13. 私の抵抗
「…、…か、いつまで寝てるの?起きなさい」
体を強く揺さぶられて、慌てて起き上がる。手触りの良いシーツと布団に違和感を覚え、周囲を見回すと白い壁に囲まれた無機質な部屋のベッドの上に自分はいた。
ベッドサイドでは、忙しなく荷物をまとめている少し疲れた表情の女性が、こちらを振り返る。
あれ、誰だっけこの人?なんとなしに反対側にある窓へと視線をうつすとショートカットの黒髪の少女が、こちらを不思議そうに見ている。
この子は…?
「なにぼんやりしてるの?今日は一時退院でしょ。早く着替えてちょうだい。お父さんが車で迎えにきてるから」
私の布団の上に乱暴に着替えの洋服を置くと、お母さんは荷物を抱えて出ていってしまう。そうだ、あの人はお母さんだ。
そっか、今日は一時退院の日だったんだっけ?お父さんが迎えにきてくれたんだ!お父さんが来てくれるなんて久しぶりだ!待たせてはいけないとパジャマのボタンに手をかけながらベッドから降りると、背後からツンっとパジャマの裾を引っ張られる。引っ張られた裾を見ると私より小さな女の子が私を見上げている。緑色の綺麗な瞳をしていて、艶のある長い黒髪がよく似合うかわいい女の子だ。
「何処に行くの?ウルリーカ」
「えっ?」
場違いな少女の出現に一瞬面をくらう。ウルリーカ…?
その少女に釘付けになっていると、正面からボタンを掴んでいる手を取られる。前を向くと、骨のように痩せた白髪の濁った目をした少女が私の両手を握りしめてくる。恐ろしい容姿にびっくりして腕を引っ込めようとするが、力が強すぎて振り払えない。
「ウルリーカ。まだ、あなたの役目は終わっていない。アシルのところへ一緒に行こうよ」
「一緒に行こう私達と。お兄ちゃんが待ってるよ」
「つッ!」
二人の少女が不気味な笑顔を浮かべると、足下が歪み真っ黒な沼が広がり徐々に体が沈んでいく。二人を振り払おうともがくが、どんどん腕が絡みついていく。真っ黒な沼へ沈むことなんて怖くないと言わんばかりに笑みをたたえている。
怖い!誰か助けて!
恐怖で言葉が出なくなり、涙が溢れていく。
誰か…
『ウルリーカ!起きるんじゃ!!』
「はっ!」
起きろという声と共に、閉じていた瞳を開くと、真っ先に目に入ったのは、見慣れたクモの巣の張った薄汚れた天井だった。
あのクモ、いくら掃除しても、めげずに巣を張るんだよな…
寝返りを打つと火の消えた暖炉が目にはいる。時計は夜の11時を指していた。そういえば夕飯の後、談話室でエイミーと刺繍の練習してたんだっけ。シスター・クラーラが内緒よとホットミルクを作ってくれて飲んだとこまでは覚えているけど、そのままソファーで寝落ちしちゃったんだ。隣の一人がけのソファーを見るとエイミーが静かに寝息をたてていた。床に刺繍道具と刺繍途中のハンカチが落ちている。
最近、眠れてなかったし、今日は色々あったから疲れてたんだな。
「エイミー、エイミー起きて…」
ボーッとする頭を振りながらソファーから上半身を起こし、エイミーに声をかけるが起きる気配はない。
珍しいな…
寝落ちなんて私には珍しくないことだけど、エイミーはベッドに入らないと熟睡できないって言ってたのに。
「もう少し、寝かせてあげるか… それよりも、のど乾いたな」
たしか飲みかけのミルクがあるはず。
ソファーから立ち上がりテーブルを見るが、二人で飲んだミルクのカップはなく綺麗に片付けられていた。
シスター・クラーラが片付けてくれたのかな?ついでに起こしてくれても良かったのに。
不思議に思ったが変な夢を見たせいか寝汗をかき、のどがカラカラに乾いていて、それどころではなかった。
食堂に水を飲みに行こうか悩む。悪夢を思い出すと一人で暗闇のなか、食堂に行くのが怖くて躊躇してしまう。気持ち良さそうに寝ているエイミーを起こすのも可哀想だし、もう少しこのままにしておいてあげたい。
今日は月も隠れてるからエルマーは出てきてくれないだろうし、エイミーと鉢合わせしたら面倒なことになるのが目に見えている。
「…一人で行くか」
談話室から食堂までは一直線だから廊下を走り抜けたら、怖くないはず、たぶん…
「よし!」
一呼吸ついてドアノブを勢いよく回し、廊下に出てよーいどん!で食堂へ走り出そうとすると黒い大きな壁に勢いよくぶつかる。
「いたっ!」
「おっとぉ。なんだ、もう目が覚めたのか」
自分の勢いがよすぎたのか壁が頑丈なのか、弾き飛ばされて尻餅をついてしまう。聞き覚えのある声に、ぶつかったのは人だということがわかった。
今日は月が雲に隠れて出ていなかったため、真っ暗で前に人がいたのに気づけなかった。
「大丈夫?」
「ごめんなさ…い」
暗闇から手を差しのべられて、警戒もせず掴もうとすると知らない男の人が目の前にいた。だんだん目が暗闇に慣れてくると男の人が、にやにやと笑みを浮かべて茶色の瞳は粘着質そうに、こちらを見ていることに気づいた。声は確かに聞いたことがあるのに、こんな人知らないし、この時間の孤児院にいるのもおかしい。
『ヘルマ愛してる。ヘルマと一緒になるためなんだ』
『ダミアン』
「あっ…」
違う知ってる。脳内で眼前の人の声が、教会で聞いた会話で再生される。
私の戸惑いに気付いたのか、男の人が私の宙に浮いている手を握りしめて、無理矢理立ち上がらせてくる。
この人、シスター・ヘルマの恋人だ!
嫌な予感がして手を振り払おうとするが、大人の力を子供では振り払えない。急な出来事に足を踏ん張る前に強い力で手を引っ張られ、大声を出そうにも、恐怖で焦れば焦るほど口が震えるだけで声が出てこない。
「い、や…」
「静かにしろ」
なんとか声をしぼり出そうとすると、シスター・ヘルマの恋人、ダミアンが舌打ちして表情が一変した。めんどくさそうに私を掴んでないほうの手で、持っている布を私の口に当てようとしてくる。漂ってくる刺激臭が吸ったらだめな物だとわかるのに、必死に片手で叩いたり頭を振ってもがくが逃げ切れない。逃げようと、もがけばもがくほど刺激臭を吸ってしまう。
『ウルリーカ!!蹴り上げるんじゃ!!』
辺りに響く大きな声にハッとなり、声の言う通りにダミアンの股間を思いっきり蹴りあげた。
「いっ!!」
その瞬間、手が離れダミアンがうずくまる。急に手が離れたため、私も勢い余って廊下に転がってしまう。
『走れ!!』
誰だかわからない声に言われるまま、ふらふらと立ち上がり反対側へと走り出す。嗅がされた薬のせいだろうか、頭が少しずつぼんやりと霞がかってくる。
後ろから呻く声が聞こえるから、まだ大丈夫。急いでお兄ちゃんの部屋に行けば助かる。もう少しだから、頑張って!
ふらつく体を叱咤するけど、歩いてるんだか走っているんだか、わからなくなってくる。
もうすぐ子供部屋というところでランプを持ったシスター・ヘルマが立ちはだかった。距離をあけて立ち止まる。
「シスター・ヘルマ…」
知っている顔に喜ぶところだけど、私の姿を見ても表情を変えず冷たい視線を向けてくるだけで無言だ。この人は、もう味方じゃない。
後ずさるが、後ろにはダミアンがいて引き返せない。背中に嫌な汗が流れる。
「怖い?助けなんて誰もこないわよ。みんな、ぐっすり眠ってるから」
「えっ?」
「私ね、あなたと似てるの。私も産まれてすぐに孤児院に捨てられていたの。母親の顔は知らないわ。」
この状況で脈略もなく始まる話に戸惑ってしまう。
「私、この容姿でしょう?だから、その他のことを凄く頑張ったわ。勉強もマナーもみんなが嫌がる仕事も率先してやった。でも養子に貰われていく子も請われて結婚していく子も優秀な自分じゃなくて、全部容姿の良い馬鹿な子達ばかり。容姿が良くなくても愛嬌があればいいんですって、本当にふざけてる」
「…何の話ですか?」
私の疑問に答えることなく、シスター・ヘルマは淡々と話しを続けていく。
「神父様は、卒業間近になっても結婚どころか仕事すら決まらない私に同情して、このまま孤児院で働くことを許可してくださった。とても惨めだったし、誰にも必要とされなくて寂しかった。孤児院での生活は苦痛以外何もなかった…だってみんな私を置いて去っていく。私だけがこんなところに取り残されて、次々くる孤児の面倒をみさせられるなんて、私のプライドが許さない!」
「……っ!」
遠い昔を思い出すような眼差しが、急に口を歪め私を睨んでくる。
「私は、ずっと惨めな生活を送ってるのに、あなたはなんなの!育ちは一緒なのに、何も努力をせず苦労も知らず、みんなに可愛がられて!将来も約束されてるんですってね、本当に目障り!あんたみたいなのが一番嫌いなのよ!!」
シスター・ヘルマが私に見せた激情に驚いて何も言葉が出てこない。般若のような表情に私を本当に憎々しく思っているのがわかり、体が震えてくる。
「ふふ、でもね。私、結婚できることになったの。ある仕事が終わったら、この生き地獄からやっと抜け出せる。私、幸せになれるのよ」
「仕事っ、て…」
「子供が欲しい人達がいるんですって。馬鹿で容姿の良い子がご希望だそうよ。ああ、もうひとつ、いなくなっても困らない子供。ねえウルリーカ、あなたにピッタリでしょう?そう思わない?」
怒りの表情が消えると、シスター・ヘルマには珍しい笑顔に変わる。ころころと変わる表情は狂気に満ち溢れていて、本当に自分は幸せになれるんだと信じて疑わない表情だ。
一歩、一歩近づいてくるシスター・ヘルマから後ろへと少しずつ距離をとるが、背後からもコツコツと足音が近づいきていた。
「なにしてるのよ」
シスター・ヘルマが私の背後に向けて、ランプを照らす。後ろを振りかえるとランプに照らされた赤毛の男が、のんびり歩いてくる。
「いやあ悪い、悪い。思いの外おてんばでね。お前が薬を全部飲ませないからこうなったんだぞ」
薬?飲む?そうかミルクに何か入ってたんだ!だからエイミーも熟睡してたんだ!
助けがこないってことは、他のみんなにも飲ませたってこと?
「警戒されないように飲ませるのも大変なのよ」
ため息をつきながら、シスター・ヘルマも近づいてくる。
逃げようとすると、急に体がクラっと傾く。限界だった。嗅がされた薬が完全に効いてきているのか意識を保っているのが辛くなってくる。
何が起こってるの?私が何をしたの?これから何をされるの…
立ってられずへたり込んでしまう。
『アシル・ライゼガングを最悪にして最狂の魔導師にしてしまうウルリーカ。彼女は養子ではなく、幼児趣味の貴族に売られてしまっていたのだった』
頭の中で小説の一部分を思い出す。私、売られちゃうの?
『アシル・ライゼガングの最期は自分で研究所に火をつけ、ウルリーカを抱えながら朽ちてゆく。でも、不思議なことに焼け跡からは二人の遺体は発見されなかった。彼らが死んだのか、今だに生きているのか誰も知らない…』
私達の最後が、頭の中で繰り返される。私達、死んじゃうの?
「はー、やっと大人しくなったか」
ダミアンが、私を抱きかかえようとかがんでくる。
そんなの、そんな結末…
「絶対に嫌だっ!!」
私の頭上に、ダミアンの顔が近づいたのを見計らって、思い切り立ち上がる。ゴンっという鈍い音ともに、私の石頭がダミアンの顎にクリティカルヒットした。
「ぐっ!」
「ダミアン!!」
ダミアンが白目をむいて後ろに倒れていくと、シスター・ヘルマが慌てて駆け寄ってくる。もうシスター・ヘルマからも逃げられる気がしない。正面がダメなら上だ。
最後の気力を振り絞って、私の目線にある廊下の窓を思いっきり開けて、よじ登る。
頑張れ、もう少しだから。ここで捕まったら、お兄ちゃんを不幸にしてしまう。
夢に出てきたウルリーカの姿が頭をよぎる。
それよりもロリコンおやじに売られるなんて絶対に無理!断固拒否なんだから!
もう、全てを諦めるのは終わりにするんだから!!
間一髪、シスター・ヘルマの手が届く前に、なんとか裏庭に転げ落ちることができた。着地する力は残ってなくて、背中から落ちて、しこたま体を打ってしまった。
もう、痛くて動けない。目も開けてられない…助け、助けを呼ばなきゃ…
「あ…、アン、ドゥ、トロワ…助けて!!」
その言葉を最後に私の意識は途切れた。




