第105話 あたしの中の ア・イ・ツ
次の日の午後、軽い筋肉痛に悩まされつつ、あたしはもう一つの気掛かり……亜紀のお見舞いに行った。
練習試合だとは言え、彼女に恥を掻かせ辛い想いをさせてしまったあたしだから、もう彼女から嫌われてしまったのだと思い込んでいた。
亜紀は会ってはくれないかも知れないし、追い返されてしまうかも知れない……そう思って覚悟した。
どうしても彼女に一言謝りたくて……
姫香は心配して、一緒にお見舞いに行こうと言ってくれたけれど、亜紀からあたしがどんな事を言われるかを聞かれたくなかったし、亜紀から二対一になって威圧しているように思われたくも無かった。
あたしはお見舞いにピンク色でアレンジした小さな花かごを手にし、看病している亜紀のお母さんから快く迎えられて個室へ入った。
中央の白いベッドで横になっている亜紀の痛々しい姿を見た途端、彼女を追い詰めたのはあたしなのだと言う堪らない罪悪感が、どっと胸に押し寄せて来る。
亜紀はあたしの姿を眼にするなり、身構えるように掛け布団を肩まで深く引き寄せる動作をした。
やっぱり、亜紀から嫌われて警戒されているのだわ……そう思うと切なくなってしまう。
「亜紀、ご……」
「ごめんね、香代」
「……えっ?」
真っ先に謝ろうと思ったのに、あたしより先に亜紀が謝って来た。
あたしは何の事だか判らずに、唖然としてしまう。
どうして亜紀があたしに謝るの? 謝らなくっちゃいけないのは、このあたしなのに。
「あたし、あの時香代が秋庭くんとペアが決まっていたのを知っていたの」
「……」
「でも、香代がわざとクジへもう一本線を引いた時に、あたしは香代の気持ちとか全然考えてあげられなかった」
「え? ……で、でも……」
「判っているの。香代が秋庭くんを好きで、それは今でもずっと続いているし、秋庭くんだって香代の事が好きなのに……あたしは自分の事ばかり考えて……香代が……きっと香代なら秋庭くんとのペアを譲ってくれるって思ってた。香代の傍に居れば、必ず香代は秋庭くんへ近付くチャンスを譲ってくれるって……そう思って自惚れていた。でも、どんなにあたしが想っても、秋庭くんの気持ちは変わらない……あたしでは変えられないの」
「……」
あたしに近付けば、あたしが慶の事を譲ってくれるって……亜紀はそんな計算をしてあたしと友達になったって言うの?
「香代の事を、ずっと『お人好し』だと思って甘く見ていたの。香代のお陰で秋庭くんに何度も近付けられたし、秋庭くんとペアになれた時だって、予想通りだと思って……浮かれていたもの。酷いでしょう?」
「……亜紀?」
なにを言い出すのよ?
信頼していた友達から、いきなりそんな事を告白されてしまうだなんて、そんな……
あたしの頭の中は真っ白になった。
亜紀は突然両手で顔を覆い、声を押し殺して泣き出した。
「あたし、小さかった頃から友達なんて居なかったの。たまたま帰り道で野良犬に追い掛けられて姫香に助けられて仲良くして貰っただけなの。それだけでも嬉しかったのに、あたしが秋庭くんの事を想っているけど、告白出来ないで居ると言ったら、姫香が『秋庭くんの彼女に近付いてみれば?』って」
亜紀の家は地元の『旧家』。彼女は『お嬢様』として教育されていたのだと以前聞いた事がある。小さかった頃に友達が居なかったと彼女は言ったけれど、それは亜紀が『友達は居ない』と自分が勝手に思っていただけじゃないのかしら。
「あ、あたしは別に『彼女』だなんて……」
「そう。香代はきっとそう言うだろうなって。もしかしたら、秋庭くんを譲ってくれるかも知れないって思っていたの」
確かに、この二人がテニス部へ入部したいとあたしの元へ遣って来た時……言われた言葉にかちんと来て、それまでは普通に慶と帰っていたのにそれが出来なくなってしまった。慶とあたしがぎくしゃくし始めたのは、それが切っ掛けだったと思う。あの頃は、ただ『好き』と言う感情があれば仲良く出来た。慶を『異性』と言う眼で見ていた訳じゃなかったから『カレシ』とか『カノジョ』なんて意識は全然無かったんだもの。
だけど、慶の事を想っていると口にした亜紀が現れて、あたしは慶に対して『異性』への感情をまだ持っていなかったから、彼女を応援してしまう事をしてしまった。それが大きなお節介だと自覚して、落ち込んでいたのに……
「でもね、最初は利用しようと思っていたけど……香代は人が良過ぎるのよ。あたしは香代とずっと付き合っていて、一緒に笑ったり、泣いたりして……気付いたら、あたしにはこの沢山の思い出が捨てられなくなっていたの。でも、秋庭くんの事も忘れられなくて……」
そこまで言うと、亜紀は深い大きな息を吐いた。
「秋庭くんの事で、香代とは何度も心の中で競っていたわ。何度もアドバンテージを取れていたと思ったけれど、あたしが一方的に好きでも駄目なのだって……判った。『恋愛』は相手の気持ちが無いと……ね」
「もしかして、あの時姫香が言った言葉?」
やっぱり聞いていたの?
亜紀はあたしの言葉に返事をせずに、こくんと頷いた。
「ごめんね。少し独りにさせてくれない?」
「う、うん……」
亜紀のお見舞いに来たつもりだったのに、彼女から謝られてしまっただなんて考えても見なかった。ホッとした半面、亜紀の本心を聞かされてしまい、今はもの凄く複雑な気分。
* *
「良かったね。無事におばさん退院出来て」
「うん。で、遠藤さんはどうなったんだよ? 学校には出て来て授業をちゃんと受けているけど、部活には来ていなかっただろ?」
部活が終わった帰り道、あたしは来月の西條中学との交流試合の打ち合わせで遅くなった慶を校門で待ち合わせ、二人並んで歩いている。
亜紀はそれから一週間後に退院となり、一日遅れた昨日の午後に慶のお母さんも無事退院の運びとなった。その後、亜紀は通院治療を理由に、ソフトテニス部を休部してしまい、あたしから少し距離を置いてしまった。
「亜紀はきっと戻って来るわ」
「どうして? なんの根拠があるのさ?」
不思議がる慶の様子を、あたしは得意になって面白がる。
「だって、この手紙を貰ったんだもの」
徐にカバンから封筒を取り出し、あたしは慶に見せびらかす。
亜紀が好んで選びそうな、可愛い小花が上下に描かれている清楚な封筒があたしの元へ届いたのは、彼女が退院するほんの数日前の事だった。
あたしはその封筒を胸に当てて、大切に抱き締める。
「なんて書いてあるの?」
「言わなーい」
そう言って、昼間の熱気がまだ残っている夕焼けの通学路を駆け出すと、慶も後を追い掛けて来た。
慶もあたしもお互いに『告白』なんてしていないけれど、『あの日』からあたし達は昔の様に……ううん、それ以上に仲良くなれた気がする。それはあたしが慶の手の温もりを知って素直になれたからだと思う。慶には申し訳なかったけれど、慶と手を繋いで貰って走っている間中、慶のお母さんの無事を祈りながら、その一方であたしはこのまま時間が停まってしまえば良いのにと、強く願ってしまった。神様は、その願いを二つとも聞いてくださったのかしら?
あたしの後を追って来るけれど『香代ちゃーん、待ってぇええ』そう言って泣きべそを掻いていた慶はもう居ない。あたしは思い出の宝箱に、昔の慶を閉じ込めた。
※ 追伸 ※
あたしの予想通り、亜紀は部活に戻って来てくれた。
以前と全く同じ……とは行かなかったけれども、それでもあたし達は心の底から信頼出来る、とても良い関係を築き上げ続けて行けるようになった。
二年後に、慶には要さんと言う素敵なお兄さんが出来て、美咲姉さんには可愛い女の子が生まれ、新しい家族が増えてとても賑やかになった。
あたしと慶は……あたしは看護師さん、慶はプロの(硬式)テニスプレーヤーの夢を描いてそれぞれ別の道を歩み始めた。
幼馴染みの恋なんか成就したりはしない。そんなジンクスを何処かで聞いた気がして寂しくなったけれど、それでもあたしは一杯人を好きになって、沢山の恋をした。
けれど、いつも長く続いてはくれなかった。
それは、あたしの中にまだ『慶』と言う彼氏が居たからだと思う。
今、あの頃の事を振り返れば、初めての恋の相手が慶だったのかしらと思えるようになった。
* *
月日が流れて、あたしは市民病院の看護師になり、小児科病棟で夢中になって働いた。姫香は立派に二児の母になって、時々息子さんの病気であたしの病院を訪れては、わざわざ顔を出してくれているし、亜紀も素敵な人に回り逢えて遠方へ嫁いで行ったけれど、今でも里帰りする度に時間を作ってあたしに逢いに来てくれている。
みんなそれぞれの道を歩んで幸せになっているのに、あたしはまだ運命の人には回り逢えてはいないのだと思っていた。
満たされない気持ちを抱えて、寂しいなと感じていた、十二月。
「う~寒っ。今夜は酷く冷えるわね」
夜中の見回り巡回をした婦長が、寒さに身震いしながら詰所へ戻って来る。
あたしは『お疲れ様』と言って、淹れ立てのコーヒーを婦長へ差し入れた。
「ああ、ありがとう。ねえ、明日中央公園でテニスの試合があるんですってね」
「え? ええ……」
「土橋さん学生時代にテニスをしていたのですって?」
「はい」
「夜勤明けたら一緒に観に行かない? 確か今年は、地元出身の新人プロが来るそうよ。但し、うちの息子も一緒なんだけど」
「そうですね……」
婦長が言っているのは、市が将来的にプロテニス選手の誘致を目標としている、プロ選手の招待試合の事だ。そして、婦長の中学生になったばかりの息子さんはテニス部員で、結構成績が良いらしい。
あたしはソフトテニスだったけれど、『テニス』と言う響きがとても懐かしくなって、彼女の誘いに乗る事にした。
地元出身のプロが来ると言う事で、スタジアムには沢山の観戦客が押し寄せて、圧倒されてしまいそう。
「土橋さん、こっち」
「はい」
大きな人の波に揉まれながら、あたしは婦長の居る観覧席へとやっと辿り着いた。
自分の事しか見えなくなってしまい、お隣の慶が地元の大学に合格したのは知っていたけれど、その後、慶が何処へ行ったのか知らなかったのに、何故かこの時運命的な強いものに惹き付けられるようにして、試合を観に来てしまった。
あたしは、地元出身者の紹介アナウンスに驚き……そしてコートに現れた選手の姿を見て、二度驚いてしまった。
割れんばかりの声援と拍手に迎えられた『彼』は、ゆっくりとした動作で客席を見廻し、誰かを捜しているみたいだった。
彼の対戦相手は既にネット前で立って居ると言うのに、彼は中々ネットへ歩み寄らなかった。
立ち尽しているように見える彼を見て、どうしたのだろうかと不審に思った観客が、ざわざわとあちらこちらでざわめき始める。
あたしも不思議に思って彼を見詰めていたら……偶然、彼と視線が合ってしまった。
真っ直ぐな彼の強い視線に射抜かれて、思わず軽く息を飲む。
途端に彼はにこりと笑顔を浮かべて軽く片手を挙げると、ネットへ向かって駆けて行く。
「ワン・セットマッチ秋庭、トゥサービスプレイ……」
主審のコールに、スタジアムは拍手と歓声が湧き上がり、あたしの胸は何かを予感して高鳴った。
ご一読、ありがとうございました。そして、もし、公開当時からお付き合いして戴いる読者様がいらっしゃいましたら、この場をお借りしてお礼申し上げます。
ブログでも書きましたが、この作品の完結に至るまでに、まさか四年間も掛ってしまったとは作者であるワタシも予想外でした。
本当はもっと早く完結させたかったのですが、拠無い事情で更新が遅くなってしまい、その事情を理由に、恥ずかしながら一時は作品を投げてしまいそうになりました。
それでも毎日アクセスして読みに来てくださっている方や、Web拍手をそっと押して戴く方々がいらっしゃる事に勇気付けられ、支えられて、本来予定していた昔のプロットとは若干違ってしまいましたが、何とか完結に漕ぎ付ける事が出来ました。
最後まで読んでくださった読者の皆様、そして、作品を公開させて戴いた「小説家になろう」サイトのスタッフの皆様へ感謝します。
本当に、ありがとうございました。
2011/11/27 結手。