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脳汚染  作者: 青空あかな
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第九話

 デヴィッドが気づいていたことは、もはや誰の目にも明らかである。毎日のように警察へ捜索願が提出され、病院は認知症患者で溢れかえり医療崩壊の危機だった。人々はすでに、人から人へ感染する認知症の存在を認めざるを得なかった。


 「くそっ、これは一体どうなってるんだ。感染する認知症なんて聞いた事ねえぞ」日本の都内にある総合病院に勤める大木豪は、消化器外科医であるにも関わらず脳神経内科の手伝いに駆り出されている。「そんなこと言ったって実際にそうとしか考えられないっすよ」同じ消化器外科の後輩の森井信夫も同じく手伝いに来ていた。


「最初に気づいていたのはニューヨークの先生だって言うじゃないですか。しかも学会で発表している時にはすでに発症してたみたいなんですよ。僕らも認知症になっちゃうんですかね」「馬鹿野郎。俺らまで認知症になってたまるか。大方、感染予防対策を怠ってたんだろうよ」


 彼らはともに防護衣、サージカルマスク、フェイスシールド、ディスポキャップ、グローブに身を包んでいる。防護衣の中は汗だくだった。患者が途切れた僅かな一瞬でも同僚と会話できると、少し心が軽くなる。


 感染性を持つ認知症の存在が明らかになってから、世界にかけがけて日本ではいち早く対応がとられていた。各病院は特別外来を設置し、他の疾患で受診する患者との空間的接触を防止している。認知症検査についても、従来より簡易的かつ迅速な検査法を新しく開発した。


 「それにしても、感染経路が全く不明とはな」世界中の医者や研究者が感染源や感染経路の特定に躍起になっているが、これといった結果はまだ出ていない。現場の頑張りで何とかなってるのは、どこの世界でも同じだった。もちろんこの病院にもアンドロイドは多数配置されていたが、患者の目の前に立つのはほとんどが生身の人間である。


 「患者さんがいらっしゃいます」診察室の扉の前で看護師の声が聞こえた。「はい、どうぞ」返事をしながら、二人の男達は気合いを入れ直す。「こんにちは、よろしくお願いします」マスクをした高校生くらいの若い女性が、礼儀正しく母親と入室してきた。授業の内容が理解しにくくなったため、受診を決めたそうだ。


 彼らは卒なく問診を終え、検査を行なっていった。若干ではあるが記憶力に問題があり、この忌々しい病気に罹っている疑いがある。診察の最後に伝えると母親は泣いていたが、対照的に本人は冷静だったのが印象的だった。感染経路が不明な以上、現段階では入院するのが原則である。大木達は急いで入院の手続きを進めた。不運に襲われた母子を見送ると、交代時間がやってきた。


 「お疲れ様です。ゆっくりお休みになられて下さい」交代の医師達が優しい言葉をかけてくれる。「お疲れ様です。どうもありがとうございます」大木達は診察室のすぐ後ろに用意された、専用の更衣室で装備を外していった。


 片方のグローブを摘み、皮膚に触れないよう慎重にめくるようにして外す。完全に外し終わったら、もう片方のグローブを付けている手で丸めて掴んだ。剥き出しになった指を片方の、まだ装着されているグローブの内側に差し込む。引っ張りあげるように外し、そのまま専用のゴミ箱に捨てた。


 直ぐさま手洗い場に行き、ハンドソープで注意深く手を洗う。手をかざすとセンサーが感知し、自動的にハンドソープが出て来た。両の手の平、手の甲、指の間、指一本一本、手首まで念入りに洗う。フェイスシールドのフレーム部分を持ち、頭から外して感染物用廃棄ボックスへ捨てた。ガウンは蝶々結びされた首紐と腰紐をほどき、袖から腕を抜いていく。もちろん、表面に触れてはならない。


 ガウンから腕を完全には抜かずに、裏返すようにして脱いでいく。その状態のままガウンを巻くようにして丸めて捨てた。ゴム紐を摘んでマスクを顔から外して捨てる。ディスポキャップは髪に触れないよう両手で表面を摘んで外した。最後に先程と同じよう丁寧に手を洗い、これでようやく外の世界へ戻れる。


 「ふう」診察が終わった後は思わず声が出てしまう。「お疲れ様でした、先輩」「ああ、お前もな」「あの子可哀想ですね。まだ若いのに」「馬鹿。そんなこと言うな。ガキだろうが年寄りだろうが病気になって嬉しいやつなんていないんだ」大木は仕事には真剣だが口調が荒いのが難点だった。


 「先輩、そんな口調が荒いままだといつまでも奥さん来ませんよ」「あん?何だとてめえ」「結局あの人とは上手くいったんですか?」「そ、それは今はどうでもいいだろうが」「ま、どうせ愛想尽かされてるに決まってますけどね」「て、てめえ。言わせておけば」「この前会った時、私ってそんなに馬鹿なのかな、って泣いてましたよ」「な、なに!?」予想外の展開に大木は動揺を隠せない。


 「僕だけじゃなくて色んな人に相談してますよ。大事にしてあげないとそれこそ可哀想だと思いますけどね。先輩、影で何て呼ばれてるか知ってますか?妖怪女泣かせ次郎坊ですよ」「な、なんだと。この野郎、ふざけやがって」「いててて。いやいやいや、名付けたのは僕じゃないですって」「どうせお前も喜んで呼んでんだろ。同罪だ」非常事態でも普段通りの会話が出来る同僚がいるのは幸せだった。


 この新型認知症は非常に厄介な代物である。人から人への感染性を持つことは明らかであったが、感染源や感染経路が未だに掴めずにいた。


 大木は今日入院した少女の萎縮した脳のMRI画像を見ながら森井に問いかける。「血液検査の結果はどうだ」「特段異常は無いですね。血圧や脈拍も正常ですし」世界の医師達は本来ならば認知症は感染しないが、これに限っては脳の感染症と捉える者が多かった。現段階では、この疾患は新種の微生物によって引き起こされる疾患と考えられている。


 「ウイルス、細菌、真菌あとは原虫と……寄生虫もあったか。脳に感染症起こすものっていっぱいありますねぇ。これ全部調べるんですか」「あとプリオンもな。原因がわからん以上、少しでも可能性があるものは全部調べるしかないだろうな」


 通常、脳にウイルスや細菌が感染すると髄膜炎や脳炎といった脳の炎症が発生することが多い。体内で炎症が起きると炎症性マーカーと呼ばれるものが上昇するが、全くそのような所見は認められなかった。森井は大木に血液検査の結果を見せる。


白血球数:5.6×10³/μL

C反応性蛋白質:0.01mg/dL

赤血球沈降速度:5mm/1h

血清アミロイドA蛋白質:7.1μg/ml


 炎症を示すマーカーは軒並み基準値以内だった。「やっぱりこの人も血液検査でみる限り炎症は無さそうですね。先輩、MRI画像の方ではどうでしたか?」大木は脳のMRI画像を森井へ見せる。脳の萎縮といった認知症に特徴的な画像所見以外、これといった異常はなかった。


 「膿瘍形成や脳圧亢進状態も認められんな」「念のため髄液検査も行いますか?」「そうだな、一応やっとくか。たぶん他の患者と同じように何も出ないだろうがな」髄液検査は局所麻酔下で実施可能であり所要時間も三十分程度のため重宝されている。


 「よし、じゃ早速患者さん呼ぶか」先程の少女と家族に検査の内容を説明し、専用の感染予防対策がとられた検査室へ案内した。少女をベッドに横向きに寝かせ、背中を丸めるように指示する。看護師に服をめくってもらった後、森井は少女の腰部を注意深く触り、第三腰椎と第四腰椎の場所を確認する。注射器で局所麻酔薬を注射して数分待つ。


 麻酔の効果を確認し、専用の細い針を刺して髄液を採取していった。髄液は無色透明である。無事に必要量採取し、刺入部を消毒して医療用の絆創膏を貼ることで処置部を保護する。


 「はい、お疲れさまでした。麻酔はあと1時間もすれば段々切れてくるからね」 森井は少女へ優しく声をかけると、看護師が病棟まで連れ戻していった。検査の度に感染予防の装備を装着したり外したりしてると、効率も悪くコストもかかるため検査はなるべくまとめて行われている。


 「いつまでこんな生活が続くんですかねぇ」「馬鹿、弱音を吐くな。俺たちがそんなんでどうする」大木は自分に対しても渇を入れるつもりで森井へ言った。

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