第5話
調理場からサービスワゴンを押して進む九重と、その一歩先を歩くラルクは、国王ジルバード達が待つ『星露の間』に向かっている。
手押し車の上にはクロッシュがいくつも並んでいる。九重が料理を作り終わると、調理場にいた料理人達が手押し車に乗せてくれて、次々に蓋をしていったのだ。多分、虫除けのような物なのだろう。
(んん、ちょっとどきどきします)
九重は少しばかり緊張していた。じつは家族以外の人に手料理を食べてもらったことはないのだ。余れば女中やら下男達にもおすそ分けをしていただろうが、ほぼすべて大食いの次男が食べつくしていたのである。
だから、どんな反応をされるか想像がつかず、どきどきだった。
「コノエ君、着いたよ」
ある観音開きの扉に差し掛かると、その扉の前で立ち止まったラルクが言った。白色に金色で装飾されている重厚な扉の両端には、門番らしき武人が一人ずつ立っている。
ラルクがそのうちの一人に話しかけると、その門番は扉を軽く叩いた。すると室内から一人の男が出て来て、九重とラルクの姿を確認する。男は門番と数口やり取りをすると室内に戻っていった。
そうしてしばらく。ゆっくり五つ数えたぐらいで両端の門番二人が、お互いに扉の把手に手を掛けて、同時に扉を開いていく。
その一連の洗練された流れに、九重はぽへえと、「お江戸のお城もこんなのかな」と、おそらく一生縁が無いであろう事が頭に浮かんだ。
「さあ、入りましょう」
「は、はい」
ラルクに促されて、九重はそろりと『星露の間』に入った。
お日様の光がたっぷり差し込む大きな窓が並んでいるそこには、国王ジルバードを筆頭に数人の男女が、脚の高い長机を前にしてそれぞれ一人掛けの縁台に腰掛けている。
「あとは私共が」
先ほど門番に応対した男と、その男と同じお仕着せを着た男達と、似たような色合いのお仕着せを着た女人が九重が運んできた手押し車を引き継いだ。おそらく彼らは、お江戸でいう中間や女中のような役割なのだろう。
手持ち無沙汰になった九重は、ラルクに連れられて国王の近くに立って控えることになった。
中間達は銀色の蓋をしたままの料理を手際良く国王達に配っていく。
席に付いている全員に配膳が終わると、国王が九重に振り向いた。
「コノエ殿、料理を作ってくれたことに感謝する」
「はいっ」
ちょっぴり声が裏返ってしまった。
そんな九重に、ジルバードが目元を柔らかくすると、席に着く一同を見回した。
「では、皆。頂こう」
国王ジルバードの声を合図に、中間達が音をたてずに一斉に銀色の蓋を外していく。初めて見るそれは圧巻の一言。九重は口を僅かに開けたまま見惚れてしまっていた。
しかし、である。
口を開けたのはなにも九重だけでは無い。
「ん?」
「なにかしら……?」
銀色の蓋が外された皿を見た一同に小さな戸惑いが生まれた。
白い磁器で作られた浅めの深皿。その中には子供の手のひらだいの四角い真っ白な物が鎮座していた。その白い物の上には刻まれた緑色の野菜に、薄黄檗色のおろしたものがちょこんと載っている。
「上に載っているのは、青葱か。こちらは……」
「おろし生姜です」
比較的国王の近くに座する小柄な老齢の男の呟きに答えると、男は「ほう」と納得した。
「まさしく『初めて見る料理』、ですな」
「うむ。見たことがない」
小柄な老齢の男の言葉に国王が返す。
「ええ、見かけはまるでチーズのよう」
国王の隣に座する美しい女人も続いた。でもチーズにお葱は載せないわよねと、楽しそうに笑う。
「これはチーズなのかい?」
女人とは反対側の国王の隣に座する、これまた美しい青年が九重に問う。が、九重はきょとりと首を傾げた。
「ちいず?」
初めて聞く言葉だ。
チーズが何なのかわからないが、ラルクや調理場にいた料理人達はお豆腐を見るのは初めてだった。だからこちらの世界ではお豆腐をチーズと呼ぶことはまず無いはず。
九重は取り敢えず、違うと答えることにした。
「こちらはお豆腐という食べ物です」
「おとうふ?」
聞き慣れぬ言葉だったようで、不思議そうに青年が繰り返す。
九重を捕捉するように、ラルクが言葉を添える。
「この『おとうふ』というものは、コノエ殿のいた世界ではよく食べられていた食品だそうです。──国王陛下」
ラルクが国王ジルバードに向き直る。
「コノエ殿は稀に異世界人が持つ、特殊能力の保持者であるようです」
「なんと!?」
『星露の間』にいた一同に驚きが走る。
「まだ詳しくは調べていませんが、このおとうふはコノエ殿の特殊能力で異世界より呼び出された物のようてす』
国王ジルバードを筆頭に『星露の間』にいた全員の目が九重に集中した。人見知りではないが、さすがにこれ程の人達に注目されると身の置き場がない。取り敢えず九重はほわっと愛想笑いを返して、料理の説明を始めることにした。
「えー、こちらはお豆腐料理の『奴豆腐』というものです。豆腐百珍には名前だけで調理法が載っていないほど皆が知っている一品で、非常にお豆腐が持つ本来の味を感じられる料理になります。お醤油をちょろりとかけて薬味といっしょにお召し上がりください」
それぞれの席には、磁器で作られた小さめの醤油差しが置かれている。
九重の説明を聞いた一同はおのおの醤油差しを手に取り、ちょろりちょろりと醤油をかけた。そしてなにやら宙に指で描いて、ぶつぶつと言っている。もしかしたら、食事の挨拶なのかもしれない。
それが終わると、誰彼ともなく銀色の匙を手にして、お豆腐に差し込んだ。
「あ、柔らかい」
国王の隣の席に座る女人が驚いた声を上げた。
何人かが勢い余って皿に匙を当てたらしく、カチンカチンと鳴っている。
どうもお豆腐を柔らかい物だと思わなかったようだ。
「ぷるぷるだ」
「プリンのような柔らかさだ」
国王の隣の席の青年が言えば、中ごろの席に着く体格の良い男も続いた。……ちょっとぷりんというものが気になる九重である。
一同はきらきらした眼差しで冷奴を載せた匙を口もとに運んだ。柔らかなお豆腐が口内に含まれる。
そして──……。
「ん……」
「ん、ん……」
「むう……」
席に着く全員の、ほぼ全ての人達の動きがピタリと止まった。ゆっくりゆっくり、咀嚼している。だが、味わっている……というには、些か表情が強張っている気がする。
九重はあれ? と、小首を傾げた。なんだか反応が微妙である。
席に着く一同は二匙目を口に運んだが、やはり手の動きは遅かった。三匙目になると、約半分が匙を置いた。回数が進むたびに匙を置く人が増える。
ついにはほとんどの人が匙を置いてしまった。
なんとも言い難い沈黙が『星露の間』に漂う。
九重はきょときょとと席に着く一同の顔を伺ってみた。全員が美味しい物を食べて嬉しい、とはお世辞にも言えない顔をしている。渋柿を食べてしまったときのようなぎゅんっとした顔だ。
ここまでくると九重も察してしまった。
「ど、独特なお味ですわね」
国王の隣に座する女人が口火を切った。
「なんというか、身体に良さそうな味だ」
「とても……素材を生かしている気がします」
「……豆の味が……、濃厚ですな」
一見、良い反応のように聞こえるが、そうではない。何重にも風呂敷に包まれたようなもの言いだ。おそらく九重に気を使って、嘘は付かないよう出来る限り良い意味合いの感想にしてみたのだろう。
九重の視線が床に落ちる。
──ああ、不味かったんだ。
九重の大好きなお豆腐は、この世界の人には美味しいものでは無かった。
未知なる美味しい物を求めていた世界なのに、お豆腐は受け入れられなかったのだ。
「……っ」
九重の視界が滲む。鼻の奥がツンとする。
泣いてはならぬ。侍の子がそう簡単に涙を零してどうすると。そうは思うが次第に涙は大きな粒になっていく。九重はぎゅっと両の拳を握り締めた。
「あ、あの……」
九重の様子に気付いたらしく、女人が狼狽えた声を出す。席に着く一同が小さく騒ついた。
その時である。
かちゃりと、匙を置く音がした。
「真に美味である」
落ち着いているのによく通る声でそう言ったのは、国王ジルバードだった。
「……う?」
聞き間違いかと思い九重が顔を上げてみれば、国王のその表情には自然な笑顔が浮かんでいた。
皿に視線を向ければ、なんと綺麗にお豆腐か無くなっているではないか。
九重は勢いよく国王を見上げた。
「コノエ殿、大変美味しかったぞ」
「ほ、ほんとうですか……?」
国王の言葉を信じたいが、いかんせん他の人達の多くは、皿に奴豆腐が残っている。国王も異なる世界に喚んだ手前、九重に気を使ってくれているのでは無いのだろうか? 一国の王ならば、それくらいの腹芸は簡単だろう。
今までは、どんなに不味い料理を作っても、次兄が綺麗にさらってくれていた。ここまであからさまに拒否されるのは初めてで、九重は少し不安定な状態だ。
九重の眉がへにゃりと下がる。
国王は小さく笑った。
「ふふふ。こう見えても私は美食家なんだ。この者達より断然舌は肥えている」
「お父さまったら……」
国王のおどけたような物言いに、隣に座する女人がつんと唇を尖らす。そのおかげで場が和んだ。
「いや、私が美食家なのは本当だ。若い頃はとにかく美味を求めておった。そう、異なる世界より喚びし料理人に毎食ねだるぐらいにな」
「異世界の料理人……」
九重の呟きに国王が懐かしそうに目を細める。
「うむ。先ほどコノエ殿に見せた絵を描いた、日本人の料理人だ」
九重の胸がとくりと鳴る。
「コノエ殿からしたら未来の料理人になるその男は、いつも美味しい料理を作ってくれて、私は彼の料理の虜だった。海老フライ、カツカレーにカツ丼、ハンバーグ。……毎日毎日、今日の料理はいったいどんなものなのか楽しみであった。しかしある日、彼は今までとは全く趣の違う料理を出してきたのだ」
「趣の違う?」
九重が訊けば、国王は重く頷いた。
「彼が出した料理は『お茶漬け』という質素な料理だった」
「お茶漬けですか」
「ああ。コノエ殿は知っていると思うが、お茶漬けとは、炊いたご飯に具材を載せて、その上からお茶をかける簡単な料理だ」
お茶漬けは湯漬けより後年に誕生した食べ物だ。
一昔前ならともかく、お茶が江戸に広く行き渡った今では、庶民も手軽に食べれる一品である。
冷めたご飯にお茶にお漬物。これだけなのに、なんとも美味い。
お江戸では朝に一度お米を炊く。しかし炊いた後は保温することは出来ないので、昼と夕は冷めたご飯を食べる。そんな冷や飯を美味しく食べるため、湯をかけたりお茶をかけて食べたりするのだ。地域によっては出汁をかけるとこもあるらしい。
「父上は美味しいと言ってお茶漬けを食べていたが、当時の私には、どうにも美味しいとは思えなかった」
国王は苦笑した。
「味は薄いし、なんとも物足りない。そもそも米にお茶をかけるのがありえない。そんな事を彼に言えば、彼は笑いながら「美食家が最後に行き着くのがお茶漬けなんだぞ」と言っておった」
国王は、ひどく懐かしそうで、それでいてどこか寂しさを載せたような複雑な面持ちになっていた。
「彼はその数日後、元の世界に帰って行った」
国王は瞼を閉じて一度深く息をついた。
「それから私は、事あるごとに彼の言葉を思い出してはいても彼の言葉に納得は出来なかった。お茶漬けなんかより美味しいものは他にも山ほどあると。……しかし」
国王の瞳が九重に向く。その目はとても穏やかだった。しかし九重というよりも、もっと深いものを見ている気がした。
「今日、ようやく彼の言葉がわかった気がする」
お茶漬けと奴豆腐。
使っている材料に共通点は無いが、共に簡素な料理である。手をあまり加えてないからこそ、何よりも素材が持つ本来の味が引き立つのだ。
──美食家が最後に行き着くのがお茶漬け。
国王ジルバードは、ようやく彼の料理人が言わんとすることを、頭ではなく感覚的に理解した。
若い頃のジルバードなら、一口で奴豆腐も拒否していただろう。しかし今現在、素材を生かしたこの料理を自然と美味しいと思った。
「今ならきっと、お茶漬けの美味さもわかるだろうな」
過ぎ去った刻に想いを馳せたのだろう国王は、しばらくの間窓越しから青く澄んだ空を見つめていた。
◇◆◇◆◇
「陛下、そろそろ」
「ん、……ああ。すまん、そうだな」
国王の近くに座っていた小柄な老齢の男が声をかければ、物思いにふけっていた国王は視線を戻し苦笑した。照れ臭かったのだろう。
「さて、コノエ殿。来たばかりだというのに料理を作ってくれて感謝する。のう、グリノオ」
「ええ、今食べた『やっことうふ』は、我々が求めていた今までに無い新しい味です」
そう言ったグリノオと呼ばれた老齢の男の皿には、ほんの少しだけ欠けた奴豆腐が残っていた。
九重の胸に、ひゅんと冷たい物が通った。
「これから三年間、宜しく頼む」
そんな国王の言葉は、九重の耳を通り過ぎていた。
※『奴豆腐』は現代でいう『冷奴』になります。
作中に出てくる特殊能力『スペティア』は、特別を意味するラテン語の『スペキアーリス 』+力を意味するラテン語の『ポテンティア』の造語です。