第10話 第1章( 完結編)「泥と咆哮、そして黒い疾風」
1. 限界の淵:泥臭い咆哮
セドリックのボンネットの上で、世界が歪んでいた。
蛇行する車体。狂ったように振れるワイパー。視界を遮る街灯の光が、チカチカと明滅する。
(……クソッ、視界が……)
「ライド」の維持が限界だった。浮遊させているジョグが、ガタガタと悲鳴を上げる。3センチ浮いていたはずのタイヤが何度もボンネットを叩き、凄まじい衝撃が翔也の腕を突き抜ける。
「降りろッ! 降りろよ死にぞこないがぁッ!!」
フロントガラス越しに、ケンジの引きつった顔が見える。
マサオの血の匂い。ボロボロになった自分の体。すべてを投げ出して、アスファルトに転がり落ちてしまえば楽になれる。
(……ここで、終われるかよ。俺たちが何をしたってんだ……!)
2. ランナーズハイ? みたいな。。
振り落とされる寸前、翔也の頭の中から一切の「雑音」が消えた。
エンジンの振動と、自分の鼓動が完全に同期する。
不安定だった浮遊が、鏡のような水面を滑るようにピタリと安定した。
(死ぬ気か? ……いや。負ける気が、しねぇ)
セドリックが大きく左にハンドルを切った瞬間、翔也は右へと「ライド」の慣性を全開放した。
ジョグは重力を無視し、セドリックのルーフを斜めに駆け上がる。
鉄板を削る火花が、夜空に舞った。
「な、なんだよそれ……化け物かッ!?」
バックミラー越しに、屋根の上を滑る翔也の影を見たケンジが、絶叫とともにブレーキを踏み抜いた。
3. 沈黙の決着
激しいタイヤ音とともにセドリックが停止する。翔也はジョグとともにアスファルトへ投げ出され、数メートル滑って止まった。
静寂。
カウルが割れ、ガソリンの匂いが立ち込める中、翔也は這いずりながらケンジのもとへ向かった。ドアを開け、引きずり出されたケンジは、もはや戦う気力すら失い、ガタガタと震えていた。
「……もう、勘弁してくれ……」
振り上げた翔也の拳が、その震え声で止まる。
怒り狂って殴りつけるよりも、目の前の男があまりにも、ちっぽけに見えた。
「……二度と、俺たちの前に現れるな」
復讐でも正義でもない。ただ、自分の世界を守り抜いた少年の、鉛のように重たい一言だった。
4. 孤独な春:RZ250への道
バトルの狂騒が去り、高校生活最後の休みがやってきた。
一人っ子の翔也にとって、家は安らげる場所ではなかった。
酒の匂い。ギャンブルの負けを母親に当たり散らす父親の怒鳴り声。
(あんな大人には、絶対にならない。俺は、自分の足でここを出る)
その一心で、彼は深夜のコンビニバイトを詰め込んだ。
廃棄の弁当で空腹を凌ぎ、冷たいレジの前に立ち続けたのは、すべて「自由」を買うためだった。
死ぬ気で貯めた頭金を握りしめ、母親に何度も頭を下げて、ようやく父親には内緒でローンを通した。
そして、あの死闘で廃車寸前になったジョグをバイク屋に持ち込んだ。
「……下取り? 悪いな、こんなにカウルもフレームもボロボロじゃ、二足三文だ。……まあ、お前の根性に免じて数千円ってとこだな」
店主の苦笑いとともに、ジョグは引き取られていった。
代わりに、翔也の前に現れたのは、黒いボディに赤いラインが走るRZ250だった。
磨き上げられたゴールドのホイール。
低い位置にセットされたセパハン。
そして、鋭く跳ね上がったカスタムチャンバー。
初めて火を入れた時、2スト特有の「パラパラン!」という乾いた咆哮が、腹の底まで響いた。
「これさえあれば、俺はどこへでも行ける」
RZが吐き出す白煙が、家庭の閉塞感も、あの夜の泥臭い記憶も、すべて包み込んで消してくれた。
5. 第2章(序章)
マサオはお気に入りのベスパを、東京での生活費が足りないので、売却し、夜行バスで東京へ発った。
翔也は、RZのセパハンを握りしめ、地元の調理師学校の門を叩く。
「ギャンブルで人生を壊した親父とは違う。俺は、この腕一本で生きていく」
昼は調理実習と皿洗い。夜は居酒屋のバイト。
そして深夜、一人きりの峠で「ライド」を磨き続ける。
RZという本物のパワーを手に入れた今、翔也は「10秒」という限界の先を見ようとしていた。
だが、翔也はまだ知らなかった。
自分の「異能」が、大人の世界の、より深く巨大な闇に目をつけられていることを。
居酒屋のバイト帰りの暗がりに、一台の黒塗りの高級車が音もなく停まる。
降りてきたのは、表情を消した「スーツの男達」だった。
「……君が、翔也くんだね。あの夜、スクーターでセドリックを追い詰めたのは」
物語は、より危険な「調理場の静寂と、深まる闇」へと続く――。




