オープニング 「うちに、おいで」―でっかい人の話
「将来は、猫、飼いたいよね」
その言葉は、妻が未来を語るとき、必ず最後にそっと添えられた。
まるで、まだ見ぬ家族の影が、彼女の心の奥に静かに座っているかのようだった。
私はそのたびに、曖昧に笑って頷いた。頷きながら、胸のどこかが少しだけ痛んだ。叶えてあげたいのに、叶えられない現実が、いつも目の前に立ちはだかっていたからだ。
転勤続きの生活。
段ボールを開けては閉じ、また次の土地へ移る。結婚して四度、引っ越しをした。「いつか」という言葉だけが、私たちの夢をそっと包んでいた。
家を建てたら。
落ち着いたら。
その「落ち着く」という未来は、いつも少し先に逃げていった。
妻はそれを責めなかった。
ただ、夢をそっと胸にしまい込むように微笑んだ。その微笑みが、私には時々、痛いほど優しく見えた。
結婚して五度目の引っ越しで、東京勤務が決まった。
結婚五年目。まだ、子どもはいなかった。
東京の家賃は、地方の感覚では息を呑むほど高い。広さを求める余裕などなく、会社が用意した古い社宅に入ることになった。
その社宅は、古い町並みの中にひっそりと佇んでいた。外壁は少し色あせ、階段の手すりには長年の手の温度が染み込んでいる。少し錆びたそれは、どこか懐かしいにおいをさせていた。
人が長く住んだ場所だけが持つ、柔らかな生活のにおい。
住人たちは、私たちよりずっと年上だった。だからこそ、地方から出てきた若い夫婦の私たちを、まるで遠い親戚のように迎えてくれた。その優しさに触れるたび、私は胸の奥で小さく息をついた。
「ここなら、妻も少しは寂しくないかもしれない」
そんな淡い期待が、静かに灯った。
引っ越しも落ち着いた初夏の日曜日。
二人でスーパーへ向かうため、三階の部屋から階段を降りていた。
開け放たれたドアから、春の名残の風が廊下をすり抜けていく。その風の中で、ふと、違和感が目に映った。
小さな柵。
覗き込むつもりはなかった。それでも、そのドアの向こうに、小さな柵が置いてあるのが目に入った。
幼い子どもが外に出ないようにするための、ガードのような柵。このご家庭には、そんな小さなお子さんはいなかったはずだ。
そう思った瞬間、視界の端でふわりと白いものが揺れた。
真っ白い毛並み。フサフサの尻尾、小さく「キャン」と鳴く声。
――犬だ。
社宅では、ペット禁止のはずなのに。けれど、その白い影は、古い社宅にひっそりと灯る「秘密のあかり」のように見えた。
「猫も飼えるのかな?」
妻の声が、風に溶けるように小さく震えて聞こえた。妻も、同じものを目にしていた。長い間しまい込んできた夢が、そっと息を吹き返したような声だった。
私はその震えを聞いた瞬間、胸の奥がきゅっと締め付けられた。叶えてあげたい。でも、叶えられないかもしれない。
その二つの思いが、静かにぶつかり合った。
その日、スーパーまでのみちのりは、久しぶりに未来の話で満たされた。
妻の横顔は、どこか少女のように明るかった。
とはいえ、現実はそう簡単には変わらない。
転勤の可能性は常にある。ここが終の住処になるとは限らない。
「飼えるかもしれない」という淡い期待だけを胸に、忙しい日々が過ぎていった。
けれど、その期待は、心の奥で小さなあかりのように揺れ続けていた。風が吹けばゆらぐけれど、決して消えないもののように。
妻が一日の大半を、ひとりで過ごしていることを私は知っている。知っていながら、仕事に追われ、背中を向けるしかなかった。その背中に、どれほどの寂しさが積もっていたのか。私は気が付かないふりをしていたのかもしれない。
ある日のこと。
会社の後輩が突然、仕事を辞めて「香港に行く」と言い出した。会社にはもう伝えていると。
詳しく話を聞くと、新婚の彼女は、夫の転勤に合わせて香港へ行くという。
仕事を続けるよりも、彼についていきたい。
そんな話だった。
「あの、お願いがあるんです」
後輩がさらに話を切り出し始めた。
新居に合わせて買い揃えた家具が無駄になるため、もしよければ引き取ってほしいと。東京に来て日が浅い私たちにとっても、家具はまだ揃っていない。お互いにとって悪い話ではなかった。妻に相談し、次の週末に後輩の家を訪ねることにした。
後輩の住まいは横浜にほど近い閑静な住宅街の一角、真新しい賃貸マンションだった。私たちの社宅とは対照的に、どこか新婚のにおいがした。
しかし、慣れない土地を運転したため、到着したのは約束の時間よりも二時間遅れ。思ったよりも多くの仲間に声をかけていたのか、私たちが訪ねた時には、めぼしい家具はすでになく、小さなライトだけが残されていた。
「これよかったら……」
後輩は申し訳なさそうに差し出した。その声の奥に、彼女自身の「別れ」の寂しさが滲んでいた。
彼女に、精一杯の笑顔を返し、謝礼と共に受け取った。
短い滞在のあと、帰路についた。妻がポツリと言った。
「……あの部屋だけ、静かだったね」
その言葉に、私は胸の奥がまた痛んだ。妻の声は、家具のことを言っているのではなく、どこか「自分たちの部屋の静けさ」を重ねているように聞こえた。
家具は手に入らなかったが、せっかくの遠出。
ドライブ気分での帰り道、遅めの昼食を取ろうと、たまたま目についたショッピングモールに入った。
私たちはどのモールでも、必ず、ペットショップを覗くようにしていた。
「いつか迎える家族」を想像する、大切な儀式のようなものだった。その日も、昼食を終えると、自然と足はペットショップへ向かっていた。
小ぶりなモールだった。ペットショップも、それに見合った広さしかない。
狭いためなのか、様々なペットグッズが上へ上へと積み上げられていて、店内の通路は思ったよりも薄暗い。そこを抜けると、店内の奥に――いた。
小さく、可愛く、儚げに鳴く、四匹の子猫。
ガラスケースの中ではなく、サークルの中でよちよちと歩きながら、訪れる人々を見上げ愛想を振りまいている。
その姿は、まるで「ここにいるよ」と言っているかのようだった。
妻の目が、ふと柔らかくなったのに気がついた。
結婚から五年。
子どもが、いなかった。それも運命かと受け入れてはいたが、諦めきれず、妻は産婦人科での治療を受け、子どもを授かるための努力をしていた。
長い治療の中で、何度も涙をこらえてきた目が、久しぶりに明るい光を宿していた。
私はその光を見た瞬間、胸の奥が熱くなるのを感じた。
このまま、この人をひとりにさせたくない。
そんな思いが、静かに、しかし確かに湧き上がってきた。
気づけば、私は口にしていた。
「……誰か、引き取って帰ろうか」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥で長い間眠っていたものが、ようやく目を覚ました気がした。妻は驚いたように私を見つめ、そしてゆっくりと微笑んだ。
少女のような微笑みだった。
その微笑みは、五年間の寂しさと希望が溶け合ったような、深い色をしていた。
――――――
あれから、十年。
子どもも授かり、東京から地方に戻り、家も建て、気がつけば猫は五匹になっていた。
増やそうと思って増えたわけじゃない。
最初の切り出しは私だったかもしれないが、次からは妻が、そして子どもたちが……ただ、出会いがあり、導かれ、気づけば五匹になっていた。
かぐやは、竹林で鳴いていた。台風の前の日だった。朝、仕事に向かう際、いつも通る竹林沿いの道で、か細く鳴く声に気がついた。ふと目をやると、小さな白黒と目が合った。しかし、どうにもならない。仕事に向かわなければ。妻に電話をし、白黒の小さな子猫が、精一杯鳴いていることだけ伝えた。
チャトランは、大きな地震の後の混乱の中、避難所にいた友人からの一本の動画から始まった。地域猫として飼われていたのだろう、人懐っこい子が、ご飯を求めて避難所を巡っている。必死にご飯を求めて鳴いていると。比較的被害の少なかった我が家で迎え入れることは、自然な流れだった。思ったよりも小さな猫が家族となった。
マロンとおはぎは、猫の保護活動をしていた方から託された二匹だ。新聞の無料広告に載っていた子猫たち。子どもたちが目ざとく見つけた。つぶらな瞳でこちらを見つめる写真に、すっかり虜になっていた。注意書きには、できれば二匹一緒に、兄妹で引き取ってほしいと書かれていた。多分、二匹一緒の引き取りはハードルが高いだろう。なら、引き取れる家が迎え入れるべきでは? そんな、変な理屈で、我が家に来ることが決まった。
そして諭吉。この家に最初に来た子だ。ペットショップで出会った。値段が安かった。理由を聞いたら、店員が言葉を選んだ。全部はわからなかったが、だいたいのことはわかった。それでも、連れて帰った。つらい時期を乗り越える我が家の大黒柱として、家族の真ん中でいつも凛々しく立っていた。
どの子も、私たちの人生の「節目」に現れた。
まるで、必要なときに必要な子が、そっと家の扉をたたき、我が家にあかりをともすように。
――――――
猫を飼うということには、責任が伴う。
ご飯をやって、病院に連れて行って、環境を整えて。命を背負う責任。
ただ、それだけじゃなく、この子たちの時間に、こちらの時間を合わせていく。それが、思った以上に、悪くなかった。
それ以上に、日々の中に「活き活きとした気配」が生まれることが楽しかった。
家に帰ると、玄関に来る子がいる。来ない子もいる。それぞれだ。でも、どこかしこに、思い思いの気配がある。
足元をすり抜ける影。
廊下の先でこちらを見ている瞳。
それらが、家の中に静かなあかりをともす。
家の中に、生き物の気配がある。
それだけで、玄関を開ける瞬間が、少し変わった。
「ただいま」と言うと、なんだか、ちゃんと帰ってきた気がする。
家族からの「おかえり」とは違う、背中で語る彼らのおかえり。
その温度が、なんとも心地よい。
猫たちが、この家にいる。それだけで、この家があかるい気がする。
「うちに、来るか?」
あの時、竹林で鳴いていたかぐやに、そう思いながら妻に電話をした。
あれが、物語が静かに動き出した瞬間だった。




