荒廃した大公家
闇の中で二人が睦み合う音が聞こえてくる、だが豪奢な寝室の魔術道具の灯りは絶え真の闇に包まれていた。
「ケラ、私の妻になっていただきたい」
思い詰めたような若者の声が闇の底から聞こえてくる。
それに異国の言葉が鈴の音の様にささやいた、何も見えないのに不思議と銀の鈴が震える様をイメージさせる、例えようのない異国の音楽の様だ。
だがその意味を理解できる者はこの大陸に存在しなかった、そして冷笑するかのような冷たい何かが含まれていたが。
だが熱にうかされた若者は気づかなかった。
すると真の闇が薄れる、寝室の高価なガラス窓から月の光が差し込んでいる。
その光が二人を照らし出す。
一人の女性は異国の麗人ケラだ、優美な形をした頭を僅かにかしげた、まるで『何を言っているのかしら?』とでもいいたげに。
「もどかしい、私の言葉が伝わらないとは!」
その若者はエルニア公国の世継ぎルーベルト公子その人だ。
ルーベルトが力を込めて彼女を抱き寄せようとすると麗人は両手で押し留めた。
そして不思議なアルカイックスマイルを浮かべた、それは受け入れたとも拒絶したとも受けとれる、曖昧でそれでいて妖しくあまりにも魅惑的だ。
エルニア公国の世継ぎの貴公子として育てられた彼にとって異国の麗人はあまりにも甘美な毒だ。
麗人は右手の芸術品の様な人差し指で壁の方向を指す。
ルーベルトはその意味を即座に理解して震えた、その指の先は大公の寝室の方角を指していた。
その意味は明白で彼女は父の大公の愛人なのだ。
ルーベルトは罪の意識を感じながらも彼女に近づいた、そして以外にも願いは成就してしまった、そして彼の脳裏からもはや顔を見たことすら無い異国の婚約者候補の事は消え失せていた。
ルーベルトは憎々しげな視線をその壁の向こうに注いでいる、麗人は僅かに微笑むとさらに彼を両手で軽く突き放した。
そして壁際の告時機に視線を流す。
ルーベルトはそれがギスランと盲目的な側近達が作った時が尽きようとしている事に気づいた、曖昧な表情の麗人は『もう時間です』とでもいいたげに見える。
ルーベルトはいそいそと自分で服を整えた、その姿はどこか間抜けだ、麗人は手伝おうともせず感情を伺わせない瞳で観察している。
そしてシーツをまとうとルーベルトを見送る為に立ち上がる、その仕草はエスタニアの流儀からかけ離れていたがとても優美で品のある仕草だ。
「また来る、それまでまっていてほしい」
ルーベルトはそのまま彼女の寝室から出て行ってしまった、外に待機していた者共の足音が去って行く。
軽い吐息をついた彼女は、彼女の内心を表さない紺碧の瞳が背後の壁を伺うように動くとニンマリと笑う、その笑いすらやはり人間味に欠けている。
背面に彼女の化粧室や浴室に通じる扉がある、その壁の一角に隠し部屋があった、麗人に割り当てられたのは城の豪華なゲストルームだが、その部屋を監視し盗聴するための設備だ。
その壁に空けられた小さな隠し穴から血走った瞳が部屋の中を除いていたのだ。
麗人は知ったか知らぬかシーツを振りほどくと白い布が床にふわりと落ちた、僅かな部屋に差し込む月の光の中で麗人のこの世離れした肢体が浮かび上がる。
すると小さな物音が壁の方から聞こえる、やがて足音が聞こえしばらくすると背後の扉が開かれた。
その扉から現れたのはエルニア大公その人だ、麗人は振り返りもしない。
酒色にたるんだ身体と顔と濁った瞳、息子のルディーガー公子に面影が似ていた、だがこの男からは覇気も生命力も失われ、その魂は生きたまま腐っている、そしてなけなしの知性も酒で曇っている。
だがルーベルト公子ともあまり似ていなかった、彼は母親のテオドーラ大公妃に似ている。
異国の麗人はゆっくりと大公の方向に振り返る。
エルニア大公のまぶたが大きく見開かれると、血走った白目が顕になった。
そこには欲望と狂気と憧憬それらが混じりあった混沌が覗いていた。
『ケラ・・・・』
大公から酔ったような不快な声が発せられた、酒で喉を痛めているとしか思えない耳障りな声。
異国の麗人が腕を広げると、大公は夢遊病の様にふらふらと吸い寄せられた。
そして部屋はまた真の闇に閉ざされる。