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カーチャは、懐かしい生家の庭でひときわ大きな木の下、木漏れ日を顔に受けてむずがる妹の影になってあげながら子守歌を口ずさむ。こんなに穏やかな気持ちになれたのはいつぶりだろうかと思って、これが夢だと気づいた。
子守歌が止まる。けれど、妹は目覚めない。
「姉さま! カーチャ姉さま?」
「フリード、どうしたの? エリーが起きてしまうわ」
「ごめんなさい、姉さま。でも、エリーザベトは姉さまが隣にいたら起きないですよ」
やって来た弟の顔は、逆光で見えなかった。きっと不貞腐れて唇を尖らせているのだろうと思い出せるのに、あと一歩進んでくれたら顔が見えそうなのに、弟はそこから動いてくれない。
「姉さま、また本を読んでください」
「ええ、いつでも読んであげる」
「また歌を歌ってください」
「好きなだけ聞かせてあげるわ」
「また花冠を作ってください」
「いくらでも。私たちの王子さま」
「お父さまからひどいことを言われたら教えてください」
「助けてくれなくてもいいのよ。自分だけを守ってちょうだい」
「僕が後を継いだら、助けてあげます」
「ふふ、そうね、待ってるわ」
いつか聞いたおねだりや、ちょっと大人ぶった物言い。叶わなかった約束ににじんだ涙を拭うために俯くと、弟がすぐ傍に来てくれる。どうしても顔が見たくて涙がこぼれるのもかまわずに頭を上げるけれど、まだ幼いためにあたたかくて柔らかい腕に抱きしめられて、何も見えない。
「カーチャ姉さま。僕も、エリーも、姉さまが大好きです」
起きないはずの妹が、カーチャの放り投げていた手を握ってくれる感触がした。
「ずっとです。ずっと、なにがあっても、カーチャ姉さまが大好きです」
あふれた涙が弟の着ている服に吸われていく。けれど嗚咽は消しきれなくて、泣き方のへたくそな子供のようなひきつり声が止むことはなかった。
そうしてカーチャは、眠るように夢から覚める。
起きたカーチャの頬に、涙の跡はない。凭れ掛かっていたソファのひじ掛けの跡がついて赤くなっているけれど、それも少し時間を置いたら消えてしまった。
「来ていたのか」
「はい。閣下は、エルボロー嬢とお会い出来ましたか?」
「おかげさまでな」
部屋を空けていたロードリックが戻ってきて、従者に上着を預ける。それからカーチャの正面に座るが、カーチャが眠っていたことすら気づかない。それよりは今ほど会ってきたミュリエルとの話を早くしたいのか、従者が茶の用意をするのすら待ちきれない様子だった。
テーブルの上にティーセットが用意され、話の場を整えると従者はカーチャにも丁寧に礼をして下がっていった。すでに夕食の時間も近いので茶菓子の代わりに軽食が並び、ロードリックは早速手を伸ばしているが、カーチャは従者が出て行った扉をしばらく眺めている。
「調査は、順調ですか?」
「ああ、それも君のおかげだな。エルボロー嬢にも報告したが、まだ全貌は掴めていないながら今ある証拠だけでも取り潰しは確実だろう。……君はどうやって、マクラウド男爵が我々を裏切っていると知ったんだ?」
心底不思議がっている声で尋ねられて、カーチャは視線だけをロードリックに移す。
「閣下が私の素性を気にされるのは初めてですね。どこまでお知りになりたいですか?」
「君からいくつか情報をもらったが、すべて役に立っている。だから言いたくなければ言わなくてもいい」
「では言いたくありません。閣下も私の情報を信じているだけで、私自身を信じているわけではないでしょう。私も同じです」
「信じていない? ここに来て、そんなことを言われるとは思わなかったな」
「あら、まさか信じているとでもおっしゃるんですか?」
「君の素性は知れないが、君の行動は俺の助けになっている。それに、今更君が俺を裏切る? すでに一蓮托生だというのに?」
真顔で言われて、カーチャもふむ、と考えた。
カーチャは、よりロードリックの興味を引くため、そして作戦の足掛かりのため、様々な情報をロードリックに提供した。それを元に侯爵家の権限をもってして調べれば、それだけで復讐相手を追い落とすことが可能だろうという情報ばかりだ。カーチャの望む結果には及ばない、司法の力での決着になるが、ロードリックがひとりで叶えることが出来る。
カーチャがロードリックを裏切ったら、ロードリックからの庇護を失う。司法の力での決着であれば、相手はわずかながらも力を残すことが出来るため、庇護のないカーチャなどあっという間に報復されるだろう。
また、ロードリックにしてもいつか相手が力を取り戻した時の報復に備えなければならない。
「おっしゃる通りですね。今更、お互いに裏切れないのなら信じているといっても間違いではありません」
「そうだろう。だが、それはそれとして、マクラウド男爵のことだ。彼は俺の両親のころからずっとこちらを裏切っていた。とても狡猾で、君が持ってきた証拠の手紙がなければ調査も意味がなかっただろう。なのに君はその裏切りを知っていて、証拠を確保してくることさえ出来た。その優秀さは、王室直下の諜報部隊に所属していると言われても納得する」
「……では、本当にそうかもしれませんね。私は王家の諜報員として、この件についての解決のため派遣されてきたのです」
「馬鹿を言うな。解決のためだからといって、王家の諜報員が王太子に害を為すようなことをするわけがないだろう」
芝居ぶって言ったことを、ロードリックは一刀両断する。カーチャはそれに、ロードリックの頭の固さを思い出してうんざりと首を振った。最初に作戦について話した時も、この頭の固さで逐一カーチャのもたらす情報に難癖をつけてきて、詳しくは自分で調べろと納得させるのに苦労したものだ。
「私の情報源は私の素性に密接に関わっております。ですので、そうですね、我々の復讐がすべて無事に完遂されましたら、お話して差し上げましょう」
ロードリックはカーチャのもったいぶった言い方に、ぎゅっと眉を寄せる。精悍な顔つきに見合う少々濃い目の眉がよりその存在感を増すので、ロードリックのこの不機嫌な顔はよく人の印象に残った。普段からよく笑う性格でもないが、この不機嫌顔のせいでいつでも怒っているように覚えられている。
不服を訴えるロードリックにかまわず、カーチャはようやく体をテーブルに向けた。しかし、食事には手を付けずに、不遜な態度でソファのひじ掛けにもたれる。
「一番初めに申し上げたとおり、私が何者かなど重要ではありません。閣下の益になるうちは利用し、害になるのなら捨てればいいのです。これまでの私の働きはいかがです?」
「文句のつけようがない。……失礼した。君を信じているなどと言いながら、疑うような真似をした」
「理解します」
ロードリックはすでに侯爵として広大な領地を治め、家臣を抱えている。屋敷に勤める使用人は下女下男にいたるまで紹介状を必要とし、得体のしれない人間が傍にいたことなどなかった。それを考えると、カーチャを受け入れたことそのものがありえないことだったと、カーチャも自覚している。カーチャの望んだ復讐において、ロードリックとの初対面がもっとも難しいと考えるほどだった。
「それで? エルボロー嬢とのお話はいかがでした?」
「ああ、そうだったな」
カーチャは、ロードリックの協力さえ取り付けられたら、この復讐を完遂する自信があった。だからロードリックがミュリエルと話してきた内容さえ予想出来るほどだったが、さすがにそこまでは言わない。のんびりと軽食を口にしながら、ロードリックの話を待った。




