8話
急いでベッドを抜け出して袖で鼻を覆う。ほぼ暗闇で見通しがきかない上、どこが火元かわからず無闇に歩き回ると危険だ。でも徐々に煙が部屋に入り込んでいるし長居もできない。
まずは部屋の外に出ようと一歩踏み出すと、突然部屋のドアが開いた。まさかハリスが助けに来てくれたのかと目を凝らすと、その人は布で口元を覆って手に斧を持っていた。
「すいませんお嬢さま、命令なんです」
声からして男のようだがハリスではない。
「逃げようとしても無駄ですよ。こいつであちこち壊しましたから」
男は見せつけるように斧を手でもてあそんだ。さっき聞いた衝撃音はこの男が屋敷を破壊する音だったのか。
「生きながら焼けるのはツラいと聞きました。煙で意識を失うか、おれがこいつで叩いた方がよっぽど楽に死ねると思います」
そう言って男はミュリエルに近づいた。
「……だれ」
久しぶりに出した声はひどく掠れていた。
「お、お嬢様、口が聞けないんじゃ」
「いいから、答えて。誰から命令されたの」
「い、言えません。あの人は恐ろしい。どこで聞いてるかわかりゃしねえ」
男は斧を持ったままぶるぶると首を横に振った。目が暗闇になれて男が誰だかようやくわかった。
「あなた、厨房にいるジョンね」
確かアンが言っていた。ジョンには病気がちな妹がいて彼女のために一生懸命働いていると。ミュリエルはカッとなって力の限り声を張り上げた。
「今すぐ逃げなさい!」
男は斧を握りしめて目に涙を浮かべた。ミュリエルの喝に一歩後ずさると、みしり、と傷ついた屋敷が悲鳴をあげた。
「妹がいるんでしょう! あなたがいなかったら誰が守るのよ! いいから逃げなさいってば!」
ミュリエルが吠える。その迫力に押され、男は逃げだした。しかし入り口の近くで突然吹っ飛ばされてしまった。そして聞き覚えのある声が降ってくる。
「お嬢様、ご無事ですか!」
「……ハリス?」
ひいっと情け無い声を出したのは斧の男だ。
「あ、あんた、何でここに……おれが、納屋に……」
「縄の縛り方がなってないんですよ。兄はもっと容赦なくやりましたからね」
その言葉を聞くや否や、男は部屋を飛び出した。だが屋敷をあちこち破壊していたのが災いし、部屋の出入り口を塞ぐように壁や柱が倒れてきた。運悪く、男はそれに押し潰された。
ハリスはとっさにミュリエルの目を覆う。暗がりと煙でもう見えないにも等しいのだが、その心使いが嬉しい。ハリスは自分の口元を覆っていた布を外すと、ミュリエルの鼻元にそれを当てた。そして申し訳なさそうに眉を下げる。
「お守りできず、申し訳ありません」
「いいえ、あなたはいつも守ってくれた」
「……あなたの声がまた聞けて嬉しいです」
ハリスがここから脱出しようと試みたが出入口をふさぐ壁材や柱はどうにもならず、煙は量を増している。頭はくらくらしてきたし、意識も長く持つまい。ミュリエルは死を覚悟した。
「ねえ、ベッドに横にならない? 疲れたし、息も苦しい」
ミュリエルはハリスの手を引くとベッドに寝っ転がった。ハリスは硬直していたが、ミュリエルが引っ張ると諦めたように体を横たえた。どう考えても助からないのなら、少しでも楽にしていたい。
はしたないと思いながらハリスに身を寄せた。不思議と安堵が広がる。
「……私、楽しみだったのよ、収穫祭であなたとダンスを踊るのが。いつも夢を見ていた。みんなが祝福してくれて、花も食べ物もお酒もいっぱいあって、町の人たちはみんな笑顔なの」
この期に及んで何を言っているのだろう。そういえばミュリエルはずっとこんなふうに話がしたいと思っていたのだった。
「でもその夢が楽しいのはそこまで。舞台の上で、あなたは私をかばって死んでしまうの。何度夢見てもそうなるの。夢の通りになりたくなくて、でも誰にも言えなくて……お父様を追いやったのも、夢のせい。私は頭がおかしいの」
つらくて、悲しくて、でもこんな話信じてくれる人なんていないからひとりで黙って耐えた。ハリスがミュリエルの体を抱きしめた。煙から守るようにしっかりと。
「俺には話してくれてもよかったのに」
ハリスが苦笑する。ミュリエルはもう意識がぼんやりしてきた。
「ハリスはいつもそう。そうやって私を守るの」
「好きな女の子を守るのは男の務めですから」
「好きな人が死ぬのはもう見たくないわ」
「……それって、自惚れてもいいんでしょうか」
「知らない」
ハリスの声が遠くなってきた。もう手足の感覚もない。
「ふたりで生きましょう。この時代じゃなくても、この国じゃなくても、次に目が覚めたらふたりで生きる世界を見つけましょう。約束です」
最後に聞こえた言葉はミュリエルの魂を癒した。死を回避するために足掻いて傷ついた心を優しく包んでくれた。
もう一度チャンスがあるのなら、私はまた立ち上がりたい。あなたと生きる未来のために。
そうしてミュリエルの意識は深い底に沈んでいった。
◇
目が覚めたミュリエルは、ここ最近の中で一番心が穏やかだった。
手探りで日記帳を探すとやはりある。最後の日付を見ると今日は9月22日。この日を過ごすのは実に三回目になる。
ミュリエルはできるだけ思い出して日記帳を埋めた。一回目はもうほとんど覚えてないけれど、逆から辿っていけば案外思い出せる。
二回目は婚約を解消したいと父に申し出て、全てがおかしくなった。狂人とかした父、殺された人々に絶望して、三回目はミュリエルも自暴自棄になっていった。この手で父を殺したいと思うほど追い詰められていたのだ。思い返すと胸が痛い。
できるだけ順を追って詳しく書き記す。異常としか思えない行動だが、頭がおかしいのだから仕方ない。開き直ってどんどん文字で埋めていった。
お手伝いさんが朝の支度に来てくれたので、準備を終わらせるとアンを呼んでもらった。そして頼みごとをひとつふたつ。せめてもの気持ちで取っておいた焼き菓子を持たせると、今度は町へ行く準備をした。
「ヘレン。誰か来ても私は具合悪くて寝ているって伝えてちょうだい。じゃ、私は出かけてくるわね」
呼び止めるヘレンの声を無視してミュリエルは城の中を駆け出した。すれ違う人たちがみんなポカーンとしているが、そんなの気にしてられない。運動のし過ぎで具合悪くなったって事にしてもいい。とにかくミュリエルは町へと急いだ。
走り慣れない体はすぐに息があがり、肺が苦しい。でも走り続けた。込み上げてくる思いが体を突き動かした。
まだ朝の町はひと気が少ない。ミュリエルは目的の店が視界に入ると、あともう少しと己に鞭をうつ。その軒先にはひとつの人影があった。
アンはさっそく頼みを聞いてくれたらしい。
「ハリス!」
勢いのまま彼の胸に飛び込むと、ハリスは目を白黒させながらも抱きとめてくれた。
「ミュリエル嬢、用があるって元気なメイドさんから聞いたけど。いったいどうしたの」
「あのね——」
その時、膝がかくんと折れた。ずっと走っていたものだから、すっかり膝の力がなくなってしまったのだ。危うく地面に着きそうになった所でハリスが支えてくれた。
「ごめんなさい、足に力が入らなくなっちゃって」
「……えーと、ごめん、君の父上にはあとで怒られるから」
そう言ってハリスはミュリエルの背中と膝の裏に腕を回すとひょいと横抱きにしてしまった。
「あ、あのっ」
「噴水のベンチまで行こう」
「でも私、重いし」
顔を真っ赤にするミュリエルだが、ハリスだって負けていない。
「しばらくカッコつけさせて」
ミュリエルはずるいと思った。どうしてハリスはこんなに自分を夢中にさせるんだろう。ドキドキと高鳴る心臓が生きていると実感させてくれる。
ミュリエルもハリスも生きている。
ふたりで生きる世界を見つけよう。あの時ハリスと結んだ約束を、ぜったいに叶えてみせると心に誓った。




