リア・ヴァイス 訪問す
「これは、また……」
使者として参上したリア・ヴァイスは、リーメンシュナイダー家の門前に立ち、正直なところ驚いていた。
自身の記憶にあった数年前の風景と一変していたからだ。
おばけ屋敷といっても差し支えなかった、歴史的建造物のような屋敷は、美しく荘厳な建物に生まれ変わっていた。
はびこるツタも、蜘蛛の巣も、崩れた石垣も、ぼうぼうと伸びた草もなく、きちんと手入れされた本来の貴族らしい住処になっている。
後ろにいるリアの直属の部下の兵士二人も口をあんぐり開けている。
どちらもいい年をした中年の男性だが、リアを小娘と見下すこともなく助けになってくれている優秀な部下だ。
皇室直属の間者であるリアは今日のような任務のときは男装に限りなく近い恰好をしている。
王国ではありえなかったことだ。
戦火で失ったものは数限りなくあったが、リアは現在の自分自身を好ましく思うようになっていた。
帝国は自由で、人間が人間らしく生きていける場所だとリアは思う。
いつの間にか開いていた口を急いで閉じて、リアは右足の革靴の爪先を軽く地面に打ち付けた。
「お待ちしておりました」
門の前で出迎えたのは、上級執事のベームだった。
光沢のあるきっちりした仕立ての黒い背広を着ている。
老齢ではあるが上背のあるベームの身体にたるんでいるところはない。
下男も従僕もいなかった屋敷で人一倍仕事をしてきた苦労が如実にあらわれていた。
最上級の執事である家令を雇うには税を払い、多額の給金が必要だが、それを差し引いてもベームは伯爵家に必要とされていた。
リアたちを迎えたベームは挨拶もそこそこに、屋敷への門をくぐった。
案内されながら、リアは改めてきれいになったものだと思う。リアの知っているリーメンシュナイダー邸は、古めかしい、言ってしまえばボロい館だった。
それが何故なのかも、帝国の諜報部隊の一人であるリアは知っている。
リーメンシュナイダー伯爵の城はまた別にあるが、そこは管理人が置かれ、最低限の手入れがされ荘厳かつ豪奢ではあるものの、生活感がない。あくまでも建前、貴族としての義務を果たしているというだけで、城は儀式や公務のためのものだと割りきる伯爵家のやり方はいっそ気持ちのよいものだった。そのぶん、代々の当主が居住用にしていた館は改修もされず、手入れも後回しにされていた。
それが、今では一分の隙もなく補修され、磨きあげられている。
リアは伯爵邸の塵ひとつないエントランスとさりげなく配置された調度品、小さいながらも趣味のよい絵画を見て、よくここまで持ち直したと思った。
王や貴族が何もしなくても敬われもてはやされて生きてこれた時代と、今は違う。
民を搾取していた王国は形骸化し、自由を謳う帝国の一部となった。虐げられていた平民は自らの意志を持ち始めた。貴族は税だけでなく、新たな収入源を持たねばならなくなってきた。権力もなく商才もない貴族は絶えゆく運命だ。
かつて王国を憎んでいたリアは、基本的には貴族のありかたについて懐疑的だ。だから、時代についてこれない貴族が没落しようが滅ぼうが特に何とも思わない。しかし、見るからに人の良さそうなリーメンシュナイダー伯爵が、私邸をボロ屋敷にしてまで城を守っているのは、幾分か同情の余地があった。
だから、ふかふかとしたソファーに座らされて、欠けていないカップでメイドの淹れた紅茶を飲みながら、正直なところほっとしていた。
豪勢とはいえないまでも、清潔でこぎれいにされた屋敷だ。
「お待ちしておりました。本日はご訪問ありがとうございます」
リーメンシュナイダー伯爵は、リア一行をにこやかに出迎えてくれた。微笑み返しながらも、リアは内心思っていた。
失礼だが、リーメンシュナイダー伯爵だけでは決してここまでの復興はできなかっただろう。リアの調べでは一人娘のメルジーナという令嬢がいたが、病弱らしいから屋敷や財政のことになどとても役立つまい。養子のシュテファンは各方面で噂をきく有能な人物らしいが、公務で忙しく家のことにまで手が回らないらしい。
リアは品のよい香りの紅茶を一口飲み、嘆息した。
奇跡ともいえる。
リーメンシュナイダー家にとっては、救世主登場といったところか。
ティモシーという人物、領地に有り余るほどある魚を利用して莫大な富を築いたという。さらに、まだ少年であるらしい。
どのような人物なのか。
リアは建前上持参した書状を、懐から出した。
質のよく軽い紙は最新式の設備を使って作らせたものだ。そして、こんなものを作らせることを思い付くのは広い帝国中でも1人しかいない。
誰よりも珍しい物好きのリアの主人は、此度の魚の加工騒動についてずいぶん興味を持っている。
ティモシーという少年についてもだ。
今回はその辺りも調査しなければならない。
リアが鳶色の髪をかきあげたとき、部屋にノックの音が響いた。
「失礼いたします」
大きな鈴の音が鳴ったような、清浄ささえ感じる声に、リアだけでなく室内にいた者全員が扉を見た。かしの木を丁寧に彫った大きな扉の蝶番は少しも軋むことなく開いた。
噂の《救世主》のご尊顔を見てやろうと視線をあげたリアは――、
息が止まった。
想像していたのは陶器の置物のような、年相応の見目のよさと若々しさを絵に描いたような少年だったのに、彼は全く違っていた。
優雅な所作。無駄のない身のこなし。
成人男性と比べて小柄ではあるが華奢ではない体躯。
菓子のクリームをすっと引き絞ったようなきめの細かい肌。
尖ってはいないものの細い顎、まっすぐに通った鼻梁。
そして何より印象深いのが、片方ずつ色のちがう瞳だった。
今まで見たことのない、深海の水をそのまま掬いだしたような不思議な色だ。
仕草は優美そのものなのに妙に野性味のある――。
「申し訳ありません、所用で少し外に出ておりました。おや、使者の方というのは……女性なのですね。これなら走ってくるんだったな」
「ティモシー。失礼ですよ」
リーメンシュナーダー伯爵が苦笑しながら止める。
「すみません。でも、女性のパンツ姿って初めて見たから。街のお嬢さんたちよりもずっとすてきだなあと思って」
少年は無邪気に言うと、形のよい唇をほころばせ、
「お初にお目にかかります。ティモシー・リーメンシュナイダーです」
と、名乗り礼をした。
言おうと思っていたことを全て忘れてしまったリアは、形ばかりの自己紹介をするとソファに座り込んだ。まるで力が出なかった。
部下たちが何か言おうとしているようだが、正直なところそれどころではない。
(……天使ッ!)
つまるところ、これがリアの人生で最初で最後の一目惚れというものだった。




