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脳汚染  作者: 青空あかな
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第十話

 現時点でこの新型認知症が致死性を持たないことはほぼ確実である。発症者の中には死亡する者もいたが、全てその他に罹患していた基礎疾患が原因か徘徊中の事故などによるものだった。また、死に至る病では無いとはいえ、先行きの見えない状況に人々は疲弊していた。


 病理解剖の結果、発症した患者の脳は老人斑の出現やβアミロイドタンパクの蓄積といったアルツハイマー病の病理所見に近い。一般的に認知症はβアミロイドタンパクが分解されず蓄積することで神経細胞が死滅し、認知機能が低下すると考えられている。何かがβアミロイドタンパクの産生と蓄積を促進しているはずだったが、その何かがわからなかった。


 「やっぱり、この前検査した人は皆何も出てこなかったですね」森井の前には髄液検査の結果があるが、髄液初圧や髄液蛋白といった髄液一般検査や、細菌、真菌、結核菌などの染色や培養の結果、ウイルス抗体価の結果に至るまで全て正常である。


 「ちくしょう、一体何が原因なんだ」大木は汚れた天井へ向けてため息を吐くように言った。 世界中の医師や研究者が大変な努力をしている中、ある研究者が脳波を測定してみることを思いついた。


 彼は親友がこの新型認知症を発症してしまったことをひどく悔しがっている。見舞いに行った時必ず治すと誓ったが、原因も分からない以上治療法を見つけるのは不可能だった。


 脳波を測定することはてんかんや頭部外傷を検査するときには重要な検査であったが、認知症検査に関してはあまり一般的ではない。彼はすぐに文献を探し始めるとともに、少しでも面識のある医師達に相談した。


 「こんにちは。私はルーカス研究所のルーカス・タイラーと申します。新型の認知症検査についてご相談があるのですが……。「悪いけど今忙しいんだ」電話をかけてみるが話す前に切られてしまう。殆どの医師には相手にされなかったが、一人だけ彼の意見を聞いてくれる者がいた。早速脳波の検査をしてみるという。


 「しかし、まさかお前が脳波の測定を思い付くとはな」昼食に病院のコンビニで購入した、醬油味のパスタを食べながら大木が森井に言った。「だから思い付いたのは僕じゃないですって、先輩。ニューヨークのルーカス・タイラーって研究者が教えてくれてんです」「良くそんな知り合いがいたな」「僕もそんな知り合いがいたことすら忘れてたんですけど、数年前ニューヨークで学会があったじゃないですか。そこで名刺交換してたみたいです」「ふん、なり振り構わず名刺を撒き散らすお前の習性が役に立ったわけだ」「そんな憎まれ口叩いてる暇があったら、さっさと飯食って機材運ぶの手伝ってくださいよ」


 最近、森井がどんどん馴れ馴れしくなっているのが大木は面白くなかった。「お前な、俺は仮にも先輩なんだぞ。もっと敬えんのか」「失礼致しました。次郎坊先輩」「この野郎!」その日から大木達は脳波の測定も行うことにした。


 「ちょっと先輩、これ見て下さい」森井が大木を呼ぶ。「どうした、何か出たか」「はい、何か変な脳波が出ているんです」森井は脳波計に記された波形を見せるが、大木は脳波についてそれほど詳しくはなかった。


 「馬鹿、何か変ですじゃわからんだろ」「……まさか先輩、脳波のこと何も知らないんじゃないですよね」「ば、馬鹿野郎。知ってるわ、それくらい」「まだ何も言ってませんけど……。しょうがないですねぇ、簡単に説明しますからちゃんと聞いといてくださいね」「ぐ……っ」森井は大木へ説明し始める。


 人間の脳は百四十億個の神経細胞があると言われており、その細胞一つ一つはシナプスと呼ばれる繋がりを持っている。神経細胞がシナプスを介して情報を伝達するとき活動電位と呼ばれる微弱な電位信号が生まれる。脳全体のそれを機械で検出したものが脳波だ。


 正常の脳波は周波数帯域順にδ波、θ波、α波、β波、γ波の五種類に分類される。てんかんや頭部外傷の検査の時に特に有用性を発揮し、意識障害の程度を客観的に診断する際に最適な検査法と言える。


 「ざっとこんな感じですかね」「お、おう。せ、専門外でもちゃんと勉強してて偉いな」大木は素直に褒めるしかなかった。「で、どうなんだ」「さっき言った五種類の脳波のどれでもない波形が混ざっているんです」「ほう」「先輩、ちゃんとわかっていますか?」「いいから早く説明しろ!」周波数とは波形の波が一秒間で何回生まれたかを示している。「ここ見てください」森井は波形の一部を指差した。


 「ここ、周波数が百Hzほどの波形が出ています」「それがどうした」はぁ、と森井は大きなため息を吐く。馬鹿、と言いそうになるのを大木はぐっと堪え、ふう、と息を整える。「教えてくれ」


 「この脳波が感染源の可能性があります」「……は?何言ってんだお前。脳波が感染源なんて聞いた事が無いぞ」「でも他に考えられないですよ」耳を疑う話だが各種微生物に対する反応が見られない以上、森井の仮説にはある程度の説得力があった。


 「こんな脳波はてんかんや他の脳の疾患でもまず見られないですよ。この特殊な脳波がβアミロイドタンパクの急激な蓄積を促しているとしたらどうですか?」「いや、しかしなぁ」「急いでほかの人も調べてみましょう」


 脳波検査を進めていくと、次々とこの百Hzほどの周波数を持つ特殊な脳波の存在が明らかになっていく。大木は把握していなかったが、森井は院内で情報共有を進めていたらしい。しばらくすると、その事実は患者を含め、病院内の人間の殆どが知っていた。


 「やはりこれが原因ですよ、先輩」「まさかそんな事がなぁ」大木はいまだに信じ難い気持ちでいる。「てゆうかさ、何でお前一人で色々進めてるの?」「データもまとまったので、すぐに世界に知らせましょう」「おい、お前ら、これ見ろ」森井たちが院内の関係者達と準備を進めようとした時、テレビのニュースを見るように指示された。


 「……世界的に流行している新型認知症の感染経路は、ある特殊な脳波とだということがわかりました。こちらをご覧ください。ここに周波数が百Hzほどの波形が見られます。正常な脳波でも他の様々な脳疾患でも見られないことから、この特殊な脳波が感染を広めている可能性があるとのことです」 ニュース番組では、森井達がまとめたデータとほぼ同じ結果が説明されている。映像が切り替わり、どこかの国かはわからないが研究施設の内部と思われる場所での記者会見の場面に変わった。


「……我々が独自に開発した脳波測定器で新型認知症が疑われる患者の脳波を測定した結果、全ての患者においてこの百Hzほどの脳波の存在を認めました。さらに我々の研究グループは、死亡した患者の検体を独自に開発した染色法を用いて組織染色した結果、新型認知症に特有の変性した神経細胞を見つけました。この細胞が先程お見せした特殊な脳波を発している可能性があります」


 「俺たちの他にもやっぱり気づいている奴らはいたんだな。くそっ、データが揃うまでわざと公表しなかったんだ」人間も物量も豊富に揃っている国が先に知見を見つけるのは、当然といえば当然だった。「……でもこれで、この病気を倒せる希望が出て来ましたね」森井の一言で大木は医者としての本分を思い出す。


 「……あぁ、お前の言う通りだな」さっさと歩き始めた森井の後に続き、大木は彼らを待っている患者の元へ戻って行った。


  脳波が感染経路と特定されたが、その報道が世界中でパニックをもたらした。従来の感染予防対策が全く通用しないからである。人々は脳波を遮断することに躍起になっていた。


 電磁波を防げるということでアルミホイルが高騰し、家庭用のサイズの物で一メートル五千円する商品もでた。街中はアルミホイル製のヘルメットを装着した人で溢れ、アルミホイル製の保冷バッグに目、鼻、口の穴を開けた物をそのまま被る人も多数いた。


 「すっかり生活が変わっちまったなぁ」大木が病院から支給されたヘルメットの向きを調整しながら言う。「まぁ、こればっかりはしょうがないですね」食堂で向かいに座っている森井もヘルメットを被っていた。蛍光灯の光が反射してぎらぎらと光っている。


 感染経路がわかったとはいえ、感染可能範囲やその他具体的な情報は未だ不明であり、患者数は日増しに増えていた。ヘルメットの着用は必要だったが流行初期の重々しい装備は不要となり、その面では医療者達の負担はある程度軽減している。


 「しかしなぁ、どうやって治すんだろうな」この所、大木達は本職の科から離れて新型認知症の詰所にどっぷりいた。「蓄積したβアミロイドタンパクの除去か変性した神経細胞の除去に焦点を当てて研究が進んでいるみたいです」「いずれにしても脳内がターゲットだからなぁ。なかなか厳しいだろ」


 一般的な認知症の治療薬もまだ開発されておらず、特効薬の開発は難儀が予想されていた。

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