9話
ミュリエルはひと息つくと、大事な話があると宣言した。さいわい、噴水のある公園は誰もいないので存分に話して問題ないだろう。思いの外真剣な顔つきにハリスも襟をただす。
突拍子もない話だから無理に信じなくていい。そう前置きして、ミュリエルは繰り返し見る夢があることを伝えた。収穫祭の日にハリスが死ぬ。それを食い止めようと足掻いたけれど、どれも失敗してまたそれが夢になる。
「俺が、殺される」
「ごめんなさい。気持ちのいい話じゃないわよね」
婚約を解消すればと一縷の望みにかけたけれど、それはもっとも恐ろしい結末を迎えてしまった。
悪夢を終わりにしたいと願ったミュリエルは父を領主の座から引きずり下ろし、隠居の道を選んだ。もう大丈夫だろうと思った。元凶である父はいなくなり平穏を取り戻したと思っていた。身の内でくすぶる後悔と焦燥にはフタをして、目を逸らして。けれど収穫祭を間近に控えたあの夜に屋敷は火に包まれたのだ。
「ああ、またダメだったと思った。でもね、その時にハリスが言ったの。自分に言ってくれたらよかったのにって」
ずっとずっとひとりで頑張っていた。だって根拠が夢だなんて、誰が取り合ってくれるというのだろう。
頭がおかしいの。そう言って自嘲気味に笑い、ミュリエルはあの日記帳を見せる。証拠というには頼りなく、十日以上書かれた夢の記録は見返してみるとなんとも味気ないものだった。最後のページだけはいっぱい書いたけれど、それで信じてくれるのかはわからない。ハリスを横目で盗み見するとひどく難しい顔をしていた。
ミュリエルは申し訳なさそうに肩を落とす。やはり夢の話などしなければよかっただろうか。
しかしハリスの返事は意外なものだった。
「……充分にあり得ると思う」
今後起こりえることだとハリスは言う。夢だからとバカにせず、真剣に耳を傾けてくれたことにミュリエルはぐっと涙がこみ上げる。
「予知夢ってやつならすごいよ。もしかしてこれがベイクウェル家の奇跡ってやつなのかな」
そう言って柔らかく笑ってくれるハリス。しかしすぐ表情を改めるとあごに手をやって考え込んだ。
「俺を単体で狙うんじゃなくてミュリエル嬢がいる時に狙う。きみが襲われると思ったら俺はとび出すよ。それが相手の作戦だと分かってても」
ミュリエルはそれを聞いて、今までに死んでいったハリスを想った。
「きみは領主様のひとり娘で、正式な後継者だ。婚約者は俺に決まって横入りはできないし、領主様のガードも堅い。俺が狙われるのも、きみが狙われるのも充分にありえる」
ミュリエルの身に危険が及ぶことをハリスはずっと懸念していたという。だけど実際に死んだのはハリスばかりだ。ミュリエルはいつも守られた。
「私は……裏で糸を引いているのはお父様だと思ったわ」
ギリギリまで決めなかった婚約、ハリスを邪険にする態度。ハリスの人柄を無視し、都合がいいというだけで据えられた婚約者がいなくなって、いちばん嬉しかったのは父に違いない。そう思ったからこそミュリエルは父であるダーレンを……
「それなんだけどさ」
そう言うとハリスは照れくさそうに視線を逸らした。
「俺とミュリエル嬢の婚約が発表されたのは最近だけど、実は俺、ずっと前から領主様に言われてたんだ」
ハリスがどうしてそんな表情をするのか分からず、ミュリエルは思わず目をぱちぱちと瞬かせた。いったい何の話だろう。
「大事な大事な娘を他の男にやるなんて心の底からイヤだけど、俺だったら考えてもいいって。それでさ、ミュリエルがどんなにいい子か話しまくるんだよ。小さいけど姿絵もくれてさ」
ふたりで庭の茂みからミュリエルを覗き見て、娘を天使だなんだと褒めたたえる父ダーレン。それにハリスが同調するとなぜか怒られる。そんな理不尽な日々が過去にあったそうなのだ。
「……なに、それ。はじめて聞いたわ」
そうだよね、とハリスが苦笑した。手元に視線を落としたまま言葉を紡いでいく。
「本当にイヤだから婚約の発表はずっと先だって。それまで縁談はぜんぶ断るから、おまえも黙ってろって言われたよ。口の軽い男はミュリエル嬢も嫌いって聞いたら黙ってるしかないだろう?」
本当に娘が好きなんだなって思ったよ。ハリスはそう話を結んだ。ミュリエルはとても信じられなかった。だけどそれは夢での姿を知ったからであって、以前なら受け入れられたかもしれないとも思う。むしろミュリエルがよく知っている父の姿だ。
「前のお父様だったらそう言っていても不思議じゃないわ。でも最近は……あなたの事になると不機嫌を隠そうともしないし、領主という立場に固執されているような気がする」
「それは俺も感じてた」
狂人とかしたダーレンの主張は『領主を続ける為にはミュリエルがソフィアになればいい』というとんでもないものだった。抜き身の剣を振り回し、アンやヘレンまで傷つけた。豹変したと言葉にすれば簡単だけど、もとは優しくて責任感が強い人だったのだ。どうして、と歯痒く思わずにはいられない。
ハリスが難しい顔をして首をかしげる。
「誰かが領主様を陥れようとしている? でもそういうことが可能なのかな……」
「お父様がのんでいるお薬を調べられたらと思ってはいるんだけど」
ふたりして黙り込む。ぎりぎりの綱渡りをさせられている気分だった。少しでもバランスを崩せばミュリエルの周りにいる全員が闇の中へ落ちていきそうな、そんな危機感を覚える。だけどまだ落ちていない。慎重に足を踏み出せば、希望はある。
「そういえば……病や頭の怪我で人が変わるって聞いたことあるな」
「それ、詳しく教えて」
ぽつりともらしたハリスの言葉にミュリエルが食いつく。
「俺も詳しくは知らないんだけど、温厚で優しかった人が頭を強くぶつけてから性格が豹変したんだって。その人はそれからしばらくして亡くなったんだけど、調べてみたら頭打った場所が内部で出血を起こしてたんだよ。お医者さんいわく、豹変の原因はそれかもしれないって」
同じように、病で頭に血の塊ができるとそんな症状が起こる場合があるという。ミュリエルは自然と自分の手をかたく握りしめていた。父ダーレンは以前から薬を服用している。それは頭の痛みをとる薬だとアンは言っていた。まさか、まさか。
「ねえミュリエル嬢、夢の中でダーレン様の気が触れて領主の椅子から降ろされたって話あったよね。あれ、場を仕切っていたの誰かわかる?」
そんなの決まってる、と名前を言おうとした時だった。
「お嬢様ぁー! どこにいらっしゃいますかー!」
広場に響くけたたましい声にぽかんと口を開けた。ベンチに座るふたりを見つけると、アンはエプロンがひるがえるのも気にせず、ものすごい勢いで駆け寄ってくる。
「アンはやりましたよ! 褒めてください!」
そう言ってエプロンのポケットから取り出したのは小さな紙の包みだった。
「ダーレン様が飲まれているお薬です!」
◇
ミュリエルは一度自室に戻り、きれいなドレスへ着替えた。手伝ってくれたヘレンに礼を言うと、そのままぎゅっと抱きしめる。
「あらあらあら、うちのお姫さまったらいくつになっても甘えん坊なんですから」
ヘレンは優しく抱き返してくれた。勇気をもらえた気がして元気よく部屋を出る。待たせていたアンとハリスを伴い、ミュリエルは父の執務室へ向かった。コツコツとしたヒールの音が廊下に響き、いつのまにか心臓も早駆けしている。
「お父様、少しよろしいですか」
ドアをノックしてから重い扉を開けると、ダーレンが机に構えて資料を読んでいるところだった。ミュリエルを見るとぱっと表情が明るくなり、目尻のしわが深くなった。
「どうしたんだミュリエル。おめかしまでして可愛らしい」
ぶっつけ本番の大立ち回りだ。しくじるわけにはいかない。ミュリエルは気持ちを落ち着けて口を開く。
「……急にお邪魔してごめんなさい。でも聞いてほしいことがあるの。とても大事なことです」
ただならぬ雰囲気を察知したのか、ダーレンの表情がすっと引き締まる。部屋の中にいた側近たちも黙って成り行きを見守っていた。
「お父様は今、ご病気を患っておいでです。お願いします、どうか治療に専念してください。私、お父様が心配なんです」
ざわりと空気が動いた。ダーレンの表情は変わらないが、まとうオーラが黒く重たいものになったのを肌で感じる。けれどミュリエルは今までずっと一緒に過ごしてきたのだ。どう言えば父が断りづらいかは彼女が一番知っている。
「何を言うかと思えば……父はこんなにも元気なのだぞ? まだまだ領主の座は渡せんさ」
「お父様……」
夢の中でミュリエルは父を痛めつけた。鉄でできた重たい火かき棒を振り上げた。大切な人たちを傷つけられた復讐を、あの一撃に込めた。だけどもう二度とあんなことはしたくない。そんな思いがミュリエルの目に涙を浮かべる。
「お父様は、最近ひどく頭が痛んだりしませんか? 手足が痺れたりしませんか? 意識がぼんやりすることはありませんか? お父様のご両親は突然倒れての急死です。それは血の巡りが悪くて起こるものだってお医者さまに聞きました」
心当たりがあるのか、ダーレンは片眉をぴくりと上げた。事実、ダーレンの両親は早くに死んでいる。いつも通りに過ごしていたのに突然倒れて医者が駆けつけた時には亡くなっていた。心臓か脳を患っていたんだろうと診断されていた。
「お願いします、まだ私はお父様と一緒にいたいのです。だからどうか、この願いを聞き入れてください」
心からの願いは父に届くだろうか。ミュリエルにはただ訴えることしかできない。