迷える少年と聖女見習い
*
その夜。
聖女見習いのシェリーは、巡回のため王宮の中庭を訪れていた。
夜風が木々を揺らし、噴水の水音が静かに響いている。
淡い灯りに照らされた中庭は、人の気配もほとんどない。
「……静かな場所ですわね」
小さく呟く。
こうして静寂に身を置いている時だけは、胸の内に渦巻く雑念を忘れられる気がした。
――ジャン・オリンス。
――勇者リカーシャ。
――導きの甲虫ヘラクレス。
脳裏に浮かぶのは、昨日の謁見で交わされた言葉ばかり。
(何が正しくて、何が誤りなのでしょう……)
答えの出ない問いを抱えたまま、シェリーはゆっくりと歩を進める。
その時だった。
噴水のそばに、小さな人影が見えた。
「あれは……」
月明かりに照らされていたのは、幼い少年。
ベンチに腰掛け、うつむくその姿に、シェリーは目を細める。
「ジャン王孫殿下……」
思わず足を止めた。
監視対象。
そう呼ぶべき存在。
だが――今の彼からは、昨日の異様な力など感じられない。
ただ、小さく背を丸めた子供にしか見えなかった。
シェリーは少し離れた場所から、その様子を見つめる。
話しかけるべきか。
それとも立ち去るべきか。
迷った末、彼女は静かに踵を返そうとした。
――その瞬間。
「……怖い」
ぽつりと。
弱々しい声が、夜の中庭に落ちた。
シェリーの足が、止まる。
気付けばシェリーは、ジャンの目の前でそっと腰を屈めていた。
「……何が、ですの?」
「…………」
問いかけに、ジャンはうつむいたまま小さく肩を震わせる。
否定もできず、言葉にもできない。
そんな様子だった。
「……やはり、昨日のことですのね?」
「……うん」
か細い返事。
やがてジャンは、おずおずと顔を上げた。
不安げな瞳が、シェリーを映す。
「きみは……?」
「わたくしはシェリー。ホーリーシティーより参りました、見習い聖女ですわ」
柔らかく微笑みながら名乗ると、ジャンは「ああ」と思い出したように目を瞬かせた。
「昨日もいたよね……。ってことは、きみも教会側なんだ」
「……ええ」
シェリーは静かに頷く。
するとジャンは、膝の上でぎゅっと指を組み合わせた。
「――じゃあ、きみもぼくが怖いの?」
その時だった。
「……ジャン様」
静かな声。
シェリーが振り返ると、木陰からアイゼルが姿を現していた。
月明かりに照らされた鉄のガントレットが、鈍く光る。
いつからそこにいたのか。
感情を押し殺したような瞳で、アイゼルはシェリーを見据えていた。
「……っ」
シェリーの肩がわずかに強張る。
「アイゼル、いいよ」
だがジャンが、小さく首を横に振った。
「この人、ぼくを傷つけようとしてるわけじゃないから」
「……しかし」
「お願い」
短いやり取り。
やがてアイゼルは一歩下がった。
「……承知いたしました」
とはいえ、完全には離れない。
いつでも動ける距離を保ったまま、静かに二人を見守っている。
その警戒を感じながらも、シェリーは再びジャンへ向き直った。
怖くないわけではない。
昨日、あの場で放たれた異様な力を、彼女も確かに感じていた。
人の意志すら揺るがしかねない危険な力。
教会が警戒する理由も分かる。
だが――目の前にいるのは。
ただ、自分自身に怯えている少年だった。
「ぼくは怖いよ……自分の力が」
ジャンは震える両手を見つめる。
「ぼくのフェロモンスキル、虫だけを操る力だと思ってたんだ。……なのに、もし使い方を間違えたら、人間にまで効いてしまうかもしれない」
その声は、次第に弱くなっていく。
「そんなの……考えたこともなかったのに」
ぽたり、と。
ジャンの膝に、涙が落ちた。
「ぼく、誰かを傷つけたいわけじゃないんだ」
涙を拭うこともせず、ジャンは続ける。
「なのに、もしぼくのせいで誰かが壊れたら……」
ぎゅっと、服を握り締めた。
「ぼくという存在自体が、間違いなのかな……」
その言葉に。
シェリーの胸が、小さく痛む。
「……あなたは……」
否定したかった。
だが、できない。
力が危険なのは事実だ。
教会の教えに照らしても、到底看過できるものではない。
それでも――
(この子は、本当に悪なのでしょうか……?)
答えが出ない。
シェリーは静かに立ち上がった。
これ以上ここにいれば、自分の心まで揺らいでしまう。
だが。
「待って!」
ジャンが、慌てたように顔を上げる。
「ぼく、どうしたらいいの!?」
その声は、助けを求める子供そのものだった。
シェリーは足を止める。
けれど、振り返ることはしない。
「……分かりませんわ」
それが、今の彼女に言える唯一の答えだった。
「ですが――」
わずかに視線を伏せる。
「また、お話ししましょう」
「シェリー……」
静かな声が、背中越しに届く。
シェリーはそのまま歩き出した。
夜風が白い法衣を揺らす。
胸の奥が、ざわついていた。
教会の教え。
大神官ニコラスの言葉。
そして、あの少年の涙。
どれが正しくて。
どれが誤りなのか。
まだ、分からない。
ただ一つだけ、確かなのは――
(……見届けなければなりませんわね)
その想いだけだった。
その背を見送る中。
「……ジャン様」
アイゼルが静かに口を開く。
「ご無事で、何よりです」
ジャンは涙を拭いながら、小さく笑った。
「心配しすぎだよ、アイゼル」
「当然です」
即答だった。
「あなた様は、わたくしがお守りする方ですので」
その言葉に、ジャンは少しだけ困ったように笑う。
だが――その表情は、先ほどより幾分か穏やかになっていた。




