8:一人で留守番をする幼稚園児のように
その日は、ユリとメール交換がなかった。
朝、一通だけ他愛のないメールを送ったが、返信はなかなか来なかった。
メールが返ってきたのは、夜も遅い23時くらいだったはず。
そろそろ暖かくなるかなと思っていた2月終わりの日のことだった。
彼女からのメールには、一言、こう書かれてあった。
『ごめんなさい、もうワッカくんと二人でご飯を食べに行くのはやめることにします』
なんの予兆もなかった。
メールが来る前日だってDir en greyの空耳Flashについて、笑えるよねとメールを交わしたくらい。
別にユリと気まずくなったわけではない。
急に彼女からのメールが途絶えたわけでもない。
本当に、今までと同じようなメールをやりとりする日々が繰り返されるものだと思っていた。
それなのに。
僕はメールを見た瞬間、ひどく、混乱した。
どうしてなのだろう。
何があったのだろう。
僕は一瞬、ホタルの元彼女のことが頭をよぎった。
精神不安定、躁鬱、リストカット……今思えば、どうしてホタルの元彼女のことが浮かんだのか疑問なのだが、僕はとにかくユリに電話をすることにした。
何かがあって、精神的に参っているのではないか、そう思ったのだ。
電話をかけても、ユリは電話に出ない。
三十コールくらいかけ続けても、ユリが電話をとることはなかった。
嫌な予感がした。
もう一度電話をしてみる。
だけど出ない。
僕はしょうがなく、急いでメールを返信した。
いったいどうしたの、何かあったの、と。
携帯を握りしめながらユリからの返信を待っても、いっこうに返ってこない。
どうしたんだろう、何があったんだろう。
しかし今の僕にはそれを知る術はない。
どうしようもなかった。
ただ、ユリからの返事が来るのを待つことしかできなかった。
日付が変わり、一時になり。
二時になったところで、ユリから電話がかかってきた。
僕は急いで携帯電話を取り、耳にそっと、あてた。
『もしもし?』
電話ごしのユリの声は、ひどく震えていて、何かに怯えているようだった。
僕はなだめるように、落ち着かせるように、優しく声を出した。
『どうしたんだい?』
まるで慌てふためいている自分に言い聞かせるような声だった。
ユリから声が返ってこない。
僕はもう一度、声をかけた。
『何か、あったのかい?』
しかし返事はない。
時々、電話の向こうから擦れた声が聞こえてくるだけだった。
……ユリは、泣いていた。
『落ち着いて、話してくれないか?』
ユリの泣き声を聞くのは、初めてだった。
電話の向こうから、トラックが通る地鳴りが聞こえてくる。
それにすら負けてしまうくらい、ユリの声は遠かった。
本当に、遠い。
『……………あのね』
まるで勇気を絞ったような、胸の奥から出しているような声で、ユリは言った。
『とっても、楽しかったんだけど』
そこでまた、ユリの声は途絶えた。
僕はまるで別れ話を切り出されているような錯覚をおぼえた。
別に、僕はユリと付き合っていない、はず。
『私ね……これ以上ワッカくんと二人でいると、ダメになってしまうかもしれない』
電話をしているユリの姿が脳裏に浮かぶ。
でも、どうしてダメになってしまうのか、僕には理解できなかった。
『どうして、そう思うの?』
怒ってないから、ゆっくりでいいから、話してごらんと。
そんな願いを込めて、僕は言った。
『これ以上、ワッカくんと二人で遊ぶと、遊びじゃなくなってしまうかもしれないから』
『……どういうこと?』
『裏切りたくないの』
そう言って、ユリは再び泣いた。
今度は僕の耳にも届くくらい、声をあげて泣いた。
とても苦しそうな泣き声だった。
聞いているこっちが泣いてしまいたくなるくらい、心に突き刺さるような声だった。
『私……実は彼氏がいて…………うわぁぁぁあああああ』
思わず電話を耳から離したくなってしまうくらい、彼女の声は大きかった。
でも、僕は離すわけにはいかない。
ユリが泣き止むまで、溢れた涙が零れおちきるまで、僕は待ち続けた。
やがて声が小さくなり、むせるような声で、彼女は言った。
『これ以上、ワッカくんと二人でいると、彼のことを裏切ってしまうかもしれなくて……それがね、とても嫌なの……』
『……そっか』
『別にね、ワッカくんのことが嫌いになったわけじゃないの、一緒にいたくないって思ったわけじゃないの、全部私が悪いの、私が弱いせいなの、私がもっとしっかりしていれば、きちんとしていればこんなことにはならなかったと思うの、だから、ごめん、本当にごめん、ごめんなさい…………』
少し息を落ち着かせたユリは、一息でまくしたてるように言い、そしてまた、泣いた。
葛藤しているんだと思う。
気づかないうちにジレンマに陥っていて、それはしかし少なからず僕にも責任があったのだ。
だから、僕はユリが自分を責めすぎないようにと、言った。
ごめんね、と。
ユリはしかし、違うの、私のせいなの、ワッカくんのせいじゃないの、だから謝らないで、と繰り返しながら、泣いた。
鈍感な男だな、と僕は歯がゆくなった。
僕は知らず知らずのうちに、ユリを苦しめていて、泣かせてしまった。
そんなつもりじゃなかったのに。
ユリは泣いて、泣いて、泣きじゃくった。
親に置いていかれて一人で留守番をする幼稚園児のように、大きな声で、泣いた。
わんわんと、わんわんと。
僕は、ごめんとすら言えなくなってしまった。
電話越しに、彼女の乱れた息遣いを聞きながら、どうしたらいいか途方に暮れるしかなかった。
今言葉を発することはできない。
それだけで、彼女をさらに傷つけてしまいそうな気がして。




