水を蹴って
メルジーナは叫ぶなり、金髪を翻して海へ潜った。
青年が何かあわてて言っていたけれど、そんなのを気にしている余裕はない。
あの人に触れられた頬が焼けてしまいそうだ。
見つめられた灰色の瞳に映った自分は、自慢の金髪も濡れてしまって痩せたネズミのようにみすぼらしく、ぽかんとした間抜けな顔をしていたように思う。
(ああ、は、恥ずかしいっ! 暑い!)
哀しいかな、メルジーナには男というものに憧れはあっても耐性がない。
ティモのような少年や、メルジーナの父親の伯爵のように気心のしれた家族ならばリラックスもできるが、免疫をつける以前の段階であの美丈夫に遭遇してしまった。
挙動不審になるのも仕方がない。
(う、美しすぎるのも、苦手だわ……)
せめて、メルジーナの姿だったらまだよかった。
《今》は庶民中の庶民、ちょっとばかし泳ぎが得意なメルヒオールなのだった。
あの美しい瞳に、みすぼらしい自分を入れてしまったことでさえ恥ずかしく感じる。
(前世で王子に出会ったときも、どうにも恥ずかしくなって逃げちゃったのよね。足も痛かったし)
人間の姿では女として整えているときでないと堂々と振舞えない。
海の中では髪をとかす必要もなかったし、服や装飾品を選ぶ必要もなかった。
胸を隠す貝殻はいつも同じものだったけれど、それを特に引け目に感じたこともない。
父と姉たち以外の同種族には会わなかった。
ずっと家の中にいるようなものだったのだ。
でも、人間はちがう。
屋敷の中でさえ、いろいろな人間が出入りするのだ。
人間の娘が娘らしくするのには、努力が必要なのだと痛感する。
海を泳ぎながら、昔の自分の姿をメルジーナは思い出した。
珊瑚のよく映える紅色の長い髪と瞳、透明な白い肌。
貝殻の裏側のような虹色のうろこ。弾力性に富んだ尾びれ。
自分のもつ色素が海面に反射して、色鮮やかな海藻のように揺らめくのを見るのが好きだった。
今や全く違う姿になってしまった。
ひとつも寂しさを感じないといえば嘘になる。
だけど、尾びれはなくても足がある。
その足に痛みはないし、声も出る。
それだけで十分だ。
(ティモ、ちゃんと分かるかな。分かるよね)
港町の海をぐるりとまわりこむと、森に向かう川がある。
川といっても幅はそれなりに広く、大型の船でもすれ違える程だ。
森の奥に向かうほど細くなっていくため船の通行はないが、メルジーナには十分の広さだ。
川をしばらく泳げば小さな湖に出る。
メルジーナはティモとそこで待ち合わせていた。
ティモにしてみても泳ぎたいときはあるようだが、メルジーナの様子や時間などを考慮して、従者としての仕事を優先して、一緒に泳ぐときとそうでないときがある。
着衣のままで泳ぐことはメルジーナにとってたいした問題ではなかった。
プロのダンサーが少し重い衣装を着て踊るときと大差はない。
確かに人魚だったときの泳ぎとは別物だが、それでも魂に染みついた泳ぎ方は消えていなかった。
昔は息をする代わりに泳いでいたのである。
時速80キロで泳いでいたティモにはさすがに及ばないが。
この人間の体も慣れてきた。
尾びれがないので魚のようにはできないが、足をそろえて動かすことで準じた動きができることが分かってきた。
泡をたてずに水を蹴ると、すっと体が進む。
速さを出したければ、水の流れに乗ればいい。
力をそれほど入れなくても、水のほうがメルジーナを運んでくれる。
ふと、指輪を大切そうに握りしめていた青年のことを考えた。《婚約指輪》だと言っていたけれど、美貌の彼はあのあともう一度プロポーズしたのだろうか。何かのきっかけでうまくいかなかった過去があろうとも、ここまで必死になってくれるなんて、それだけで相手の女性は幸せだろう。
自分もいつか、婚約者に指輪をもらうような、そんな日が来るだろうか。
来てほしい。
いや、来なければ困る。
こちらは文字通り命を懸けて、現世に恋をしにきたのだ。
パン屋でも花屋でも鍛冶屋でも、かわいい魚たちを売る魚屋でさえも、職業は何だっていい。
真面目で優しくあたたかな心をもった素朴な男と結婚したい。
メルジーナは今世の婚活への決意をあらたに、水を蹴った。
ティモと待ち合わせている森の中の湖まであと少しだ。
湖のほとりでティモが待っているはずだった。
(着いたら急いで《お嬢様》の服に着替えなきゃ。)
髪は乾いても頬のほてりをごまかせるか、分からないけれど。
メルジーナは肺に残った空気を全て押し出すように、こぽっと息を吐いた。




