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人魚姫メルジーナは今世こそ平和に結婚したい  作者: 丹空 舞
第二章

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神を信じますか

いっそ不自然なほど普段通りに、部屋に下がったあと。



「良いのですか」


と、戸惑いながら尋ねたメルジーナに、


「良いに決まっているじゃない」


と、皇女は応えた。





「政略結婚をすることは決まっているのよ。私が産まれた瞬間から。この帝国のために生きることは、私の務めよ」


息を吐くように言いながら、エルネスティーネは香油を爪に塗り込んだ。

湯上がりの彼女の髪を、布で柔らかく叩きながら、メルジーナは感心する。


幸せや不幸とは別の次元のことなのだろう。

皇族の姫に産まれるというのは、そういうことだ。

エルネスティーネはおそらく、幼少の頃から自分の運命を誰より自覚していたのにちがいなかった。


(賢い方だわ。時代も己の立場も理解した上で、自分の道を自分でお決めになっている)


メルジーナは、生まれながらの皇女に心から敬服した。自由恋愛に生きる巷の若い女性たちはいきいきとして美しかった。だけど、国のために身を捧げると決心している少女は、いっそ美しさなど越えて、何か儚げな尊さのようなものさえ感じられた。



「相手は大公国のディードリヒ二世よ。相手にとって不足はないわ。エスター大公国と友好関係が築ければ、帝国と大公国の関係が変わる。いずれ帝国に併合できるかもしれない。私が役立てるのはそれくらいだわ」


メルジーナは黙って皇女の細い髪を撫でた。

顔も知らない男のもとへ嫁ぐことに、恐怖がないわけがない。

エルネスティーネ様は、皇女の覚悟をもって生きてらっしゃるーー。


人間の皇族が敬われるのは、血筋の尊さが理由ではないのだとメルジーナは悟った。

彼らの人並みならない国への想いと、国民への責任感。私心を封殺する決意。きっとそれらの覚悟に人は圧倒されるのだ。


「そうだわ。お父様が言っていたけれど、二週間後に大公国へ婚約の儀の前の顔合わせに行くわ。非公式だけどね。そのときに政治的な調印もするのですって。父様は行けないからジーク兄様が同行するわ」


ジーク兄様というと、あの氷の皇太子と名高いあの人しかいない。


「兄様、あなたと話したがっていたから丁度よかったわね。エスター大公国に行ったら、もうなかなか会えないもの」


「え……?」


「えっ、て、当然でしょ? メルジーナ、あなた、私の専属なのよ?」



ということは。




(私もエスター大公国に永久就職!?)






皇女の本格的な輿入れは三年後。

その頃には永久にリシリブール帝国と別れることになる。




突然言い渡された縁談は、メルジーナの将来など簡単にすくいとっていく。


そうこうしているうちに日々は飛ぶように過ぎ去り、調印式に参加する面々と皇女の一行を乗せた大船が、エスター大公国へ向けて出発した。






船上のメルジーナは、遠ざかって久しいリシリブールの港の方角をぼんやり眺めていた。

今は見送りの盛大さはなりをひそめ、あるのはただ広大な海の青だけだ。


エルネスティーネ皇女は船酔いするといって早々に船室の寝台に引っ込んだので、メルジーナも待機と称して休憩している。貴族の面々は似たようなもので、陸で見るよりも案外に活発な波の揺れに耐えられなくなり、甲板にはカモメくらいしかいない。


こうしていると皇居で過ごしたときが夢のようだし、こうして海の上にいる今も夢のようだ。さらにはこれから待ち受けている新たな異国での生活を想像しても、まるで夢物語のように思えるのだから、現実の確かさなどとうてい信じられない。


「まいったなあ……」


誰もいないのをいいことに、メルジーナはぼやいた。

そもそもメルジーナの第一目標は、平和で素朴で幸せな平凡な結婚なのである。下町のパンやでも農夫の妻でもつとめあげる気概があるというのに、なぜか異国くんだりまで出立している。


「人生は思い通りにいかないものねえ」

「そのように憂える年でもないのではないか?」



後ろから声をかけられて、メルジーナは飛び上がった。

この腰を震えさせるような甘く玲瓏な声音はーー。


「メルジーナ嬢。だったな」


リシリブール帝国第一皇子、ジークフリート・クラッセン。

帝国中の貴族を畏れさせる、氷の皇子。

はっきりとした鼻梁と切れ長のまなじり、海を思わせる碧い瞳。

麗々たる美貌は圧倒的に覇者の風格があるが、本人が派手なものを好まないために豪奢な印象は与えない。しかし、飾りたてるよりもむしろ、単純素朴で飾り気のないことが、ジークフリート本人の魅力を引き立たせていた。

生まれ変わったらその手袋になりたい、と帝国中の淑女に言わしめる、ジークフリート皇子その人は、白手袋をひょいとはずしてズボンのポケットに無造作に突っ込むと、当然のようにメルジーナの隣にやってきて甲板の手すりに頬杖をついて海を眺めた。



(げっ)


メルジーナは身構えた。

王族とかかわるとろくなことがない。

ジークフリートは皇帝の一族なので厳密には王族ではないが、メルジーナの中では(かかわり合いになりたくないやつ)と大きなくくりの中に入っていた。そう、幸せな結婚のために必要なのは権力ではなく、敬意と愛情、少しのお金、そして目立たぬことである……。

目立つというのはつまるところ、邪魔ややっかみが増えるのだ。


羨望はいつも少しの毒を含んでいる。

正直、メルジーナは他の人間の評価などはどうでもよかった。

うらやましがられなくてもいい。全然いい。

ただ一人、自分の好いた相手に好意をもってもらえるなら、そして平和に一緒に生きていけるなら、もう十二分。それだけでいいのだ。


それなのに--。

目立つ男の中の男、ナンバーワンの方から声をかけてくるのだ。

平和な生活が脅かされつつあるのを察してメルジーナは憂鬱になる。

こころなしかメスのカモメが殺気だっている気さえするのは、考えすぎだろうか?


「海上が平気な令嬢とは珍しいな」


さすがに船に乗ったことは数えるほどしか無いが、元は嵐の荒れ狂う海で幾度も夜を越してきた人魚なのだ。こんな揺れは、岩を砕く荒波の威力に比べればそよ風で葉っぱが震えるほどのものだ。


あいまいに微笑んでやり過ごそうとするメルジーナの心を知ってか知らずか、ジークフリートはさらに距離を詰めてくる。


「危ないぞ。雨こそ降っていないが、この先もかなり揺れる」

「……ええ、そうですね。もう戻りますわ」


言いながら、メルジーナの内心は

(せ、せっかく久しぶりの海なのにー!)

と穏やかでなかった。


海の揺れには慣れている。

といっても、メルジーナが慣れているのは海中の揺れだ。

陸上ーー船の揺れは、陸と海の間のような不思議な感覚で、新鮮だった。






(剛毅な女性だ)

と、ジークフリートは思っていた。

船に共に乗った部下たちは全員部屋に引っ込んでしまった。

こんな荒れた波にひるまないなんて、この女性は本当に貴族なのだろうか? 漁師の娘だと言われた方がまだ納得できる。


(だが、見た目はまるで人形のようだ。でなければ、優雅でたおやかな観賞用の魚のような……)


風をはらんでふわりとなびく姿も華奢で、ともすれば手をのばして懐で守ってやりたくなる。しかし、実際には大の男でも目をまわしかねない、荒れた海の上に堂々と立っているのだ。


(なんだかーー目をはなせない女性だ)


と思ったところで、自分自身がそんなことを考えていることに気付いて、ジークフリートは瞠目した。


今まで皇太子としての地位を目当てにすり寄ってくる奴らを数え切れないほど相手にした。その中には眉目秀麗なジークフリート自身を狙っている女性も多くーーいや、半数ほどはそうだったーーとにかく、あの手この手で籠絡させられそうになっているうちに、いつのまにか苦手意識をもつようになっていた。


後にも先にもこの女性くらいだろう。

自分をミジンコなどにたとえるのは……。


浮き足立っている内心を隠そうと、ジークフリートは小さく口笛を吹きながらマストにロープを巻き付けた。幼い頃から耳なじみのある、漁師の歌だ。

煌めきを秘めた海洋の水面のような瞳がじっとこちらを見据えているのに気が付いて、ジークフリートは年甲斐もなく顔を紅潮させた。


「な、なんだ?」


(落ち着け。娘一人に惑わされるなんて、全くいよいよ俺らしくないーー)


「そのマントですがーー」

「あ? あ、あぁ……これがどうかしたか?」

「緑色です」


じっと見据えられて居心地が悪くなる。

何か悪いことでもしたかのような気持ちでジークフリートは口を開く。


「皇室の色なのだ。一応、これでも皇太子なのでな」

「船の上ではしまわれておいたほうが良いかもしれません」

「なぜ」

「風をはらむと一枚の布は武器にも防具にもなります。水に濡れていれば特に……それに緑は、航海に禁忌の色なのです。海の神が怒るのです」

「神だと?」

ジークフリートは鼻で笑った。


「何かおかしなことを言ったでしょうか?」

と、メルジーナは落ち着き払って言う。


「いや……神など、この目で見たわけでもなし。色くらいで何が変わるだろうか、と思ってな」


信仰を軽んじるわけではないが、布地の色が変わるだけでいったい何が変わるだろうか、とジークフリートは思った。正直、服装にそこまで興味のない人間なのである。


「では、ジークフリート様はその目で見たもののみを信じておられると」

「ああ」

「……に」

「え?」

「案外に、狭い世界に生きてらっしゃるのですね」


メルジーナの白い指が踊るようにジークフリートのマントへ伸びた。

その動作があまりにも自然だったので、ジークフリートは瞬間、制止するのを忘れた。すくい上げるようにメルジーナはマントを手に持ち、風の強まってきた海面へためらいもなく投げ入れた。

ジークフリートが、

「あっ」

と声を出す前に、事は起こった。



黒い塊がぬるっとしぶきをあげたかと思うと、がばあっと大きな口を開けてマントを飲み込んだ。

それは鯨かとみまごうほどの、信じられないほど巨大なさめだった。






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― 新着の感想 ―
[一言] もうこれどういうジャンルか分からなくなってきた… 全体の3分の2位まで来て国でちゃうし ニシンの船の下りであったはずの船酔いの描写が何故かなくなってるし。 よくよく考えてみれば昔の従者兼…
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