第一話 仮想敵国横断中
挿絵も生成AI
乾燥した風が、薄もやの向こうに透ける大理石の街並みを撫でていく。
ローゼンバルト神聖公国。整えられた人工庭園と無駄に美しいアーチ状の門塞が立ち並ぶその国は、一見するとおとぎ話の都のようだが、立ち昇る気配には微かに腐敗した香水の甘ったるさが混じっていた。
その街並みを遠望する小高い丘の道で、三人の女旅人が歩みを止めていた。
「ようやくだよ。仕方ないとはいえ、馬蜘蛛で町の中に入れないの、ほんと不便だよねー」
ダボダボに余った袖をなびかせ、大きすぎる伊達メガネの鼻当てを指先で押し上げながら、キムナ・カラムナが深くため息をついた。腰に差したゴツい革ベルトには、文官の象徴たる鉄扇が一本、無造作に揺れている。
「え? 町の中? 町の近く、とかじゃなく……?」
背後に立つファナ・モナが、怯えたように肩をすくめた。季節外れの分厚いポンチョは、チェストベルトの締め付けによって、かえってその下に潜む圧倒的な胸元の質量を不自然に強調させている。彼女は両腕を抱え込むようにして、自身の身体を小さく見せようと縮こまった。
「カラムナさん、あなたね。いえ、言いたい事はわかりますけど、あんなので町の中に入ったら、町が壊滅しますわ。いくら平民相手とはいえ、着地の度に踏み潰すのは、さすがに慎みがなくてよ」
ベレナ・エレナが、華やかなフリルドレスの裾を優雅になびかせながら切り捨てた。ピンク色の生地に幾重にも仕込まれたドレープは美しく揺れているが、その裏側には何本もの細身の投げナイフが重みを持って潜んでいる。完璧に巻き上げられたシニヨンヘアは、どれほど激しい運動の後でも崩れそうにない。
「いやいや、エレナ君。さすがに参謀だって、町の中に直接着地するなんて考えてないよ。ていくか、慎みがないどころの騒ぎじゃないよ。直接着地するとか、そんな発想が出来るところがエレナ君だよね。キミ、魔女かなんかなの?」
「まあ、魔女だなんて。魔女というのは、モントーリエ様の事を言うのですわ」
エレナは恍惚とした表情で胸元に手を当てた。その脳裏には、無駄な贅肉を一切排し、一本の槍のごとく凛烈にそびえる憧れの副団長の姿がある。
「いや、言わないでしょ。魔法使えないんだから」
「着地はともかく、馬蜘蛛で直接町の中に入っていくだけでも、建物壊さずに入っていくのは難しいですよ……?」
モナが、控えめに、しかし極めて的確な物理的懸念を口にした。2トンの巨体と5メートルの脚幅を持つ巨大蜘蛛が押し通れば、大理石の街路などひとたまりもない。
「え?建物を一つも壊さずに入っていかなくてはならないんですの? それは……別によろしいでしょう」
エレナは首をかしげ、当然のように言い放った。
「いやダメでしょ。エレナ君はあれだよね、領主とか領主夫人とか、絶対なっちゃいけないタイプだよね」
「それ、時々言われますけど、ちょっと意味が分からないんですのよね」
エレナは心底不思議そうにパチパチと瞬きをする。身のこなしの端々に三歩道家元たる洗練された品格が漂っているだけに、その破滅的な政治感覚の欠如が際立っていた。
「それはいいんだけど、キミたち。もしかして前に参謀が配った冊子、読んでないのかな?」
カラムナがガウンのポケットから、手書きの図解がびっしりと書き込まれた冊子を取り出し、パチンと手甲で叩いた。
「冊子?」
「馬蜘蛛操術の本、ですよね。読みましたけど……」
モナが小声で応じる。
「ああ、その本。冊子というから一瞬分かりませんでしたわ。それを冊子というのは止めてくださいませ。それは本です。なかなか面白い読み物でしたけど、実際にあんな事出来る人はいませんでしょう。完全に絵空事ですわね」
エレナは呆れたように首を振る。
「いやいやいやいや。やってるから。参謀が実際にあの操術で馬蜘蛛を操ってるの、何度も見てるでしょ」
「確かにあなたの馬蜘蛛の操作は大したものですわ。そこは認めます。けれど、あれはない。ありません。大体なんですの。『回転を加えて風を起こす』って。何にどうをしたら回転の力が加わるのかも謎ですけど、それくらいの回転で風は起こりませんでしょう」
「ああーー、そこからかー」
カラムナは天を仰ぎ、両手で顔を覆った。
「ちょっと、言い方。吾どもがまるで基本的な事が分かってないみたいに言うの、止めてくださる」
エレナがフリルの袖をひるがえし、ツンと澄ました顔で不満をあらわにする。
「カラムナ先輩が、馬蜘蛛で跳躍する時も、地破りの爆発を一切発生させる事ないのは、そういう……不可能な事を可能にしているからこそ、出来る事なのですね。本当に、すごい、です」
モナが感心したように目を輝かせた。
「いやいやいやいや、モナ君も。褒めてくれるのは嬉しいんだけど。不可能な事は可能に出来ないから。可能に出来ない事を不可能というのであって、参謀のこれは、ちゃんと訓練すれば誰にでも出来る事だから。そもそも今回だって、君たちがあれをちゃんと読んで、それに従ってちゃんと訓練してくれていれば、町に入るのに、地破りの爆発音が届かない範囲にとかいって、こんな手前で降りなくても良かったんだよ?」
「あなたの言う『ちゃんと訓練すれば』の『ちゃんと』の部分が万人に通じない仕様なの、どう説明したら理解していただけるのかしら」
エレナの冷ややかなツッコミが飛ぶ。2トンの巨体を絹糸の上を踏むように着地させる精密制御を「万人に通じる訓練」と呼ぶカラムナの感覚こそが、すでに常人の理解を超えているのだ。
会話を交わしながら街道を数分ほど下ったところで、不意にモナが足を止め、小さく悲鳴を上げた。
「あ……っ!」
街道の脇、伸び放題になった雑草の陰に、木枠が割れて倒れた馬車が転がっていた。
車輪は軸から折れ、周囲には散乱した荷箱の破片。そして、道路脇の泥の上に、二筋の干からびた血溜まりと、衣服を完全に剥ぎ取られた人間の死体が二つ並んでいた。白く落差のある皮膚の質感から、手前の肥満体型が商人、奥の引き締まった体躯が傭兵だと容易に察せられた。
山賊が返り討ちにあって倒れたのなら、衣服まで剥ぎ取られることはない。衣服についた垢と油の臭いが染みついた小汚い山賊の服を、わざわざ脱がせて持ち帰る商人など存在しないからだ。
「ここらへんは、山賊の産地かな?」
カラムナは死体を見下ろし、ガウンの襟元をいじりながら言った。
「いやな名産品ですわね」
エレナが心底嫌そうに整った鼻腔を鳴らす。
「まあでも、公国全体に広がる腐敗のせいで、山賊がはびこっているのは間違いないね。何しろこの公国じゃ、山賊どもが領主にみかじめ料払って目溢しもらっているって話だからねえ」
「まあ! 王国ならそんなこと、ございませんのに」
「そう?」
カラムナが意地悪い笑みを浮かべて横目で見ると、モナが気まずそうにモジモジと指をすり合わせた。
「あの、王国も、大概だと、思います……」
「お。モナ君も言うねー」
「それでも、ここまでひどくはありませんわ」
エレナは意地になって胸を張る。
「うーんまあ、僅差でそう言える可能性も、なくはないかな?」
「それは……同意してくださってるのかしら?」
「してないと思います、けど、その、すごく、がんばってると、思います……」
「そ、そう……モナ、あなたちょっと、言い返しにくいですわ」
モナの自信なさげな、しかし揺るぎない現実認識に突かれ、エレナは気まずそうに視線を泳がせた。
「あ、その。ごめんさい」
そのまま静かな街道を進み、日が傾きかけた夕暮れ時、ようやく三人は目標の町へと足を踏み入れた。
大理石の粉末を混ぜ込んだ白い建物が並ぶ街並みは美しく装飾されているが、すれ違う人々の目はどこか冷ややかで、身に纏う服からは独特のきつい香水の匂いが漂ってくる。
通り沿いの小さな宿屋を確保すると、カラムナは手際よく主人へ銀貨を滑らせた。この先の領境の検問所が河川の渡し場を兼ねていること、そこまでの距離や明日の朝一番の船の時刻などの情報を聞き出し、ついでにおすすめの食事処を尋ねる。
宿を出て教えられた酒場へと足を向ける頃には、空の茜色は完全に退色し、濃紺の夜空に冷たい星々が瞬き始めていた。
◇
酒場の扉を開けると、不快な熱気と安酒の匂い、そして肉の焦げる香りが鼻を突いた。
三人は壁際の小さなテーブル席につき、干し肉と野菜の煮込み、アツアツのグラタン風の焼き料理を注文して空腹を満たし始める。だが、不運にもその席は、酒場中の泥酔した男たちの視線を集める場所でもあった。
原因は明白だった。モナのチェストベルトによって極限まで押し潰され、かえって尋常ではない存在感を放っているその圧倒的な胸元である。
「へへ……おいおい、見ろよ。すげえ上物が揃ってんじゃねえか」
下品な笑い声を上げながら、酒臭い息を撒き散らすチンピラが二人、テーブルに近づいてきた。
モナは即座に肩をすくめ、恐怖のあまり「ひっ……」と息を呑んで固まる。
「下がれ下郎! ゴブリンとも区別のつかぬそのような風体で食事中の淑女に近付くとはどういう料簡か!」
エレナが即座に立ち上がり、美しいシニヨンヘアを揺らしてチンピラを睨みつけた。
「あぁん!? なんだこの女、生意気な口叩きやがって! 表へ出ろや、仕込み直してやるからよ!」
チンピラが激怒して叫び、周りの客が一斉に面白がりながら煽り始める。エレナが「望むところですわ」とフリルの裾を翻そうとした瞬間、カラムナがその袖を軽く引っ張った。
「待った」
カラムナは伊達メガネの奥の垂れ目を細め、エレナだけに聞こえる小声で囁いた。
「コイツらの仲間はあそこのテーブルだけじゃないよ。出ていったら複数人に取り囲まれて、参謀ら三人ボコボコにされたあげく、ボコボコに犯されてボコボコに孕まされることになるよ。ここは参謀にまかせて」
目配せを受けたエレナは、「またあなたはそんな……」と顔をしかめながらも、不満げに一歩下がった。
カラムナはヘラヘラとした笑みを浮かべ、チンピラの目の前に躍り出た。
「なんだネエチャン、あんたが胸をもましてくれるってのかい。いや待て、あんたの胸は……」
チンピラがカラムナの平板な胸元に視線を落とし、心底ガッカリしたような顔を見せる。
「なんだキミは失礼な奴だな。参謀の胸が揉めないってのかい?」
カラムナが誇らしげに胸を張った瞬間——
バカッ!
「痛ぇっ!?」
どこからか飛んできた重厚なエール用の木製コップが、チンピラの横っ面に直撃した。
チンピラが怒りに満ちた目で周囲を見回すと、少し離れたテーブルで酒を飲んでいた別のチンピラ風の客たちが、大声でゲラゲラと笑っているのが目に入った。
「てめえ! どういうつもりだ、オラぁ!」
激昂したチンピラがその客のテーブルへ殴りかかる。
「なんだとコラ!」
「やってやろうじゃねえか!」
一瞬で殴り合いが勃発した。そこへさらに、反対側の角のテーブルから——
スパァン!
「アツアツアツっ?!」
熱々のグラタン風料理がなみなみと入った陶器の皿が綺麗に旋回しながら飛来し、乱闘中のチンピラの頭頂部で弾けた。トロトロのチーズとソースが顔面に垂れ落ちる。
「舐めんじゃねえぞクソがぁ!」
チンピラの一味が激怒し、皿が飛んできた方向の客たちへ殴り込んだ。事態の異常さを感じ取った山賊の仲間らしい男が「待て、何かおかしい!」と止めに入ろうとしたが、その男の首根っこにも空の酒瓶が正確無比に叩きつけられた。
「うわあああ!」
「殺せぇぇ!」
酒場全体が、理由も分からないまま大乱闘の渦へと叩き落とされた。
「今だ、行くよ!」
カラムナはその狂乱の合間を縫うように、怯えるモナの袖を素早く引っ張った。
三人は乱闘の背後をすり抜け、扉を開けて夜の路地裏へと滑り出した。
少し離れた暗がりまで走り、息を整える。
「いやあ、参謀らもすっかり、チームワークに磨きがかかってきたね」
カラムナが満足げに鉄扇でパチンと手のひらを叩いた。
「あなたとのチームでチームワークが良くなってきたなんて言われると、自分が汚れていってるみたいでいやなんですけど。ていうか、あなた何回こんな事を繰り返すおつもり? 吾はもう、無銭飲食の片棒を担がされるのはいやなんですけど」
エレナが胸元に手を当て、心底哀しそうな顔で溜め息をつく。
「人聞きが悪いなあ。別に無銭飲食が目的じゃないからね。分かってると思うけど、結果的にそうなっただけで、基本的にはモナ君を助けようとしただけだからね?」
「あの、エレナ先輩。すみません。あ、ありがとうございます」
モナがペコリと頭を下げた。
種明かしをすれば、チンピラたちの顔面に正確にコップや熱々の皿、空瓶を叩きつけていた犯人はエレナである。
彼女は三歩道の秘術『水渡り』を用い、気配と足音を完全に消した状態で酒場の影から影へとすり抜けていた。酔っ払い客の背後や肘のわずかな隙間に潜り込み、あたかもその客自身が腕を振り回して物を投げつけたかのように角度と軌道を緻密に計算し、暗器のごとく食器を投げ回していたのだ。
「申し訳ないと思うのなら、その駄肉をいい加減、どうにかしなさい。吾が以前教えた、胸を小さくする歩法『鳩歩き』、最近しているのを見た事ありませんよ」
エレナがビシッとモナの胸元を指差した。
「あ、その、あの歩き方は、その」
モナが恥ずかしそうに身体を小さく丸める。
『鳩歩き』——それは三歩道に伝わる、密偵や隠密行動のための特殊骨格・呼吸操作技術である。
まず、肺の中の空気を完全に吐き出しきると同時に、横隔膜を限界まで引き上げる。そのまま鎖骨の可動域を内側へ滑り込ませ、左右の肋骨を一枚一枚畳み込むようにして胸郭全体を物理的に押し潰す。そして首と肩を鳩のように微細に前後させつつ、体内の容積を規格外に収縮させて歩くのだ。
本来は狭い隙間を通り抜けたり、自身の体積を偽装するための高度な秘術なのだが、これをモナがやると、圧倒的な巨乳が胸郭の中に力ずくで押し込まれ、呼吸の度に「ピキピキ」と骨が軋む不気味な音を立てながら、身体全体が奇妙にひねくれた鳩のような動きになるのだった。
「ほら、思い出しなさい! 息を吐ききって、骨を畳むのですわ!」
エレナが手本を見せるように首を前後させ、変形した歩調を踏んで見せる。
「あ、あの……」
「待て待て」
カラムナが慌てて手をかざして二人の間に割り込んだ。
「日は落ちたとはいえ、町中はまだヒト目があるから、その愉快な歩き方で注目を集めるのは止めてくれたまえ」
「う……うう……っ」
耐えきれなくなったモナは、真っ赤になった顔を両手で覆い、その場にすぽんとしゃがみ込んでしまった。
◇
宿に戻り、ようやくベッドに入って寝入りばなを襲われたのは、深夜のことだった。
表の通りから、松明の明かりと荒々しい靴音が近づいてくる。まもなくして、部屋の扉がノックもなしに勢いよく開け放たれた。青ざめた顔の宿の主人が立ち尽くしている。
「困るよ。あんた酒場で騒ぎを起こしたそうだね。いやそれはいいんだが、あんたたちが騒ぎを起こした相手、ここらを取り仕切る山賊の仲間なんだよ。外にあんたたちを出せって集まってるから、悪いんだけど、出ていってくれる?」
「あれ。もしかしてエレナ君の動きを見ていた人がいたのかね」
カラムナがベッドの上で身を起こし、伊達メガネをかけ直した。
「あ、あの騒ぎの中で、冷静に状況を、見ていた人が、いた────という、ことですね……」
モナが布団を首元まで引き上げ、ガタガタと震える。
「山賊とはいえ、なかなか侮れないものですわね」
エレナが冷ややかな手つきでフリルの乱れを整えた。
窓の外を覗くと、暗がりの中に十人ほどの不快な体臭と柄の悪い顔つきをした男たちが、手に手に棍棒や長ドスを持って集まっていた。
「こうなったらモナ君爆弾かな」
カラムナが何でもないことのように呟いた。
「え、わたし、爆弾なんか、もってないですけど」
モナが目を白黒させる。
「カラムナさん。あなた、いつも作戦参謀を僭称しているくせに、もってる手段がいつも最終手段しかないの、どうにかなりませんの?」
エレナが呆れ果てたように吐き捨てた。
「いやいつも咄嗟の事なんだから、最終手段用意してるだけ褒めてほしいんだけど?」
「あなたのお兄様の参謀長様なら、その「咄嗟の事」自体がないのではなくて?」
「まあ、それはそうなんだけどさあ」
実家の完璧主義者な長兄の名を出され、カラムナはバツが悪そうに口を尖らせた。
「いや、あの、エレナ先輩? さ、最終手段って、どういう事ですか。わ、わたし、爆弾なんか……」
モナは混乱と恐怖のあまり、自分のポンチョの裏や服の隙間に爆薬が括り付けられていないか、必死になって手探りで身体を探り始めた。
「いやいや。モナ君、もしかして自分の体に爆弾を仕込まれて放り出されるとか思ってる? いやさすがにそれはないから。さすがの参謀でも、仲間にそんな非道なマネはしないよ」
「で、ですよね。あ、あはは……」
安堵の息を漏らすモナに、カラムナは優しく微笑みかけた。
「まあモナ君。まあこちらへ」
カラムナに手を引かれ、モナは訳も分からぬまま宿の玄関へと連れていかれた。扉を開け、夜の通りへ踏み出す。
「あ、出てきたぞ! あの巨乳と貧乳だ!」
待ち構えていた山賊たちが、下卑た歓声を上げて押し寄せてくる。
カラムナは山賊たちに向かって、爽やかに手を振ってみせた。
「ご参集の山賊諸兄、こんばんわ。さあこちらがご所望の牛さんだ。たっぷり堪能してくれたまえ」
言い放つやいなや、カラムナはモナの背中を、ポンと優しく、しかし確かな力で押し出した。丸腰のまま。
「え、な、なにを……」
「へ、わかってんじゃねえか。だがこれだけの騒ぎを起こしてくれたんだからな。これくらいで俺たちの腹がおさまると思わねえことだ」
酒場で最初に絡んできたチンピラが、ニヤニヤしながらモナの細い手首を乱暴に掴み上げた。
その瞬間——。
「ひいいいいい?!」
極限の恐怖と男性への忌避感が、モナの脳内のタガを完全に叩き割った。
裏返った甲高い悲鳴とともに、モナの腕が不規則な軌道で跳ね上がる。
ドゴォン!
手首を掴んでいたチンピラが、回転しながらアスファルトのような石畳に叩きつけられ、頭骨を鳴らして一瞬で昏倒した。
「なっ!?」
驚いた別のあらくれが力ずくで押さえ込もうと手を伸ばしたが、モナは無意識の体術でその巨体を背負い投げのごとく宙へ放り投げた。男は近くの家の外壁を突き破って砕け散る。
「いやあああああ!! 来ないでぇぇぇ!」
モナは両腕を振り回して暴れ始めた。近くで様子を見ていただけの何もしていない無法者までもが、その理不尽な腕力の前に次々と吹っ飛ばされ、悲鳴を上げて転がっていく。
「牛は牛でも、暴れ牛だけどね」
カラムナは腕を組んで納得顔で頷いていた。
わずか一分足らず。暗闇の通りに転がっていた十人ほどの山賊は、誰一人として立つ者がいなくなっていた。
「やめてええ……って、え、あ、あれ……?」
全員が沈黙した路地の真ん中で、モナがハッと我に返り、自分の両手を見つめて首を傾げた。
そこへ、背中に愛用のハルバードを担いだエレナが、優雅な足取りで宿から出てくる。
「あら。あなたの得物、せっかく持ってきてあげたのですけど、必要なかったみたいですわね」
「あ、エレナ先輩。カラムナ先輩も、エレナ先輩も、ひ、ひどいです……」
モナの目からポロポロと涙がこぼれ落ちる。
「この状況でひどいなどと言われましてもね。十羽一絡げのザコに一騎当千の荒武者を投げ込んだだけでしょう?」
「そう聞くと確かにひどい。山賊側の視点でだけど」
カラムナが補足する。
「で、でも、あんな怖い、荒ぶった殿方たちに囲まれて、わ、わたし……」
「こんな気の弱いバーサーカー、扱いに困りますわね」
エレナは呆れたように息を吐いた。
「ダイジョーブダイジョーブ。モナ君のことは参謀がしっかり使ってあげるから」
カラムナがポンとモナの肩を叩く。
「え、それって……いいように利用するって聞こえるんですけど……」
「モナ君は気が弱いようで、案外カラクチだよね。でもまあそれは、単なる解釈の仕方でね。「人に利用される」というのと「人の役に立つ」というのは、同じ意味だから。言葉の印象が悪いだけ。重要なのはそこじゃない。大切なのはモナ君自身の意思さ。そうだろう? モナ君は、誰に利用されたいかな?」
モナはハッとして息を飲んだ。
脳裏に浮かんだのは、冷たい金瞳で自身を真っ直ぐに見つめ、「襟元が乱れている。胸をしまいなさい。良い踏み込みだった。評価に値する」と言葉をくれた、あの凛々しい副団長の姿だった。
「……っ」
モナの頬が、ぽっと朱に染まる。
気絶した山賊たちが転がる夜の町を歩きながら、三人の会話は取り留めもなく続いた。
だが、これで揉め事が終わるはずもなかった。
町を逃れるように抜け出した直後、闇の木立から倒された無頼漢たちの本隊——十数人の山賊の残党が、怨嗟の声を上げて襲いかかってきた。
暗闇に乗じた吹き矢と長ドスの一斉襲撃に対し、カラムナは巧みに敵の体を盾にするような位置取りをして同士討ちを誘い撹乱、すかさずエレナが『水渡り』の無音歩法で影を滑り気道と手首を寸分たがわず突いて無力化、そこへパニックを起こしたモナが「来ないでええ!」とハルバードの柄でなぎ払い、闇ごと敵陣を粉砕して一蹴した。
転がる死骸と沈黙する街道の中で、カラムナがパチンと鉄扇を閉じた。
「あ、策を思いついたよ」
「危機を脱したあとでそんな事言われても、困るのですけども?」
エレナがフリルの汚れを払いながら溜め息をつく。
「いや危機じゃないでしょ、あんなの。じゃなくて、次の関門を抜ける策の事さ」
「次の関門……というと、河川沿いの、渡し場を兼ねている、といってた、領境の検問所の事ですか……?」
モナが不安そうに問いかけた。
「そうそれ。とりあえず、今から馬蜘蛛禁止ね」
「馬蜘蛛は昨日からずっと、使用禁止でしょう。もう、お隣の国に入ってるんですから。馬蜘蛛で領土侵犯なんて事になったら、開戦待ったなしですわ」
エレナが呆れ顔で突っ込む。
「どんな、作戦なんですか?」
「せっかく山賊に狙われているんだから、これを利用するのさ。話は簡単。山賊に追われながら検問所に駆け込むんだよ」
カラムナは自慢げに胸を張った。
「あら。検問所って、この近くというお話でしたかしら」
「いや、まだ結構先だと思うけど」
「ま、まさか、そこまで、山賊の人たちを、引っ張っていくという……」
モナの顔から一気に血の気が引いていく。
「そうそう、それそれ。いやあ、そう考えると便利だよね、山賊も。山賊に襲われたって言えば、大抵の事が通るんだから。もうアイツら自身が万能の通行手形みたいなもんだよ」
夜風が吹き抜ける街道で、カラムナは満足そうにニヤリと笑った。




