7話
目覚めた時、気分は最悪だった。
ベッドの上でミュリエルは頭を掻きむしった。細い指に抜けた髪が絡みつく。
父が狂い、大勢の血が流れた。あまりのショックにお昼になってもミュリエルはベッドから起き出せず、横になったまま過ごしている。食事は喉を通らなかったし、全ての面会を断った。
日記の最後の日付は9月21日となっている。
今日は22日。夢の中では婚約の解消を父に告げた日だった。あの大惨事すら夢にされたのだ。
ミュリエルは裸足のままベッドから抜け出ると、見るのも嫌になった日記帳を暖炉に入れて火をつけた。火かき棒で突きながら真っ赤に燃えていく日記帳を胡乱な眼で眺める。全てが灰になったのを見届けて、ミュリエルは部屋の外に出た。
ぺたぺたと足を鳴らしながら石造りの回廊を歩く。耳障りな金属音が聞こえるのは、右手に持った火かき棒を引きずっているからだ。
ミュリエルは父の執務室へと向かった。
扉を開けて中へ入ると、父ダーレンはぎょっとした顔で娘を見る。中にいた役人たちも驚いたが、ミュリエルの放つ圧に負けて部屋の隅に身を寄せた。
「どうしたんだい」
「お父様教えて」
机を挟んで正面から向かうと、ミュリエルは光のない目をダーレンに向けた。
「どうしてハリスを殺すの」
ミュリエルは知っている。夢という非常識な空間で何度も何度も味わった。
「隠さないで。感謝祭で彼を殺すんでしょう? 私と踊っている時に悪漢に襲わせるし、私が踊りを拒否したら毒の入ったお酒で殺すわ。体調が悪いとその日に祭りに出なくても、あなたはハリスに『見舞いに行ってやってくれ』と送り出して城のメイドに殺させる」
「どうして……」と漏らしたのをミュリエルは聞き逃さなかった。肯定したのも同然だ。近くにいる役人たちがひそひそと何かしゃべっている。中には側近のトビーもいて、二人の動向を静かに見守っていた。
「目的は何? 私を苦しめたいんですか?」
「……まさか。おまえをこんなに愛しているのに。まあでもあの男が気に入らないのは真実だね」
ダーレンは困ったように笑った。ミュリエルもつられて笑った。本当にそう思っているのなら——
「お父様は頭がおかしいわ」
周囲の人間が声をあげると同時に、火かき棒を振り上げて、父の体へ強かに叩きつけた。
「私も頭がおかしいの」
肩を押さえてダーレンがうずくまる。役人が寄ってたかってミュリエルを囲み、火かき棒を取り上げてしまった。役人の中では年若いトビーが前に進み出た。ミュリエルは寝巻きのままだというのに堂々と相手を見た。そこには小さな威厳があった。
「お父様に領主のお仕事は無理よ。私も頭がおかしい。だからトビー、あなたが代わりに治めてほしい」
トビーは床に膝をつき、ミュリエルに頭を垂れた。
「御意に」
◇
ミュリエルは平穏を取り戻した。収穫祭は領主不在で行われ、ハリスが死ぬことはなかった。
ダーレンは気が触れたとして療養を機に領主の座を退き、執政はその親戚筋であるウィギンス家に任された。これは継承者であるミュリエルの進言によるところが大きい。
そしてミュリエルとハリスの婚約はたち消えた。
領主の娘という肩書きはなくなり、執政権も譲り、もはやただの少女だ。ただ皆の好意によって、城内にある離れの小さな屋敷で日々穏やかに暮らしている。
本人はもう結婚しないと宣言し、実際に嫁にほしいとの声を全て蹴っていた。もう感情が全て枯れ果て、ミュリエルは笑わなくなってしまったのだ。しゃべることもほとんどない。
トビーはミュリエルの世話役としてハリスを指名した。ハリスは傷ついて殻に閉じこもってしまったミュリエルに寄り添った。天気の良い日には散歩に誘い、季節の花を愛でたり、町に出向いたりした。返事はなくともやさしく声をかける姿はまるで夫婦のようだったという。しかし彼らは主人と使用人の関係で、ハリスが彼女に触れるということもなかった。
「花がきれいですよ、お嬢様」
そう言って花で作った冠を頭に乗せてくれた。はるか頭の奥にあった夢の記憶が甦る。収穫祭の舞台で踊るためにたくさん練習して笑いあった。そして本番の前に、恥ずかしそうに頭に乗せてくれた花の冠。だがそれもおぼろげだ。
夢の出来事を書かなくなって、ミュリエルは狂気の世界からはじかれた。日記帳が無くなった今、本当にそんな悪夢を見ていたのかと自分を疑ってしまう。全ては灰の中に消えてしまい、確認する術はない。
たまにアンやヘレンが遊びに来ると、表情は変わらずともミュリエルは嬉しそうだった。アンがお城の様子を話したり、ヘレンに刺繍を教えてもらうといつのまにか時間が過ぎていく。そうして穏やかに時は過ぎていった。
全ては終わり、そして新しい時を刻んでいく。
ミュリエルは時々母からもらったペンダントを握りしめて最後の言葉を思い出す。
『ミュリーが幸せになりますように、愛する人と結ばれますように』
はたして今のミュリエルは幸せなのだろうか。幸せなのだろう。愛する人とは結ばれなくても、生きて笑っていてくれる。
後悔があるとすれば、あの日父を傷つけてしまったことだ。本当は殺すつもりだった。ダーレンはアンを、ヘレンを、そしてハリスを殺した。みんなが味わった苦しみや痛みを思えば、自分の父であろうと火かき棒で滅多打ちにしてやりたかった。
けれども、父へ打った一撃はミュリエルの小さな手に重く響いた。痛みもあった。他者を傷つけることがこんなにも心を痛めるものだとは知らなかった。
時が流れていくにつれ後悔が押し寄せる。もう少しやり方があったんじゃないか。あの日ダーレンは部屋から問答無用で連れ出され、その足で遠く離れた療養所まで連れて行かれた。ろくに調べもせずだ。そして父はその日の夜に自ら毒を含んで亡くなったという。ベイクウェル家からも籍を外され、葬儀に参加することはできなかったし、先代領主の死としてはあまりにも寂しいものだ。
治世は決して悪くなかった。民の為にと奮闘する領主で、妻と娘を愛する父だった。どこで歯車が狂ったのだろう。……もう考えても仕方ない。
窓辺でぼーっと考え事をしているとハリスが肩にブランケットをかけてくれた。
「空気が冷えてきましたね。何か温かい飲み物をもらってきましょうか」
ハリスと一緒に過ごす時間がミュリエルの心を癒してくれる。『ミュリエル嬢』と呼んでくれた婚約者はもういないが、今ここにあるもので満足しなければいけないのだ。胸にわずかに込み上げる焦燥感を無視して、ミュリエルは前を見つめた。
◇
収穫祭を二日後に控えた日の夜。
ミュリエルは夜中に目を覚ました。屋敷の中でガツン、ガツンと何かを叩っ切る音が聞こえる。思わず体を起こすが、今度は強烈な異臭に鼻を押さえる。
(……木が燃える匂い)
この小さな屋敷が燃えているのだと気付くのにさほど時間はかからなかった。