プロローグ
物語は邪智暴虐の魔王を打ち倒したところから始まる。
魔王ノワールの心臓を真っ直ぐに貫いた銀製のレイピア。
それを握るオリヴィアは、長い赤髪を風に流れるままにしながら、その紫の眼差しでノワールを射貫いていた。
その瞳に宿るのは強い意思と覚悟。
ここにたどり着くまでに目にした数多の血が、彼女の炎を燃え上がらせる。
魔法を発動させていたエルヴィスは、その運命の瞬間に息を呑んだ。
歴史が、動き出す音がした。
◇◇◇
一年前。
オリヴィアがまだ勇者でなかった頃。
オリヴィアの子爵家が治める領地を含めた北方では、毎年のように魔族による略奪が繰り返されていたが、その年現れた魔族は略奪ではなく支配を求めた。
領地と民を盾に魔族に脅され、命を差し出すか金を差し出すかを迫られたオリヴィア。
絶望に落ちていたとき、手を差しのべてくれたのは、魔族に連れてこられた奴隷のエルヴィスだった。
エルヴィスは魔王に家族を目の前で皆殺しにされ、自身は奴隷にされていた。
「あんたにいい話があるぜ。俺があんたに力を貸す。一緒に魔王退治してみねーか」
オリヴィアは震える手で剣を握った。
剣技は一家相伝のものを受け継いでいた。
だが、自ら戦うために手にとったのは初めてだった。
皆の前に立ち、剣を振るう。
初めて魔族を退けた日の夜、人々は彼女を勇者と呼んだ。
勇者となったオリヴィアと、仲間になったエルヴィスは魔王を倒す旅に出た。
残虐な魔王は二人が着くのを大人しく待ってなどくれない。
残虐行為がこれ以上行われないように、急がなければならなかった。
オリヴィアは初め、エルヴィスのことを少し怖いと思った。
だが、急な坂を登るときに差し出される手、寒い日に手渡される上着、夜営から目を覚ましたら、絶やされていなかった火。
彼のさりげない優しさに気付くたびにオリヴィアの心は震え、その淡い感情が恋となるのにそう時間はかからなかった。
◇◇◇
各地で魔族を退けながらたどり着いた魔王城。
討伐前夜、二人で焚き火を囲む。
オリヴィアは何度も唾を飲み込んでいた。
そうしなければ心臓が飛び出てきそうだった。
「……怖いか」
エルヴィスが静かに尋ねた。
彼の金髪が焚き火に照らされ輝いている。
本当は、怖かった。
明日失敗すれば全てを失う。
自分の命も、家族の命も、領地の民の命も。
そして、エルヴィスも。
でもオリヴィアは笑った。
この気持ちも、決して嘘ではなかったから。
「いいえ、怖くないわ。だってエルヴィスがいるもの」
エルヴィスは僅かに目を見開いたが、やがて、ふっと微笑んだ。
普段クールな彼には珍しい表情に、オリヴィアの胸が高鳴った。
これが最後かもしれない、という思いが、オリヴィアの口を動かした。
「怖くないけど……手を繋いでほしいな」
エルヴィスが少し呆れたような顔をした。
オリヴィアの好きな彼の顔だった。
「しょうがねーな」
そっと、エルヴィスの手がオリヴィアの手に触れる。
呆れながらもお願いを聞いてくれる彼の優しさに、胸が詰まる。
少しかさついた、無骨な手。
オリヴィアの指にエルヴィスの指が絡んで、きゅっと力が込められる。
熱い体温が伝わる。
トクン、トクンと自分の心臓の跳ねる音が聞こえる。
「あのさ……」
エルヴィスが口を開いた。
「何?」
オリヴィアが聞き返す。
エルヴィスが何かを言いかけたが、吹き抜けた風が焚き火を揺らした。
何も言わずに、口を閉じる。
「……何でもない」
「なあに?」
「だから何でもねーよ」
エルヴィスが言いかけた言葉を、オリヴィアは聞くことができなかった。
気になるが、追及はやめる。
その代わり、じっと彼を見つめる。
ふと、目が合った。
エルヴィスはふいとすぐに目を逸らした。
困ったような顔。
でもオリヴィアは知っている。
あれは、気恥ずかしさを隠した顔だ。
なんて暖かくて、愛しくて、切ない。
ずっと、ずっと、こうしていたかった。
◇◇◇
命懸けの決戦。
激しい攻防の中、オリヴィアは目を逸らさなかった。
ノワールは油断して勝てる相手ではなく、目を逸らすのが命取りというのもあったが、オリヴィア自身が目を逸らしたくなかった。
自身の領地を襲った脅威。
国民の仇、国の仇。
そして、エルヴィスの心の傷。
全ての恐れと悲しみの根源たる魔王。
その元凶から、今度こそ全てを守ってみせる。
流した涙は喪った民への想いと、これからへの決意。
ノワールの胸を貫いたとき、それは粒の形を成した。
◇◇◇
玉座の前の階段を上る。
段数は多くないのに、とてつもなく遠く思えた。
コツン、コツンと鳴るオリヴィアの踵の音の後に、静かに階段を踏み締める音が聞こえる。
彼が、後ろにいてくれる。
彼がいると思えるから歩ける。
一人だったらきっと……怖くて逃げ出していた。
玉座の隣に刺さっている剣。
王の器を選ぶ聖剣エクスカリバー。
この国の王は代々聖剣が決めている。
聖剣は、王たる器でない者に、自身を抜くことを許さない。
魔王は触れることすらできなかったと聞く。
恐れと緊張から剣の前で動けずにいると、そっと隣に立つ気配がした。
エルヴィスが、その青い瞳でじっとオリヴィアを見ている。
「抜けよ」
エルヴィスが淡々と言った。
彼が言うと簡単に聞こえるが、行動に移すのはとても難しく思えた。
暫し固まっていたが、やがてオリヴィアは首を横に振る。
「……抜けないわ。私ではきっと……。エルヴィスがいないと……」
オリヴィアは、エルヴィスが、人々を助けながらここまで来て、魔王を打ち倒したオリヴィアを王の器だと考えていることを知っていた。
それが正しければこの剣は抜けるはずだ。
だけど……怖い。
抜けなかったらどうする?
抜けたら……どうする?
抜いた剣の重みを、自分は支えきれるのか。
度重なる喪失や不幸で心に痛みを抱えた人々を、導くことができるのか。
恐ろしくて、その後のことが何も想像できなかった。
これまでのように、エルヴィスが道を示してくれなければ。
オリヴィアは泣き出しそうな顔でエルヴィスを見上げた。
だが、その青い眼差しは真っ直ぐにオリヴィアを見つめるだけだった。
その目に宿るのは、強い確信。
そっと、エルヴィスが口を開いた。
「俺ではこの剣は抜けない。隣にいるから、お前が抜け」
隣にいるから、の言葉が、オリヴィアの脳内で優しく反芻される。
「……ずっと私のそばにいてくれる?」
「ああ。ずっと」
短いが、彼の心が確かにこもった温かい言葉。
オリヴィアはこぼれそうになった涙を拭って、眼前の聖剣に向き合った。
聖剣エクスカリバーに手をかけ、ゆっくりと引き抜くオリヴィア。
聖剣は抵抗することなく、オリヴィアの手に身を任せる。
剣を正面に構えたオリヴィアは、そっと隣に目を遣った。
その微笑みは、少女のものでありながら、女王の威厳も宿していた。
その笑みを受けて、エルヴィスも小さく笑う。
隣に並び立つ二人を、朝日が照らした。




