北の辺土の旅人
灰色の海がどこまでも広がり、空は薄曇りで弱々しい陽の光が雲の隙間から射し込んでいた、海岸はゴツゴツとした岩場が広がり緑は背の低い灌木が茂るだけ。
背後の黒い森は針のように細く背の高い木の集まりだ、陰鬱な景色に遠くからさみしげな海鳥の声が聞こえてくる。
その地はエスタニア大陸から北に大きくつき出した巨大なセール半島の北限に近い場所だ、その先は森の無い荒れ果てた凍土の地に入る、その地の果てのさらに先に大海を隔て氷の島があった、だが今だに調査は進んでいない、赤い髪の巨人達がその島を支配していると言われる。
そんな気の滅入る様な暗い土地を北に向かう街道を一人の男が旅をしていた、他に街道に人影も無かった。
男の身なりは使い込まれた焦げ茶のスーツ、使い古された旅行カバンを楽々と下げている、どこかの学者か役人のような姿で周囲の景観にまったく似合わない、この街道は田舎びた商隊か猟師こそ相応しい。
たった一人のその姿はあまりにも場違いだった、だがその男の足取りはとても軽い。
男は鼻歌を歌っている、その曲はこの北の最果ての地にふさわしくはない、はるか西国の香りがする。
男は急に鼻歌を止めると立ち止まる。
「こまったね、やはり後をつけて来るものがいる」
男の見かけの年齢は四十代であろうか、その柔和な容貌が不敵に笑う、だがそこから無限の虚無が顔をのぞかせる。
その男はアンソニー=ダドリー、元ペンタビア大学考古学科の教授にして古代パルティナ帝国前史の専門家の旅の学者だ、いや学者だった人と言った方が良いかも知れない。
そしてコステロ商会会長アエルヴィス=コステロと深い縁があり、闇妖精姫『真紅の淑女』の秘密を知る僅かな生き残りの一人なのだ。
それほどの人物がたった一人でこんなところで何をしているのだろうか。
「影から影とわたってきたはずですが・・・」
アンソニー先生は困惑し首を振る、だが本当は困惑などしておらずそう振る舞っているだけのように感じさせた。
やがてゆっくりとした風と共に白い霧が立ち籠め始める、だが先生は身動きせずに霧の向こうを見つめていた、やがて霧の向こうに黒い影が透けて見えるその影の数は三つ。
影の形は人の姿に見えるが、どこが歪で何かが間違っていた、その姿はバランスにかけ不均衡、そして何か得体の知れない禍々しい力に満ちていた、その影の中に禍々しく赤い瞳が灯る。
そして三つの影は立ち止まるとしばらく音が絶えた。
沈黙に耐えられなかったのかアンソニー先生がまっさきに口を開く。
「北の地に入ってから僕を探る者の気配がしたけど、気が変わったのかい?」
『状況が変わった、知っていル事総て話してもらう』
「それができるのかい?」
アンソニーの温厚な口ぶりが変わると、どこか愚弄する響きをおびる。
『お前には我らと共に我らの主の元に来てもらう』
「北の導師かな?」
『来ればわかる』
アンソニーの体がふらりとよろめいた。
『奴の異能は未知数だ警戒しろ!』
その直後に風景が一変する、それは淋しげな田園風景に変わっていた、テレーゼの様な生命と陽光にあふれた豊かな土地ではない、それでも小さな街にたしかな人々の生活があった。
突如街の様子が騒がしくなる、怒号や叫びが上がっているはずだが何も聞こえない、しばらくすると黒一色の軍勢が森から現れると街に襲いかかった、街には守備隊がいたようで防壁を盾に巧みに防戦を企む。
軍勢はグディムカルの軍装に近いが旗印や紋章に差異がある。
次第に守兵が数に押され守りが崩れると地獄に変わった、街は燃え上がり奪略と破壊にその景色は飲み込まれ、数多くの女が子供が老人が倒れ命を失って行く、眼の前に兵士が迫り視界が血にそまると何者かが絶叫を上げた。
その直後にふたたび風景が一変した。
そこは深夜の豪奢な館の中だ、その景色はだれかの視点であるかのように左右を向き天井を見上げる。
そして前に進んでゆく、視点の主は目的を持ってどこかに向かっている、まったく音はしない。
だが誰かが呻いていた、その声は行くな、行くんじゃないと叫んでいる。
やがて豪華な扉の前に到達する、扉の脇に護衛が二人倒れていた、だが生きているようで眠っているだけに見えた。
扉を開くと豪奢なベッドが中央に置かれていた、薄い布団が盛り上がり誰かが寝ているようだ、侵入者は剣を抜くと力いっぱいそこに突き刺す、布団が血に染まって行く。
侵入者が剣を引き抜き布団をはねのけるとそこに女がいたのだ、血まみれの女は薄く目を開くと嘲る様に笑った、そしてその目から光が消える。
侵入者が剣を落とすと数歩後ろに下がった、何者かが血を吐くような叫びを上げている。
そしてまた風景が一変する。
そこは焼け焦げた廃墟の中を一人の男がよろめきながら走っている、何か麻の袋を抱えている、男は汚れた粗末な防具に身をつつみ同じく粗末な剣を履いている。
まるで傭兵部隊の兵士の様に様々な兵装で固めている、戦場かせぎで寄せ集めたかのような武装だ。
やがて音もなく矢がかすめ近くの木に突き立つ、男は恐怖で振り向き目を見開いた。
またまろびながら逃げる、だが数人の兵たちが追いつき取り囲まれてしまった。
男は叫び周囲の兵士達も罵声を上げているが音はまったく聞こえない、男は麻袋を強く抱きしめた。
背中に焼け付く痛みを感じた、背後にまわった短槍兵が槍をつきたてたのだ、その男の顔を見るその男は親友だった男だ怒りに燃えている、そして槍が突き立てられ剣で切り裂かれた、麻生袋が裂けて中から金貨がこぼれ落ちる、その音だけがなぜか聞こえてくる。
そうだ俺は仲間を裏切ったのだ、その思いだけが強く残る。
地にはうと地面にこぼれ落ちた金貨に手を伸ばした、それを誰かが軍靴で踏みつける、見上げると同郷の幼馴染の男の顔だった。
意識が薄れる中、深い後悔と絶望に沈んでゆく。
アンソニーの声が聞こえてきた。
「最近の魔界の眷属の堕ちる理由が平凡になったね、数が増えたけれど質かな・・・闇妖精姫を蘇らせる運命を持っていた僕たちとは違っているのかもしれないね、さてどうしようか?」
アンソニーの周囲の岩場に三人の男達が倒れ伏していた、その姿は普通の人に見える、その評定は苦悶に満ちている。
「人であった時の記憶の苦痛を増幅するんだよ、そうとも魔界の神に届く程の傷だからね」
アンソニーは少し困惑してから決断した。
「潰しておくよ、完全に滅ぼせるとは思わないけど時間稼ぎはできる、僕の研究の邪魔をされたくないんだ」
アンソニーの瞳が赤く染まると彼の影が不定形の生き物の様にうねり広がりだした。
その光景を遥か彼方の森の奥から見つめる瞳があった、それは気配を消し総てを見届けようとしていた。