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朝のオフィスは、思っていたより静かだった。
キーボードの音と時折鳴る内線。
それ以外は、ほとんど何もない。
「一ノ瀬さん、これお願いしてもいい?」
「はい」
短く返して、資料を受け取る。
社会人になってまだ数日。
慣れたとは言えないけど、流れはなんとなく掴めてきた。
「それ、俺やるよ」
顔を上げると、同期の佐藤くん。
「いいの?」
「全然」
軽く笑って、自然な動きで資料を受け取る。
距離は近すぎない。
手が触れることもない。
――ちゃんとしてる。
ふと、そう思った。
仕事も早いし、受け答えも柔らかい。
周りとも上手くやってる。
“目立つ人”だった記憶はあるけど、
もっと、こう。
雑な印象だった気がする。
(……こんな感じだったっけ)
画面に視線を戻しながら、考える。
キーボードを打つ指は止まらないのに、
意識だけが少しずれている。
昼休み。
同期でまとまって食堂に向かう。
「一ノ瀬ってさ、大学どこだっけ」
誰かの問いに答えながら、席につく。
向かい側に、佐藤くんが座る。
目が合う。
一瞬だけ。
それだけで、すぐ逸らされる。
(……あれ)
別に、不自然じゃない。
会話の流れの中の、ほんの一瞬。
でも、なぜか引っかかる。
「佐藤も槻大だよね?」
別の同期が話を振る。
「だよー」
軽く頷く。
「じゃあ一ノ瀬と同じじゃん」
「え?」
全員の視線が一瞬集まる。
「……同じだね」
そう言うと、佐藤くんが少しだけ笑う。
「どっかで見たことある気はしてた」
その言い方も、自然で。
距離もちゃんとしてる。
(ちゃんと、しすぎてる)
理由は分からないのに、
胸の奥に小さな違和感が残る。
コピー機の前で、紙を揃えていると。
「手伝う?」
振り向くと、佐藤くん。
「大丈夫」
「そ」
それ以上は近づかない。
横に並ぶこともなく、少し離れた位置で待っている。
必要以上に、近づかない。
(……前は)
そこまで考えて、手が止まる。
前。
講義室の後ろ。
ざわついた空気。
笑い声。
距離が近くて、
少しだけ、眉をひそめた記憶。
「ねえ」
気づけば、声に出していた。
「ん?」
「大学のときと、全然違うね」
一瞬、間が空く。
ほんのわずか。
でも、確かに止まった。
「……見てたのかよ」
苦笑。
「結構目立ってたし」
紙を揃えながら、続ける。
「正直、ちょっと苦手だった」
言ってから、少しだけ間を置く。
責めてるわけじゃない。
ただの事実。
佐藤くんは小さく息を吐いて、
「まあ、だろうな」
それだけ言った。
それ以上、何も言わない。
踏み込まない。
(……やっぱり)
コピー機の音がやけに大きく響く。
エレベーターを待つ人の列に並ぶ。
隣に佐藤くん。
距離は、ちょうどいい。
肩が触れることもない。
近すぎず、遠すぎず。
完璧なくらいの距離。
「先、どうぞ」
ドアが開いて、軽く手を差し出される。
「ありがとう」
中に入り、横に並ぶ。
やっぱり同じくらいの距離。
(ちゃんとしてる)
社会人として正しい。
何も間違ってない。
なのに。
エレベーターが降りていく。
沈黙。
誰も何も話さない。
「……ねえ」
小さく声を出す。
「ん?」
「なんかさ」
言葉を探す。
うまく言えない。
でも、そのままにしておけなくて。
「距離、ちゃんとしてるね」
一瞬だけ、視線が向く。
すぐ逸らされる。
「まあな」
短い返事。
それだけ。
それ以上でも、それ以下でもない。
エレベーターが一階に着く。
ドアが開く。
外に出る。
そのまま、自然に少し距離が空く。
「じゃ、お疲れ」
「お疲れ」
背中を向けて歩き出す。
振り返らない。
追いかけない。
ちょうどいい距離。
――なのに。
(なんでこんなに)
足を止めて、少しだけ振り返る。
もう、いない。
「……変なの」
小さく呟く。
正しいはずなのに。
前よりずっと、ちゃんとしてるのに。
何かが違う。
その違和感だけが、
消えずに残った。




