ダールグリュン公爵家の館
アラティアの王都ノイクロスターを囲む丘の見晴らしの良い場所に、アラティア王国の名だたる名家の邸宅が立ち並ぶ、それらの邸宅は眼下の王都を見下ろしている。
その中でも王都の北の丘に一際目立つ大邸宅はダールグリュン公爵家の城だ、先代の数奇物の当主が御伽の国の妖精の城をイメージした大邸宅は今は王都の名物になっていた。
窓から王都の夜景を見下ろしていたカミラの背後から足音が近づく。
「ハイジ、まだわからないのかしら・・・」
ふりかえりもせずにカミラはささやいた。
「お嬢様、アーデルハイドとお呼びくださりませ」
落ち着いた声がカミラの背にかかると驚いたカミラは振り返った、筆頭女使用人長の後ろに若い女使用人が控えている事に気づきカミラは僅かに慌てる。
「あら、貴女もいたのね気づかなかったわ、サンナだったわね・・」
「お嬢様、この者はトルケでございます」
アーデルハイドは僅かに苦笑を浮かべたが、カミラを見る視線は温かい。
「まあごめんなさいね、人の入れ替わりが激しくて」
その言葉に今度は使用人のトルケが恐縮して慌てだす。
「いえ姫様わたくしごときの事、お気になさいませぬように、使用人は置物でなければならないと心得ておりますれば」
アーデルハイドは少し考えてからふたたびカミラを見つめた。
「お嬢様、使用人の制服の意味は、個を消しダールグリュン公爵家に使える者として在る事を示す事でもあるのです」
カミラはそれを聞くと寂しそうに微笑んだ、アーデルハイドは更に続ける。
「お嬢様はお優しく、使用人の者達にも心配りをなされます、それは素晴らしい事ですが、すべての者達がそれに相応しいとは限りません。
去った者に心を残されませぬように、来る者も同様、それもまた貴人の義務でございます」
カミラはすこし首をかしげた。
「ハイジ、やっぱり何か問題を起こした人がいたのかしら?今まで聞かないほうがいいと思っていたけど」
「ほとんどの者は契約を終えてお屋敷から下がります、殆どの者は品行方正で問題を起こしたものはわずかです、問題を起こしたとしても些事であり姫様のお耳を汚す価値はありません」
アーデルハイドは背後の使用人に命令を伝えると、彼女はすぐに仕事を開始した。
そしてアーデルハイドは靴音を立ててカミラに近づくと顔を寄せる。
「お嬢様はなかなか顔を覚えるのは苦手てございますね」
ささやく様な声は小さくてカミラにしか聞こえない。
「いやになるわ、本の中の名前は覚えられるのに顔と名前が合わないのよ、長く一緒にいれば覚えるのに」
カミラはどこか拗ねるようでどこか幼なげだ、アーデルハイドは優しく楽しげに微笑んだ。
「顔を覚えるのが苦手な人はいるそうでございます、それに使用人はみな同じ制服なのでそれが問題なのかもしれませんね」
「あらそれだわきっと!ねえ皆に名札を付けるのはどうかしら?」
アーデルハイドはそれを聞くと軽く刮目してから手を思わずパンと強く叩いてしまった。
雑務をこなしていたトルケが驚いて二人を見つめたがすぐに作業に戻る、カミラとアーデルハイドはそれにまったく気づかない。
「それは名案でございますお嬢様、良い考えだと思います、旦那様もお喜びになるでしょう」
「お父様がお喜びに?」
「はい旦那様なら、女使用人の胸に名札があるならば興が乗ると思いますよ」
アーデルハイドは楽しげに笑った。
「トルケ、お嬢様の寝室の床に埃が落ちていました、清めておいて」
「かしこまりました、アーデルハイド様」
隣室に移動してゆくトルケの後ろ姿を見送ってから態度を改めた。
「お嬢様、ルーベルト様からのご返事は未だにございません、エルニアの状況が緊迫しておりますれば」
それは誰かに聞かれることを怖れているかの様だ。
「聞いています、でも突然どうしたのかしら?少し前まで仲が良かったのに」
アーデルハイドは申し訳なさそうな顔をした。
「申し訳ございません、こればかりは私の口からは申し上げる事はできません」
「そうねお父様にお聞きします」
「はいそうなさる事がよろしいでしょう」
やがてトルケがリビングに戻ってくる、アーデルハイドはそれに目をやった。
「お嬢様、我らはこれで下がります」
カミラは告時機を確認してから驚く。
「まあ、もうこんな時間・・・」
「では我らはこれで下がります、では良いお休みを・・・」
トルケがドアの側に控え扉を開いた、アーデルハイドが廊下に出ると、最後に振り返ったアーデルハイドが一礼すると彼女の前で扉が閉じられた。
カミラが寝室に向かうとトルケが扉を開いた。
すると二人の侍女がそこに控えている、トルケはそのまま静かに下がって行く。
カミラの寝室は赤を基調とし、床の絨毯も真紅の赤で、天井は暗い黒に近い赤だ、温かみを与えるために壁は高級材で葺かれ、室内の調度品はアラティア風だが大きなベッドはテレーゼ風でおしゃれなベッドカーテンで囲われていた。
彼女の身を二人の高級使用人が整える、それを終えると一礼してカミラ付きの侍女の控室に下がって行った。
そして始めてカミラは一人になった、ため息をつくと豪奢なベッドに身を投げた。
はしたないがどうせ誰も見てはいない、背伸びをしたところで窓が気になる、誰かに見られているような奇妙な感覚に囚われたからだ。
「なんど見ても、かわいい」
ポーラを抱きかかえたドロシーは王都ノイクロスターのダールグリュン公爵家の城の上を旋回しながら下を見下ろしていた。
「お嬢様しか見えません・・・」
ドロシーが姿勢を横に傾けるとポーラにも城の全容が見えるようになった。
「こんな高さから見た事はありませんでしたが、間違いありませんダールグリュンのお城です、久しぶりでございます」
ポーラは体を震わせている、ドロシーはそれに気付いた。
「震えているこわいの?やめようか」
「いいえ、お願いしますお嬢様!」
ドロシーはつま先を下に姿勢を変えると、ゆっくりと降下を始める、すぐに城の塔の一つのテラスに着地した。
「あれ!?」
ドロシーが塔の異常に気づいて声をあげる、城の窓は壁に描かれた絵にすぎなかったからだ。
「お嬢様、このお城の塔のほとんどは飾りでございます」
ドロシーが呆れた様な顔をしたが気を取り直す。
「ここで着替える・・・あっ肌着を置いてきてしまった!」
「あっ!!私も気づきませんでした、申し訳ありませんお嬢様、お嬢様の寝室にあると思います」
「しょうがない、使用人服をこのまま着る」
二人は背嚢からメゾン=ジャンヌ特注の高級使用人の制服を取り出すと身につける、僅かな差異があるだけでこの館の女高級使用人の制服によく似ていた。
紛い物の塔の上に二人の偽物の高級使用人の姿があった、むしろそれが相応しいのかもしれない。
「お嬢様、黒のストッキングがありませんね・・・」
ドロシーを点検していたポーラがすぐに気づく。
「必要?」
ポーラは少し悩んでから話し始めた。
「はい、このスカートの裾が短い事にお気づきですか?」
「かわいい」
「・・・ですが足がかなり見えてしまうのです、黒のストッキングでバランスを取るのでございます、これがダールグリュンの粋なのです」
ポーラは自分の脚を指さした、黒い絹の高級ストッキングに彼女の形の良い脚が包まれている。
「うむたしかに、でも見られるのって気持ちいいのよ?」
ドロシーはにんまりと笑う、その笑いはどこか儚げでそれでいて淫靡だった。
「えっ!?」
そんなポーラの困惑を無視してドロシーは続ける。
「さあ宝石を持って、荷物はここに置いて行こう」
ポーラの背嚢を残し二人は抱き合い宙に浮く、そのままゆっくりと下がって行く。