夜の顔
夜の顔
裏切りというのはどの時点で裏切りになるのだろうか。
ロッカーから出たマリーベルは、無言のアンヌマリーの手を握り、考えていた。
マリーベルはアンヌマリーの愛情を疑ったことはない。ラルフとの恋を応援したのも、純粋にアンヌマリーの幸福を願ってのことだった。
フィリップたちの邪魔をしたのだって、アンヌマリーが彼らの誰ひとりとして慕っていないと知っているからである。
夜に美女となるマリーベルとは逆に、昼間に絶世の美女になるアンヌマリーはとにかく目立つ。双子の姉を思い、幸福を願って守っていた行動が、妬みから姉の幸福の邪魔をしていると見られていたなんて思ってもみなかった。
マリーベルとアンヌマリーは夕飯も取らずに部屋に籠った。
双子の部屋は隣同士。わざわざ廊下に出なくても部屋を繋ぐドアがあった。幼い頃はよくアンヌマリーがマリーベルのベッドに潜り込んできたものである。
マリーベルはアンヌマリーの苦労をよく理解している。双子の共感性とでもいうべきか、アンヌマリーの不快感、喜怒哀楽が伝わるのだ。共感するぶん好みが似通っていた。
だからこそ、マリーベルはラルフに惹かれないよう自分を戒めていた。今回はそれが功を奏した。もしもマリーベルがラルフに恋していたら、母の思惑通り昼夜で入れ替わってアンヌマリーを演じることになったかもしれない。
そうしなかったのには理由がある。
マリーベルはアンヌマリーがラルフに恋するより先に別の男に恋をして、そして破れていたからだ。
眠気がやってこず、ベッドの中で転々としながら考えていたマリーベルは、意を決して起き上がった。
アンヌマリーの部屋に続くドアをノックする。返事はなかった。
鍵のかかっていないドアを開けてベッドに近づく。アンヌマリーは、泣きはらした顔で枕を抱えてマリーベルを待っていた。
「……ベル、遅いよ」
「アン、話があるの」
慰めてくれると思っていたのか、マリーベルの固い声にアンヌマリーは少し目を瞠った。
ベッドに上がり、アンヌマリーの隣に座る。
「話って、何?」
「アンには言ってなかったけど、私、失恋したことがあるの」
マリーベルの告白に、アンヌマリーが絶句した。
「相手は去年卒業した、サイモン・ネイチャー先輩。図書委員で、私にも親切にしてくれたわ」
アンヌマリーはサイモンを思い出そうとしているが、滅多に会ったことはないはずだ。マリーベルはいつも一人で図書室に通っていた。アンヌマリーはつきまとってくるフィリップたちと一緒だった。彼らがアンヌマリーを他の男に見せないようにしていたのだ。
「私の顔を見て驚いたのを謝ってくれたの。もう慣れていると言ったら「慣れたからといって平気なわけじゃないだろう」って……。そんなこと言ってくれた人ははじめてだったから、嬉しくてね……」
どうして言ってくれなかったの、と口を開きかけたアンヌマリーは、恋の話とは思えないマリーベルの苦しげな表情に何も言えなくなった。
「先輩だから後輩にはやさしいんだ、とその時は思ったの。ああいう男の人がいるのなら、私たちにも真実の愛を見つけられるかもしれないって、ちょっと希望が持てたわ」
サイモン・ネイチャーは貴族ではなく、ネイチャー商会の会頭の息子だった。しかも次男。貴族の令嬢からは、友人にするなら良いけど結婚はちょっと、と敬遠される微妙な立場である。そのせいか婚約者はいなかった。
「なんだか……ラルフに似てるね……」
「そうね」
しみじみ言ったアンヌマリーに苦笑が漏れた。
一部例外のフィリップ王子はともかく、図書室は基本的に私語厳禁だ。自習用の机もあり、マリーベルは休み時間ほぼ入り浸っていた。
サイモンが話しかけてきたのはテストで一位になり、満点をさらに加点された時だった。
「歴史のテストで私の見解と考察を書いたら先生が研究機関に問い合わせたことがあったでしょう? あれがちょうどネイチャー先輩が書いていた論文の題材だったのよ」
ぜひ協力してほしいと請われ、サイモンに良い印象を抱いていたマリーベルは快諾した。
サイモンは家の手伝いで行商に行くうちに歴史に興味を持ち、いずれは考古学者になりたいと夢を語った。
旅をしながら商売をして、現地の人の話を聞きつつ調査する。そしていずれは古代文明の遺跡を発見したい。キラキラした目でそう語るサイモンは眩しいほど純粋で、とうとうマリーベルは彼に惹かれている自分を認めざるを得なくなった。
しかし、アンヌマリーに相談はできなかった。
「アンに言ったら絶対に会いに行くでしょう? 会わせたくなかったの」
フィリップ王子が熱愛している美少女が双子の姉だということはサイモンも知っていた。気にした様子はなかったし紹介を頼まれたこともなかった。それでもマリーベルの不安は拭えなかった。
「ごめんね、アン」
「ううん。……でも失恋したってことは、告白したの?」
「……うん」
自分が勝手に恋人を作ったら、アンヌマリーへの裏切りなのではないか。双子なのに何も言わずにサイモンに秘密を打ち明けていいのか。そんな葛藤を、昼間の醜い顔でも態度を変えずに愛してくれる人を見つけたのなら、それはアンヌマリーにとっても希望になると言い訳した。
「顔じゃなくて中身で勝負! って思ったから、論文が完成した勢いで「好きです」って言ったの」
サイモンは突然の告白に驚いたものの、微笑みを浮かべ、丁寧な口調で、あくまで紳士的に、しかしきっぱりと「好きな人がいるんだ」と断った。――その時は。
「好きな人がいるし、私のことは同志としか思えないって……」
マリーベルが言葉を詰まらせた。
「で、でもっ、発表した論文はっ、ほとんど私が書いたのにっ、な、名前っ、共同研究者にも載ってなくてっ。わ、私、ただ利用され……っ」
サイモン・ネイチャーの名前で発表された論文は賞を取り、彼は晴れて学者の仲間入りを果たした。
どうやら彼の夢は父親に反対されていたらしく、そこまで言うなら論文の一つもかいて賞を取ってみろと言われていたらしい。商売と学者の両立なんて言うは易いが、商売はそこまで甘くないぞ、と。
めでたく受賞したサイモンは卒業後、父親からの軍資金を得て、望み通りに行商に同行して学者気取りの旅に出た。しかしマリーベルが書いた論文以降、新たな論文を発表することはなく、あいかわらす婚約者も作らずに好き勝手やっているという。
「ベル……」
アンヌマリーが枕を置いてマリーベルの手を握ってきた。
「……先輩が卒業して、一度だけ手紙が来たわ」
ぐすっと鼻を啜ってマリーベルが新たな涙を浮かべた。
嫌な予感がしつつもアンヌマリーは続きを促す。
「……なんて?」
「婚約してやるから学園をやめて旅に同行して論文を書け。ついでに資金も寄こせ」
醜いマリーベルと婚約してやるのだから子爵家は持参金をはずめ。それはそれは上から目線でマリーベルを見下した、金の無心だった。
「私はもう自分の男を見る目のなさに絶望したの。だから……、だから、アンにだけは幸せになって欲しかった! 醜い顔が不幸じゃないって証明してほしかった!」
吼えるように叫んだマリーが泣き崩れた。
たった一度の失恋で、と言える人は恵まれている。親が、それも娘に親身になってしかるべき母親が信用できない姉妹には、チャンスは自分で見つけて自分で摑みとるしかないのだ。
昼の顔が醜いマリーベルは、そのチャンスさえゼロに等しかった。
黙っていてごめんなさい、と謝るマリーベルを、アンヌマリーは責められなかった。いざとなれば夜の相手をマリーベルにさせれば……と一度も考えたことがないとは口が裂けても言えないからだ。マリーベルさえ黙っていてくれたら何もかも上手くいくのに。そう思い、その度に心まで醜くなってはいけないと振り払っていた。
誰だって、自分が一番かわいいのだ。そういう意味では母を責めるのは間違いなのかもしれなかった。
「私たちって、男運ないわね」
やがてアンヌマリーが途方に暮れたように言った。
「そうね。……お母様ほど割り切ってしまえたら楽なんでしょうけどね」
マリーベルは涙を拭った。
あの母ほど図太く男の間を渡り歩けるのは、尊敬はできないがすごいことだ。
母は学園で美貌を妬まれてさんざん令嬢たちに虐められたという。意趣返しも込めてのことなのだろう。
ジュディたちに秘密を話し、友情を結んでいるマリーベルとアンヌマリーとは立場が違う。少なくとも、彼女たちの夫を寝取るなどできるわけがなかった。家のしがらみもあるのだろうが、なんだかんだ情があるから婚約を続けていられるのだろう。
「でも、このままラルフや王子たちの思い通りになるのは癪に障るわ」
マリーベルが窓から差し込む月明りを睨みながら言った。日ごとに形を変える月は不実なもの、女の象徴とされている。月にはまったく不本意なたとえだ。
「王子の命令ということは、すぐにでも婚約の打診をしてくるでしょうね。妻を売ったお金で本命の女を囲うつもりかしら。お父様はかわいそうなところがあるけれど、他の女に走るあたり、男って浅はかだわ」
昼と夜とで両親や使用人の態度が変わり、学園でのアンヌマリーへの周囲の態度を見続けてきたマリーベルは、アンヌマリーよりも辛辣だ。サイモンに失恋と失望を味わったこともあり、冷めている。
「ベルはいっそ学者になったらどうかしら? 見返してやるのよ!」
「それもいいわね。でも、アン。家を出る時は一緒よ? こんな家なんか捨てて自由に生きてやるのよ」
「そうよね。生まれた時から一緒なんだもの、死ぬ時も一緒にいましょう」
この夜、姉妹はお互いの体を抱きしめるようにして眠った。月が夜にしか輝けないように、姉妹は支え合っていた。
卒業式が近づくと、学園中がそわそわしはじめる。
学園の裏手には小さな泉があり、清らかな湧水がコンコンと湧き出ている。卒業パーティの後、その泉で愛を誓うと幸せになれる、という伝説があった。
そのため泉へと続く道には毎年行列ができる。
行列となるとつまり、誰と誰が、というのが学園中にばれるのだ。
卒業パーティの後、伝説の泉に行きましょう。そんな内容の手紙がこの時期になると飛び交い、そわそわと浮かれた雰囲気に学園が包まれていた。
ちなみに行列の整理は生徒会が担っている。事前申告制でダブルブッキングしないよう時間の調整をするのも彼らの役目だ。
三年間首席の座を守り抜いたマリーベルは本来なら生徒会長になれたはずだった。王族というだけで自動的に生徒会長になったフィリップ王子に嫌われていなければ副会長だっただろう。フィリップはマリーベルの生徒会入りを認めず、代わりにアンヌマリーを指名した。アンヌマリーもまた成績優秀だったので多少の反発は(主に女子から)あったものの、生徒の信任を得て副会長に選ばれた。
ところがアンヌマリーは身分の低さを理由に辞退した。代わりにフィリップの婚約者であり公爵令嬢のジュディが副会長に立った。時に夜遅くまで仕事がある生徒会などに入ってはいられない姉妹の事情は、見た目と身分で独裁体制を敷いたフィリップ王子への顕然とした拒否として語り草になっている。
現生徒会はそんなフィリップ王子の独断専行、一人の女子生徒への依怙贔屓、一人の女子生徒への横暴に苦労してきた下級生である。フィリップではなくマリーベルが生徒会長だったら、と何度も零していた。
実際ジュディに仕事を押し付けてアンヌマリーとお茶だのデートだのの計画しか立てないフィリップたちよりマリーベルのほうがよほど頼りになった。ジュディを手伝ってフィリップを判を押すだけの係にし、下級生の質問にもいつも丁寧に答えてくれたのは彼女である。そのうちにアンヌマリーもフィリップたちの、彼らに都合の良い行事や校則の計画を阻止するジュディの共犯者であると知った。もしもアンヌマリーが王子との恋に浮かれてのぼせるお花畑令嬢であったら、由緒ある学園はとんでもないことになっていただろう。
そんな、生徒会影の立役者、恩人でもあるマリーベルが伝説の泉で告白したいと申請してきた。生徒会役員は驚きのまま申請を受理した。
「あら、殿下は泉の申請を出していないのね」
さりげなく名簿に目を走らせたマリーベルが意外そうに言った。
「え、ええ。アンヌマリー先輩はロチェスター先輩と婚約間近という話ですし、さすがに諦めたんじゃないですかね」
「でもジュディ様がいらっしゃるのに。国王陛下も王妃様に泉で愛を誓われたとか。一生一度の思い出になさればよろしいのに」
マリーベルは微笑んだ。それは悪の組織が生み出したガマガエル怪人が「ひひひ、次はお前だ」というような笑みにしか見えなかった。
「それに、ロチェスター子爵の名前も見当たらないわ」
「そういえばそうですね。婚約者か恋人のいらっしゃるかたはだいたい申請してきたのに……」
「伝説の通りになったら困るのかもしれないわね」
言うだけ言って、マリーベルは去っていった。呆気にとられた生徒会役員は、マリーベルの相手が誰なのか聞きそびれ、悔しがった。
マリーベルが泉の申請をしたことは、秋風より早く学園中の噂になった。
なんといっても『あの』マリーベルである。あの顔でそんな相手がいることに誰もが驚愕し、物好きは誰だと相手探しと憶測が飛び交った。
ラルフの本心を聞いた日から水面下で進めていた計画は、いよいよ大詰めである。
ここでフィリップたちに邪魔されたくないマリーベルは、矢面に立つことでカムフラージュに動いたのだ。
「マリーベル、アンヌマリー、本当に良いのね?」
そんなある日、ジュディがテティートゥリアン子爵家にやってきた。
両親はうろたえていたが相手は公爵令嬢、しかも卒業後の身の振り方についてだと言われてしまえば通さないわけにもいかなかった。
聞き耳を立てやすい応接室ではなく、マリーベルの部屋に案内する。お茶も使用人に用意だけさせて下がらせた。
「はい。私たち二人で考えて決めたことです」
「ジュディ様には最後までご迷惑をおかけして、申し訳なく思っております」
きりっとして言ったマリーベルと、気づかわしげなアンヌマリーは本当によく似ている。顔ではなく、その心持ちが似ているのだ。
互いへの愛情と信頼、そして尊敬は、ジュディですら羨ましいほどである。
「いいのよ。あなたたちのおかげで助かったこともあるのだし」
そう、ジュディはとうとうフィリップとの婚約を解消したのだ。
アンヌマリーを、彼女の気持ちを考えずにつきまとい、言いより、さらには下位貴族のラルフに命じてアンヌマリーを口説き落とし、結婚させてから愛人にする。
そのおぞましい計画の首謀者がフィリップだ。ジュディは長らく婚約していた男にほとほと愛想が尽きた。
フィリップたちの計画をジュディは母に告げ、こんな男に嫁ぐくらいなら修道院に入ると言った。さすがに母は女としての嫌悪に共感し、父の公爵も国王と同じことをしている王子に失望し、婚約解消の手続きを取ってくれたのだ。
婚約の破棄では王家に対して不敬であるし、白紙撤回ではフィリップの瑕疵があきらかにされない。よって婚約に伴う契約の不履行での解消となった。過失がフィリップにあることを明確にするため、慰謝料を請求している。
厳密にいうのなら計画段階では不貞とまではいえない。それでも学園中の噂になるほど蔑ろにされたジュディの精神的苦痛は不貞されたのと同様、いや、学園から社交界、市井にまで広がっていることを考慮すればもっと酷い。フィリップがおおっぴらにやらかしたせいでジュディはすっかり悲劇の令嬢扱いだった。
「ジュディ様は隣国の公爵家に嫁がれるのですよね?」
「ええ。隣国といってもまったく知らない方ではないの。お婆様のご親友だった方のお孫さんで、誕生日にはプレゼントを贈り合っていたわ」
良い相手なのだろう、ジュディはほのかに頬を染めた。まだ恋ではないものの、恋の予感に喜ぶ少女の顔だった。
「それに、どんな男性であろうと殿下に比べればましだと思いますのよ」
「そうですわね」
「あれほど酷い方はそういませんわ」
アンヌマリーとマリーベルは深く同意した。あれほど女の神経を逆撫でしまくる男たちが他国にまでいると思いたくない。
王子と公爵令嬢の婚約解消など一大スキャンダルだ。マリーベルはジュディを守るために伝説の泉の申請をした。恩人であり友人であり、憧れでもあるジュディには一片の瑕疵も付けさせない。
「ガブリエラ様たちも婚約を結び直すとおっしゃっていましたし、何の心配もいりませんわ」
「それはそれで他の女性が犠牲にならないか心配ですわ」
なんといっても高位貴族である。その嫡男が未婚のままでは外聞が悪すぎる。配下の貴族令嬢に無理を強いるのでは、とマリーベルは言った。
「大丈夫よ」
そんなマリーベルにジュディがころころと笑う。
「あの方々のお母様がそれはおかんむりですもの。性根を叩き直すまで結婚はさせないでしょう」
だいぶ控えめな表現だが、ようは王妃をはじめとする貴族夫人グループが、学生時代の遊びをエスカレートさせ、あげく息子にまで悪影響を及ぼしていた男たちに雷を落とす予定である、ということだ。
もちろんそうなれば、マリーベルとアンヌマリーの母もただではすまない。ただし正式には子爵夫人、ドレスや宝石なども手当だとみなされるため、そうひどいことにはならないはずだ――表向きは。
学生時代は嫌味や器物破損などの嫌がらせ程度で済んだ。周囲は美少女に同情し、先生たちも注意してくれた。学生、未成年だったからだ。
結婚し子供までいる女性を子供として扱う者などいない。姉妹の母は、これから社交界という、貴族夫人の重要な場で女性陣から総スカンを食らうのだ。しかも学生時代と違い、守ってくれる人は誰もいない。貴族の一員となった男たちは、貴族は面子が何より大切だと理解している。理解してしまっている。
だからこそ、秘密の愛人にしていたのだ。誰ひとりとして彼女を夜会でエスコートせず、金や宝石、ドレスを贈るだけで共有を止めようとしなかったのがなによりの証拠だった。
マリーベルとアンヌマリーは両親が嫌いなわけではなかった。しかし愛しているとは言えなかった。何も考えずに姉妹を生み、姉妹の意見を聞かずに魔女と契約したことを恨んでいる。どういうつもりで魔女が母と姉妹に魔法をかけたのかは知らない。ただ少なくとも、外見の美醜で愛を語る男には真実の愛など持ち合わせていないことはよくわかった。
「ジュディ様」
マリーベルが心からの感謝を込めて言った。
「運命に立ち向かうには、本物しかないのですわ。わたくしどもは本物の心で戦ってまいります」
マリーベルはジュディが羨ましい。彼女は偽ることのない素顔のままで充分にうつくしいのだ。家柄や振る舞いも、ジュディにはすべてが本物を用意されていた。羨ましい。そしてそんな彼女と友人になれたことが誇らしかった。
「マリーベル。アンヌマリー」
ジュディが目を瞬かせて潤んだのをごまかし、姉妹に向き直った。
「殿下の元婚約者として、そしてジュディ・ライトニング公爵令嬢個人として、わたくしたちを代表してお礼を申し上げます」
両手を伸ばし、姉妹の手にそれぞれ重ねる。
「お二人が本当のことを打ち明けてくださらなかったら、わたくしたちは望まぬ婚姻に、しかたがないと言い訳して従っていたでしょう。騙されているとも知らず、己の不幸を嘆き、お二人を憎んだかもしれません」
マリーベルとアンヌマリーが秘密を打ち明け、協力を乞うてくれたから、ジュディたちは嫉妬に呑まれることなく冷静でいられた。
「ありがとう。お二人の強さを胸に刻んでいきますわ」
「ジュディ様」
「ジュディ様……」
マリーベルは涙ぐんだ。醜い顔に悲鳴を上げて歩く先から人が逃げていく。そんな学園で、ジュディだけが悲鳴を飲み込みマリーベルの話を聞いてくれた。生理的な嫌悪を理性で抑えつけ、真剣にマリーベルと向き合ってくれた。魔女に魔法をかけられたことを何を馬鹿な、と笑わずに、姉妹の心に寄り添ってくれた。
「もうすぐ卒業パーティですわね。マリーベル、アンヌマリー。お二人の一世一代の大舞台、見届けさせていただきますわ」
淑女の見本のようなジュディは女王のような笑顔を浮かべて励ました。
卒業パーティ。
学園卒業と同時に成人を迎える生徒にとって、社交デビュー前のいわば前哨戦である。
婚約者のいるものは卒業後に結婚が待っている。気楽な子供からの卒業という意味も含め、大いに盛り上がるのだ。
また、卒業パーティから伝説の泉での愛の誓いへの流れもあり、最後まで相手が見つからなかった生徒はラストチャンスとばかりに張り切るものでもあった。
今年の卒業パーティの注目は、なんといってもテティートゥリアン子爵家の双子だ。
あの麗しいアンヌマリーは果たして誰にエスコートされるのか。最有力はラルフ・ロチェスター子爵だが、フィリップ王子が思い出にと言って掻っ攫っていくのでは、と囁かれている。
そしてあのマリーベルが伝説の泉で愛を誓うのは誰なのか。行列に並ぶからどうせばれるのにマリーベルは黙して語らず、男子生徒の全員が否定していた。
「フィリップ殿下からアンヌマリーにドレスが届いたわよ」
明日は卒業式、という日に母が優雅に紅茶を飲みながらアンヌマリーに微笑んだ。
三年生はもう登校しておらず、ラルフとは外で会うようになった。ラルフはきちんとドレスを贈らせてほしいと申し出て、仕立て屋に連れて行ってくれた。彼ならまだわかる。
「……なぜ、殿下からドレスが?」
フィリップがアンヌマリーのサイズを知っているとなれば大問題だ。見ればわかると言われても気持ち悪いが、ラルフが教えたとなると彼の話が迫ってるとしか思えない。いくらなんでも娘のスリーサイズを教える親ではないはずだ。
「エスコートの申し出よ。良かったわね、アンヌマリー。これを受ければロチェスター子爵と結婚した後も王子とのお付き合いが続けられるわ」
母が心から祝福するように言った。
トルソーに飾られた二着のドレスにアンヌマリーはぞわっと鳥肌を立てた。
つまり、フィリップのドレスを着れば愛人契約を了承したことになるのだ。
ラルフのドレスはウエディングドレスを彷彿とさせる、淡いピンク色。飾り気はあまりなく、デコルテと袖のレースが可憐な作りだ。オフショルダーにふんわりと広がるスカートは、今しか着られないデザインだった。
フィリップ王子のドレスもオフショルダーのローブ・デコルテ。胸の中央に付けられた花飾りから伸びたリボンが胸から腰、腰からスカートへと花飾りをポイントにぐるりと取り巻いていて華やかだった。花飾りには宝石細工の蝶が五匹留まっている。
さらに王子のドレスには、揃いのイヤリングとネックレスが付いていた。
母ならば迷わず王子のドレスを選ぶのだろう。良かったわね、という言葉からは娘が王子の寵を得た喜びしか感じ取れなかった。
アンヌマリーが怖気立ったのは、王子のドレスとアクセサリーが彼の色だったからだ。
五匹の蝶は、アンヌマリーに言い寄る男と同じ数。
「……お母様、お忘れですの? 卒業パーティは夕方からですわ」
卒業式後に大講堂を貸し切って開催される。生徒会役員や準備委員などの手伝いをする生徒を除き、生徒はいったん家に帰り支度をしてからになるのだ。
アンヌマリーとマリーベルは一度も出席したことがない。下級生の参加は任意だった。
夜はほとんど出かけていて夜中か早朝にしか帰ってこない母は案の定忘れていたらしい。あっ、とちいさく叫んで、困ったわねぇ、と困ってなさそうに呟いた。
腹を痛めて産んだ娘に魔女が魔法をかけたことも、その魔法が中途半端だったことも、この人にはさして気にすることではないのだ。アンヌマリーはもう何度目になるかわからない失望を味わった。
「それなら、マリーベルに着てもらったら?」
「サイズが微妙に違います。そもそも、なぜお母様が受け取ったのです?」
ラルフからドレスを贈られる予定であることは母も知っている。王宮の使者が来ても断ればよかったのだ。
「だって、あなたも了承していると思ったのよ」
「私の確認も取らずに?」
「でも、あなただって嬉しいでしょう? 王子様からのドレスよ、みんなが羨ましがるわ」
「……嬉しいのはお母様でしょう」
羨ましいのも、きっと母自身だ。
悪気があったわけではない。この母はこういう人なのだ。他人の気持ちを勝手に決めつけてそれを事実と思い込む。自分の善意を誰もが喜ぶと思っている。
いつまでたっても夢見がちな、少女のような女。
「もう、アンヌマリーったらそんなに意地を張らないの。女の子はね、愛してくれる男が多いほど幸せなのよ?」
きらきらと笑う母はたしかに幸せそうで、そしてうつくしかった。
「お母様の幸せと私たちの幸せは違います」
ノックもせずに入ってきたマリーベルが、アンヌマリーの気持ちを代弁した。
「きゃ……っ」
怒りの滲むガマガエルの顔に母が悲鳴を上げる。
「ベル、どうして……」
昼の間は部屋から出ないマリーベルが来るなんて、よほどのことだ。
「メイドが噂しているのを聞いたのよ」
おそらくはマリーベルへの嫌がらせとして、わざと聞こえるように言ったのだ。婚約直前の男と王子様からドレスを贈られたアンヌマリーと比べて、マリーベルには浮いた話一つない。もっともその噂の出所は、浮かれた母のうかつな言葉だろう。
「何を可愛らしく悲鳴あげてるんです、お母様。私、お母様そっくりでしょう?」
「いや、いや、いや! 違うわ、わたくしはそんな醜い顔じゃない!」
「あら、教えてくれたではありませんか。醜い顔に絶望して魔女の同情を買い、うつくしい顔にしてもらった、と。お母様の幸せなんてしょせんお母様の顔と同じ偽物ですわね」
マリーベルがにたりと笑いながら母に迫った。母はマリーベルの言葉を聞いていないのか、ひたすら嫌がって顔を覆い目を隠した。体ごと捻ってマリーベルが視界に入らないようにしている。
「……行きましょう、アン。ドレスは、着たいのなら止めないけど、不幸がうつるから止めておいたほうがいいかもね」
「不幸がうつる?」
「ドレスがここにあるってことは、お母様が先に袖を通してるわよ。そうでしょ? お母様?」
「だって……着てみたかったんですもの」
母の答えにマリーベルは軽蔑の眼差しをくべ、アンヌマリーは呆れのため息を吐いた。娘に贈られたドレスを娘より先に、断りも年甲斐もなく着るなんて常識がなさすぎる。
「……お母様、このドレスは差し上げます」
マリーベルの言う通り、不幸が染みついていそうだ。もとより着る気のなかったドレスだが、もう見るのも嫌になった。
母の部屋からマリーベルの部屋に移動したアンヌマリーは、机の上に置かれた本にふっと笑みがこぼれた。
「ベルはまた勉強?」
「そうよ。追い込みかけないとね」
「根を詰めすぎないでね」
「アンのほうこそ。あんまり思いつめないほうがいいわ。お母様のあれは病気よ。どうせなるようにしかならないんだもの」
「それで、お母様にあんなことを言ったの?」
「そうよ。なんだか吹っ切れたというか、やることをやったなら、どうなろうと悔いはないって思えたの」
マリーベルはおどけて肩を竦め、両手を顔の横でひらひらと振った。
アンヌマリーは苦笑した。その笑みに謝罪が含まれているのを見て取ったマリーベルは、やはり笑って受け入れた。
母がアンヌマリーとマリーベルを都合よく使い分けるのはいつものことだ。学園の男たちが、アンヌマリーばかりをちやほやすることも。
しかし、ドレスは。アンヌマリーは秘かに嬉しかった。ほんの一瞬だったが、男性からドレスを贈られた事実に胸がときめいたのはたしかだった。そこにはマリーベルへの優越感が、たしかにあったのだ。
マリーベルは、そんなアンヌマリーの心を理解して許してくれた。喜んだところで、あのドレスは毒でしかない。
「それで、ドレスはどうするの? 私たちって夜会用ドレスを持ってないのよね」
未成年のうちは誕生日パーティなどは昼開催になる。ダンスもある夜会用ドレスは作ったことがなかった。アンヌマリーでもはじめてだった。
「制服で行くわ。もう着られなくなるんだし、記念にって言っておけばいいでしょ」
「制服か、そうよね。特待生とかのドレスを持ってない子も制服だろうし、いいかもしれないわ」
「それに制服なら在校生に紛れ込めるわ」
「無理だと思うわ。夜のベルは、絶世の美女だもの」
どんな騒ぎになるのか、今から楽しみだ。
マリーベルとアンヌマリーは顔を見合わせてほくそ笑んだ。
翌日、姉妹は下級生たちから惜しまれつつ卒業した。
マリーベルは醜さのハンデがありながらも、彼女のやさしさに触れた女子生徒に泣かれていた。顔が醜くても愛嬌があって頭の良いマリーベルは、慕われていたのだ。
見慣れてしまえばそういうものだと気にならなくなったと言われ、マリーベルは微妙な気分にさせられた。
アンヌマリーはというと、いつものメンバーに囲まれ、彼女と別れの言葉を交わしたい下級生にがっかりされていた。
そして、夜。
卒業パーティに制服姿で現れた姉妹に、会場の全員が驚きに包まれた。
「……アンヌマリー!」
真っ先にやって来たのはラルフだった。エスコートをするつもりで待っていたのに、制服で来るなど恥をかかされたようなものだ。
「どういうつもりだ制服で来るなんて……。ドレスを贈っただろう」
顔を赤くして詰め寄るが、うつくしい顔をした少女はアンヌマリーではなくマリーベルだ。
マリーベルは冷めた目でラルフを見て、ふいと顔をそむけた。
「ええ。たしかにドレスは届きましたけど……。フィリップ王子もドレスを贈ってくださったんです。ラルフ様のドレスを着ても角が立つと思いまして」
困ったように笑うガマガエルの少女にラルフは苛立った。
「マリーベルには聞いていない」
「ラルフ様、わたくしがアンヌマリーですわ」
たたみかけるようにアンヌマリーが言った。近づこうとしていたフィリップたちが立ち止まった。
「わたくしが、アンヌマリーですわ」
もう一度はっきりアンヌマリーが言った。
「双子であっても声は違いますのに、おわかりになりませんの? あなたの愛しいアンヌマリーがどちらか」
ため息を吐きだしつつマリーベルが首を振った。
「アンヌマリー……何を言って……」
ラルフは混乱した。卒業パーティにアンヌマリーがこんなことをしてくる意味がわからない。
「マリーベル! アンヌマリー!」
「お二人とも、こちらですわ」
そこにジュディとカサンドラが声をかけてきた。二人はさすがのドレス姿である。
「ジュディ様、カサンドラ様」
「まあ、素敵! お二人とも目が覚めるようですわ」
ジュディたちのところに行く直前、振り返ったアンヌマリーが、
「そうですわ、フィリップ様。いただいたドレスですが、母が着たいと申しておりました」
「え……」
お前が私に話しかけるな、とマリーベルだと思っているアンヌマリーに激高しかけたフィリップは、その内容にぽかんとなった。
「なぜわたくしのサイズをご存知なのか気になるところですが、それはもういいです。母はドレスの意味を知っているようですので、そちらは母にどうぞ」
「え?」
チャールズたちもぽかんとなった。
ドレスの意味とはつまり、愛人契約のことだ。それを知っていて、姉妹の母が着たいと言っている。と、いうことは。
テティートゥリアン子爵夫人のうつくしさは有名だが、いくらなんでも親子ほど歳の離れた女を、それも狙っていた女の母とそういう関係になるのは気持ちが悪すぎた。蒼ざめるフィリップたちを置いてアンヌマリーはジュディたちの輪に入る。先にいたマリーベルが事情を説明していた。
「……ですのでわたくし、もう母には愛想が尽きましたの」
「マリーベル、大変だったわね」
「アンヌマリーも。どうするのか心配していたけれど、そんな両親なら逃げて正解ですわ」
「ありがとうございます」
会場の生徒たちは、先程のアレは姉妹によるどっきりだったと結論付けたらしい。ひそひそと話し合っているが、それよりどうやらラルフがふられたことと、フィリップが姉妹の母とどういう関係なのかに話題が移っていた。
「それにしても……」
ジュディがマリーベルとアンヌマリーを見比べて、納得したように言った。
「双子だけあってお二人はそっくりですけれど、よく見ると違いますわね」
「おわかりになります?」
「ええ。声はもちろんですが、仕草というか癖が違いますわ。わたくしどちらかというとマリーベルと一緒にいることが多かったでしょう? そう、雰囲気ですわね。雰囲気でわかりますわ」
ジュディの言葉に、マリーベルが満面の笑みになった。
それを見たカサンドラたちが「ああ……」と納得し、笑顔の流れ弾を浴びた男子生徒が胸を押さえた。
アンヌマリーはそんな笑いかたをしない。というか、淑女は口をいっぱいに広げて笑ってはいけないと教えられている。どうしても、という時は扇で隠すのだ。
マリーベルは、昼の顔がガマガエルなので相手を怖がらせないために、笑う時は隠さず笑うようにしていた。それでもガマガエルの魔人が「しめしめ、奴らめ罠にかかりよった」と高笑いしているようにしか見えないが、笑っていることは伝わる。
今のマリーベルはひたすら可憐でうつくしい。溌剌としているぶん、アンヌマリーの儚い笑みより感情が伝わって来てほっこりした。
ドレスの下をコルセットで締めているジュディたちは、パーティ料理を少し摘む程度であまり食べられなかった。マリーベルとアンヌマリーは彼女たちに遠慮して、少量をちょこちょこ食べていた。
その他の卒業生も着飾って談話しており、和やかなムードだ。
「あら、ダンスがはじまりますわね」
ちらちらと見てくるフィリップを颯爽と無視してジュディがダンスフロアに目をやった。
ジュディたちはもう新しく婚約を結び直している。さんざんこちらを蔑ろにしておいて、結婚してやるのだから大目に見ろという態度の男など知ったことではなかった。
ラルフはなぜアンヌマリーがこんなことをするのかまだ理解できないらしい。困惑の表情で、マリーベルをダンスに誘った。
「アンヌマリー、ドレスのことはもういいから、一緒に踊ろう」
「ロチェスター子爵、わたくしはマリーベルですわ」
「ラルフ様、わたくしがおわかりになりませんの? 一度、この姿であなたとお会いしたこともありますのに」
アンヌマリーは胸を詰まらせる。あの日の裏切りは、冷たい重しとなって彼女に圧し掛かっていた。
「なんのことだ?」
「放課後にお呼び立てしたことがありましたでしょう? あなたはわたくしをマリーベルと思い、王子たちとのおぞましい計画を得意げに語ってらっしゃいましたね。……あの日、わたくしは、わたくしたちにかけられた魔女の魔法のことを、あなたにお話するつもりでした」
思い出したのか、ラルフはハッとマリーベルとアンヌマリーを見比べ、蒼ざめた。
「魔女の、魔法……?」
言うに事欠いて魔女など。ラルフは震える声で言い返した。
魔女は伝説の存在だ。学園の泉と同じく信じられてはいるが神出鬼没で、どこに住んでいるのかもわからない。
魔女は困っている人を助けるというが、逆に傲慢な者には呪いをかける。恐ろしいものとして伝わっていた。
「すべてのはじまりは、母でした。わたくしたちにそっくりな母が魔女に出会い、醜い顔を絶世の美女にしてもらったことが、この滑稽で不幸な運命のはじまりです」
マリーベルが会場に響く声で語りはじめた。
「美女になった醜い娘は学園で注目を集めます。時の王太子殿下や公爵家である宰相のご嫡男、他にも侯爵家、伯爵家の嫡男が醜い娘に夢中になりました。――もちろんその全員に婚約者がおりました。愛すべき淑女、夫を支える良き妻になられるご令嬢ですわ」
あら、どこかで聞いた話ですわね――マリーベルはフィリップたちを見て目を細めた。
「さて、時が経ち醜い娘は学園を卒業します。卒業パーティには、王太子殿下から贈られたドレスを着ていました」
直接的な事は言われなかったが、フィリップからのドレスを喜んだあの様子では間違いないだろう。フィリップたちの顔がゆっくりと絶望に染まってゆく。
「そうして醜い娘は子爵家に嫁ぎ、今や国王陛下になられた方や、宰相や大臣になられた方々に、今も愛されています。彼女の産んだ双子の姉妹は母親にそっくりな醜い顔で、憐れんだ魔女が魔法をかけてくれました。姉は夜明けから日没まで、妹は日没から夜明けまで、母親とそっくりのうつくしい顔になるのです」
マリーベルはわざとらしいほどにっこりと笑った。怒り、軽蔑、憐憫、およそ愛情以外の感情が滲み出たそれは、アンヌマリーのものではなかった。
ようやく理解し始めた彼らに、アンヌマリーが同情を込めて告げる。
「わたくしが皆様に応じなかった理由は、これでおわかりいただけたと思います。まさか自分の兄弟かもしれない方に、身を任せるわけにはいかないことは、ご理解くださいますでしょう?」
憐れみを込めた表情、その慈悲深い声の響きに、フィリップ王子はようやく姉妹の言葉が真実だと悟った。
「アンヌマリー……なのか」
それはもはや問いの形をなしていなかった。「はい」とアンヌマリーはうなずいた。
「お疑いでしたらテティートゥリアン子爵令嬢と結婚したいとお母君におっしゃってみてください。きっと、烈火のごとくお怒りになって反対なさいますわ。お父君におっしゃれば蒼ざめて泣いてしまわれるかもしれません。お心当たりはおありでしょうから」
マリーベルが残酷な事実を、まるでそぐわないすっきりとした顔で言った。
本当はずっと言ってやりたかったのだ。だがうかつに「ご両親にお伺いを」などと言えばその気にさせてしまうだろうし、両親に怒られ反対されればそのぶん燃え上がってしまうだろうことは簡単に予想できた。
それでも彼らが心から――婚約者を廃してまで愛してくれたのなら、愛することはできずとも、その理由を誠実に告げるつもりだった。
しかし彼らは結局ジュディたちが婚約解消に踏み切るまで何もしなかった。アンヌマリーを都合の良い愛人に仕立てようとした。
そんなものが恋と呼べるか。
他人の人生を踏みにじって恥じない。そんな男の顔を立ててやる必要などアンヌマリーにもマリーベルにも感じなかった。
「……ラルフ様」
アンヌマリーの呼びかけに、ラルフはびくりを肩を揺らした。
「わたくしとマリーベルにかけられた魔法は、真実の愛で解けるのだそうです」
「真実の、愛?」
響きだけはうつくしい虚ろな言葉に、ラルフが狼狽えた。
「その結果、この醜い顔に戻ってしまうのだとしても……。わたくしはあなた様と愛を育んでみたかったですわ」
ガマガエルのようなぎょろりとした大きな目から涙が零れ落ちる。
「お母様はご自分のもっともうつくしいもの――涙と引き換えに魔法をかけてもらったそうです。では、わたくしたちは、何を犠牲にさせられたのでしょう……?」
夜の間だけうつくしいマリーベルが悲しく問いかけた。姉妹が魔法をかけられたのは赤子の頃だ。おそらくそれは、魔女しか知らないのだろう。
時として武器にもなる涙が母の中でもっともうつくしかったということは、その頃の母は純真無垢な乙女であったのだ。しかし、うつくしく変身した娘は初恋の人には目もくれず、学園で出会った男たちの虜になった。醜かった過去を知り、それでも愛してくれる男と結ばれて、魔法が解けてしまうことを恐れたのだ。母がなによりも誰よりも愛していたのは自分だけだった。
「皆様、これがわたくしたち姉妹の真実ですわ。わたくしたちのせいでせっかくの学園生活が不快なものとなった方もおりましょう。今もまた大切な卒業パーティをだいなしにしてしまったこと、心よりお詫び申し上げます」
姉妹の美醜のせいで、生徒たちは振り回された。アンヌマリーとマリーベル、それぞれの擁護に回った生徒が対立し、先生でさえあてにならない。とんだ学生生活だ。
当事者のみならず、無関係の生徒でも大なり小なり迷惑をこうむったことがあるだろう。なにしろ国の次代を担うべき王子と高位貴族の醜態を目の当たりにしたのだ。
マリーベルとアンヌマリーは会場の生徒たちに向かって一礼した。
そして、そのまま会場を出ていった。
目指すは伝説の泉だ。
卒業パーティを中断させてしまうことはわかりきっていたので、後のことはジュディたちに任せてある。今頃は新しいパートナーとダンスを踊って次の話題を提供しているのだろう。風に乗って音楽が聞こえてきた。
「今頃、フィリップ王子たちぽっかーんでしょうね」
うまくいった、とマリーベルが笑った。
「婚約が解消されてること、自覚なさそうだったものね」
それどころか別の男にエスコートされていたことさえ気づいてなさそうだった。でなければ入り口でのんきにアンヌマリーを待っていたはずがない。どういうことだ、とジュディたちに詰め寄っていただろう。
そうなれば事は婚約解消だけでは済まなくなる。王家と公爵家、高位貴族の対立だ。姉妹は国王を尊敬も信頼もできないが、子爵夫人とのことを隠し通して面子を保っていられる手腕はあっぱれだと思っていた。ジュディたちのためにも内乱は防ぐべきだ。
「私たちが制服で来た時点で計画は失敗だって気づけば良かったのに」
「あら、私はあの王子の顔に泥を塗れて満足したわ」
「悪い女ね、アンったら。でも、そうね。自分で摑んだ泥なんだから王子も文句はないでしょう」
吹っ切れた女は強いんだから。アンヌマリーへの態度に憤慨していたマリーベルは、自分でも思ってもいないことを言って笑った。
しばらく歩いていくと泉へと続く森がある。
泉までの道はこの日のために生徒会が整備し、足元は転倒防止用のランタンが点々と照らしている。
夜のしじまに微かな水音。こんこんと湧き出る泉には、星が揺れていた。
マリーベルとアンヌマリーは泉のまえに立ち、手を繋いだ。
「私、マリーベルはこれから何があっても、遠く離れてしまおうと、アンヌマリーを愛し続けると誓うわ」
「私、アンヌマリーもどんな困難があろうとマリーベルを裏切らず、愛し続けることを誓います」
姉妹が愛を誓ったその時、泉に月が映った。
「え……?」
「なに?」
いや、月ではない。光だった。
光はしだいに強さを増し、目をつぶったマリーベルは咄嗟にアンヌマリーを抱きしめた。
ざわざわと木々が揺れ、瞼の向こうが暗さを取り戻したと思った次の瞬間、突風が二人に襲いかかった。
「い、今の……」
「うん」
目を開ければ何事もなかったかのように夜が広がっている。だが、姉妹はたしかに魔女の声を聞いた。
――おめでとう、ありがとう、これぞ真実の愛!
高らかに笑いながら、そう言っていた。
真実の愛とは何か。
人間にとって永遠の謎である。
小説の中では一冊につき一つは必ず存在するが、現実には難しい。神の前で愛を誓っても、その瞬間で心が時を止めることはできないからだ。
マリーベルとアンヌマリーは当然のように男女の間で生まれる愛こそ『真実の愛』だと思っていたが、魔女は真実の愛と言っただけで男女の、と定義しなかった。
ようするに、マリーベルのアンヌマリーへの、アンヌマリーのマリーベルへの、家族愛もれっきとした愛の一つの形なのだ。
そこでハッとマリーベルが泉を覗き込んだ。魔法が解けたのなら、元の醜い顔になっているはずである。
「う、嘘……。解けてないの……?」
その隣にアンヌマリーの顔が映る。マリーベルそっくりの美少女がそこにいた。
「アン!」
「ベル! ああ、ベル!」
姉妹は抱き合って泣いた。
がっかりしたような、安堵したような、わけのわからない感情が爆発して泣いた。
姉妹の人生を祝福する、産声のような泣き声だった。
その後、家に帰ると母が発狂していた。
髪を振り乱し、しきりに「どうして、どうして」と繰り返しては頭を掻きむしっている。まさに狂人としかいいようのない姿だった。
出迎えに来た使用人が、姉妹がそっくりの顔をしているのを見て驚きの声をあげる。その声に振り返った母は、魔法が解けてもうつくしいままのアンヌマリーに目を見開き、奇声を上げて襲いかかってきた。その顔はまさに醜いガマガエルだった。
母を取り押さえた使用人と父が言うには、ちょうど姉妹が泉で愛を誓い合った直後に魔女が現れて、母にかけた魔法を解いていったらしい。
『真実の愛を見つけるまでの期間、顔のうつくしさと心の醜さを測っていたんだよ。顔が醜くても心が清らかな乙女の願いをアタシは叶えた。顔がうつくしくなった途端に豹変する娘はいるからねぇ……。どんなに見た目がうつくしくても、心に魔物を飼っていたらだいなしだ。だからこその真実の愛だったんだよ』
娘たちは合格、と魔女は言った。
魔法が解けた後の美醜は、つまり心のうつくしさに比例していたのだ。
フィリップたちに言ったことは事実でしかない。若者には酷だったろうが、まあ自業自得だね、と魔女は笑っていたそうだ。
なぜ母の魔法が解けたのか。それは、そういう条件だったからだという。姉妹が真実の愛を見つけた時、母親の魔法も解ける。
『娘たちは見事に真実の愛を見つけたよ。あの子たちの代償は初恋。まったく、酷いことを思いつく母親だね! 初恋でこっぴどい目にあえばもう恋などできまいと思ったのだろうかね、よくお聞き。愛というのは一つだけじゃあないんだよ』
魔女は人を幸福にすることで徳を高め、魔法を使う。魔女に魔法をかけられた者が周囲に幸福を振りまけば、それが魔女の力になるのだ。
『お前は自分が不幸だと言うだろう。でもいいかい? その不幸はお前が周囲に振りまいていたものが返ってきただけさ。……はじめて会った時、お前はそりゃあ清らかだった。それがこんなことになっちまって、本当に残念だよ』
うつくしい顔を得た醜い娘は自分のうつくしさに有頂天になり、初恋を捨てた。
赤子だった姉妹の初恋を代償にしたのは、復讐のつもりだったのかもしれない。母がもう心の片隅にもない初恋への、無垢な娘がいずれ迎える初恋への。
魔女に出会うきっかけとなった自分への復讐。
「お母様……」
「そんな……」
そして母は、娘への醜い嫉妬心を反映した醜い顔に戻っている。
「どうしてなの。どうしてあんたたちばっかり……」
「お母様、お世話になりました」
「私たち、この家を出ていきます」
母の恨み言をばっさり切り捨て、マリーベルとアンヌマリーが別れを告げた。
言葉の意味を咀嚼するのに時間がかかっていたのか固まっていたが、やがて母が呆然と顔をあげ、父と使用人も蒼ざめている。
元より姉妹ははじめからこうするつもりで準備をしてきたのだ。マリーベルとアンヌマリーは共同研究で論文を書き、隣国のアカデミーに招聘されている。他にもいくつかの大学や研究機関から声がかかっていた。
学園を卒業したばかりの小娘が、素晴らしい学者と席を並べるのだ。双子の姉妹はそれぞれ得意分野が違う。やがて、道を分かつだろう。
それでも互いがいてくれたからここまで来れた。尊敬と信頼とたしかな愛情を胸に、家を出ていく。
「ま、待て! 許さんぞそんなこと! この家はどうなる!?」
父が叫んだ。
去っていこうとした姉妹が振り返る。貴族として生まれた以上義務がつきまとうのは当然だ。しかも、姉妹の魔法は解けている、利用しない手はなかった。
「それなら知らないうちに生まれていた弟に継がせればよろしいでしょう」
「名前すら知らない妹もいつのまにかいるとか。今こそ真実の愛に報いる時では?」
マリーベルとアンヌマリーが冷たく吐き捨てた。貴族の義務というなら愛人の子にも平等にやらせるべきである。結婚せずとも姉妹は自分の力で名をあげるつもりだ。
娘たちが知らないはずの愛人と愛人の子供を娘たちに冷たく突きつけられ、父は膝から崩れ落ちた。
マリーベルとアンヌマリーは部屋に戻って着替えると、荷物を持って家を出た。準備金はアカデミーから貰った奨学金と、論文の賞金だ。あの家で買ってもらった物はすべて置いてきた。
「なんだか体が軽いわ、ベル!」
「きっと心が軽いからよ、アン!」
アンヌマリーとマリーベルは隣国への汽車の中、手を取って寄り添いあう。
やがて朝日が昇っても、もう隠れる必要はなかった。
マリーベルのほうが気が強いです。アンヌマリーはちやほやされるのを嫌っていたので少し消極的。
婚約者の令嬢たちは婚約者に愛想が尽き、また姉妹の母との事情を(ようやく)親から聞いて「ないわー」となりました。
だいたい国王とその側近が囲んでいたので他の貴族は母親に手を出していません。念の為。