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迷える少年と聖女見習い


 その夜。


 聖女見習いのシェリーは、巡回のため王宮の中庭を訪れていた。


 夜風が木々を揺らし、噴水の水音が静かに響いている。

 淡い灯りに照らされた中庭は、人の気配もほとんどない。


「……静かな場所ですわね」


 小さく呟く。


 こうして静寂に身を置いている時だけは、胸の内に渦巻く雑念を忘れられる気がした。


 ――ジャン・オリンス。

 ――勇者リカーシャ。

 ――導きの甲虫ヘラクレス。


 脳裏に浮かぶのは、昨日の謁見で交わされた言葉ばかり。


(何が正しくて、何が誤りなのでしょう……)


 答えの出ない問いを抱えたまま、シェリーはゆっくりと歩を進める。


 その時だった。

 噴水のそばに、小さな人影が見えた。


「あれは……」


 月明かりに照らされていたのは、幼い少年。


 ベンチに腰掛け、うつむくその姿に、シェリーは目を細める。


「ジャン王孫殿下……」


 思わず足を止めた。


 監視対象。

 そう呼ぶべき存在。


 だが――今の彼からは、昨日の異様な力など感じられない。


 ただ、小さく背を丸めた子供にしか見えなかった。


 シェリーは少し離れた場所から、その様子を見つめる。


 話しかけるべきか。

 それとも立ち去るべきか。


 迷った末、彼女は静かに踵を返そうとした。


 ――その瞬間。


「……怖い」


 ぽつりと。

 弱々しい声が、夜の中庭に落ちた。


 シェリーの足が、止まる。


 気付けばシェリーは、ジャンの目の前でそっと腰を屈めていた。


「……何が、ですの?」

「…………」


 問いかけに、ジャンはうつむいたまま小さく肩を震わせる。


 否定もできず、言葉にもできない。

 そんな様子だった。


「……やはり、昨日のことですのね?」

「……うん」


 か細い返事。


 やがてジャンは、おずおずと顔を上げた。


 不安げな瞳が、シェリーを映す。


「きみは……?」

「わたくしはシェリー。ホーリーシティーより参りました、見習い聖女ですわ」


 柔らかく微笑みながら名乗ると、ジャンは「ああ」と思い出したように目を瞬かせた。


「昨日もいたよね……。ってことは、きみも教会(そっち)側なんだ」

「……ええ」


 シェリーは静かに頷く。


 するとジャンは、膝の上でぎゅっと指を組み合わせた。


「――じゃあ、きみもぼくが怖いの?」


 その時だった。


「……ジャン様」


 静かな声。


 シェリーが振り返ると、木陰からアイゼルが姿を現していた。


 月明かりに照らされた鉄のガントレットが、鈍く光る。


 いつからそこにいたのか。


 感情を押し殺したような瞳で、アイゼルはシェリーを見据えていた。


「……っ」


 シェリーの肩がわずかに強張る。


「アイゼル、いいよ」


 だがジャンが、小さく首を横に振った。


「この人、ぼくを傷つけようとしてるわけじゃないから」

「……しかし」

「お願い」


 短いやり取り。


 やがてアイゼルは一歩下がった。


「……承知いたしました」


 とはいえ、完全には離れない。


 いつでも動ける距離を保ったまま、静かに二人を見守っている。


 その警戒を感じながらも、シェリーは再びジャンへ向き直った。


 怖くないわけではない。


 昨日、あの場で放たれた異様な力を、彼女も確かに感じていた。


 人の意志すら揺るがしかねない危険な力。

 教会が警戒する理由も分かる。


 だが――目の前にいるのは。

 ただ、自分自身に怯えている少年だった。


「ぼくは怖いよ……自分の力が」


 ジャンは震える両手を見つめる。


「ぼくのフェロモンスキル、虫だけを操る力だと思ってたんだ。……なのに、もし使い方を間違えたら、人間にまで効いてしまうかもしれない」


 その声は、次第に弱くなっていく。


「そんなの……考えたこともなかったのに」


 ぽたり、と。

 ジャンの膝に、涙が落ちた。


「ぼく、誰かを傷つけたいわけじゃないんだ」


 涙を拭うこともせず、ジャンは続ける。


「なのに、もしぼくのせいで誰かが壊れたら……」


 ぎゅっと、服を握り締めた。


「ぼくという存在自体が、間違いなのかな……」


 その言葉に。

 シェリーの胸が、小さく痛む。


「……あなたは……」


 否定したかった。

 だが、できない。

 力が危険なのは事実だ。

 教会の教えに照らしても、到底看過できるものではない。


 それでも――


(この子は、本当に悪なのでしょうか……?)


 答えが出ない。


 シェリーは静かに立ち上がった。


 これ以上ここにいれば、自分の心まで揺らいでしまう。


 だが。


「待って!」


 ジャンが、慌てたように顔を上げる。


「ぼく、どうしたらいいの!?」


 その声は、助けを求める子供そのものだった。


 シェリーは足を止める。

 けれど、振り返ることはしない。


「……分かりませんわ」


 それが、今の彼女に言える唯一の答えだった。


「ですが――」


 わずかに視線を伏せる。


「また、お話ししましょう」

「シェリー……」


 静かな声が、背中越しに届く。


 シェリーはそのまま歩き出した。


 夜風が白い法衣を揺らす。


 胸の奥が、ざわついていた。


 教会の教え。

 大神官ニコラスの言葉。

 そして、あの少年の涙。


 どれが正しくて。

 どれが誤りなのか。

 まだ、分からない。


 ただ一つだけ、確かなのは――


(……見届けなければなりませんわね)


 その想いだけだった。


 その背を見送る中。


「……ジャン様」


 アイゼルが静かに口を開く。


「ご無事で、何よりです」


 ジャンは涙を拭いながら、小さく笑った。


「心配しすぎだよ、アイゼル」

「当然です」


 即答だった。


「あなた様は、わたくしがお守りする方ですので」


 その言葉に、ジャンは少しだけ困ったように笑う。


 だが――その表情は、先ほどより幾分か穏やかになっていた。

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