって、『悪女リリエ』や『学生時代の自分』を責めて悲しんでいるだけ。王太子として模範的な淑女と評されていた婚約者から逃げて甘い言葉を吐く娼婦に騙されて、悪女に騙されたと被害者の立場に逃げて、赦して差し上げたユリアーナ様の優しさに甘えて自分の罪と責任に向き合う事から逃げた」
「でも、こんな……婚約者の時からずっと、陛下に人生を捧げて、最後までこんな……王妃様がお気の毒で……」
数人の侍女と女官が落ち込んだ様子で顔を寄せている。他の者には聞こえないほどに小さい声だった。ユリアーナが聞いていたら「あらよく見ているじゃない」とほほ笑んだだろうか。
「ユリアーナ、君はこんな結末を望んでいたのかい。……力を貸すんじゃなかった……我が公爵家の力が増すと、ああ確かにそうだったが……娘の命を対価にすると知っていたら……いや、気付けなかった自分の事が心底悔しいよ」
城の裏手にある、王族専用の墓地に白い百合の花束を抱えた身なりのいい男性が一つの墓石に向かい合っていた。
「当時のハインツ王太子に強く抗議してのめり込む前に止めれば良かった……教会の失墜を望むあまりあんな計画に力を貸さなければ良かった……公爵家の力を使えば聖女と呼ばれていようが平民の小娘の処分くらいどうとでもなったのに……後悔しか残らない……」
答えるものはいない、誰も幸せにならない結末が皆の心の中に横たわっている。
「リリエと火遊びをしたのはユリアーナの嫉妬を得るためだと私達を含めた周りの大人は気付いていたからあえて口にする事も無かった、それが間違いだったと今になってやっと分かったよ……どうしてこんな未来を選んでしまったんだ、ユリアーナ……」
墓石に供えられた花束がカサカサと風に揺れる。父親は自分の後悔を全て吐き出すように、冷たい石に触れて刻まれた名前を指でなぞった。
「この程度と飲み込んで、家のために利用できるしたたかさを得たのだと思っていた。……ユリアーナはハインツ陛下の事をかけらも赦してはいなかったのに、気付かなかったよ」
長い告解を終えて立ち上がると、かすかに目元に滲んだ雫が足元に落ちた。
「ハインツ陛下は一生悔やんで生きるだろう。これで満足かい、ユリアーナ」
誰も聞いていなかった言葉は風に溶けて消えた。
それを含めたすべてを知らない王の嘆きは今日も続き、母を突然失ったことをまだ理解できない幼い子供達だけが完全な被害者だった。




