81:小さな村の教会2
前回のざっくりあらすじ:ニースは初めて、カルデナ教の教会を訪れた。
村の空に茜が差して、教会の尖塔がきらりと光る。夕食の時間になり、一行は食堂へ招かれた。グスタフたちと共に、ニースが部屋を出ようとすると、ラチェットの背にぶつかった。
「うわっ……! ラチェットさん、どうしたんですか?」
ニースは横から顔を出して、ラチェットが立ち止まった意味を理解した。部屋の前にはメグがおり、ラチェットは見惚れていたのだ。メグの肌はこれまで以上にツヤツヤしており、褐色の滑らかな肌と、すっかり毒気を抜かれたような柔らかな笑みが、ランプの明かりに美しく照らされていた。
――聖皇国の風呂は肌が綺麗になるって……マルコムさんが言ってたのは、本当だったんだ。
ニースが、ぼんやりとメグの横顔に見入っていると、セラがニースの袖を引っ張った。
「ねえねえ、ニース。どうお?」
セラは両手をひらひらさせて、ニースに見せた。祭りの後から毎日欠かさずクリームを塗り込んでいたセラの手は、爪の先までツルツルになっていた。ニースはセラの手を取ると、するりと優しく撫で、笑みを浮かべた。
「うん。とっても綺麗になったね。すべすべしてる」
そう言うニースの肌も艶めいて、ふわりとした笑顔は息を飲む美しさだった。セラは、くすぐったそうに頬を染めて、笑みを浮かべた。
グスタフとジーナが腕を組んで歩く後ろを、ニースとセラが手を繋いで歩き出す。ニースたちのやり取りを、ニヨニヨと見ていたマルコムが笑った。
「ニースは大物だな。絶対下心なんかないだろうに、天然のタラシみたいじゃないか」
愉快げに笑うマルコムに、メグが冷たい眼差しを向けた。
「純粋なニースをそんな下品な目で見ないでよ」
「そう言われてもな」
にやけた顔を一向にやめないマルコムに、メグは呆れたようにため息を吐いた。
「マルコムとニースは違うのに。……ねぇ、ラチェット。あなたもそう思うでしょ?」
メグがラチェットに振り返ると、ラチェットは、ぽっと頬を赤らめて目線をそらした。
「そ、そうだね。ニースは、純粋でいい子だよ……」
目を合わせずに小さく呟いたラチェットに、メグは首を傾げ、マルコムは噴き出した。
「くくく……」
「もうっ。何を笑ってるのよ」
メグがマルコムを睨むが、マルコムは笑いをやめない。
「いや、別に何でもない。ほら、先に行くぞ、二人とも」
笑いながら歩いていくマルコムに、メグは、ぷぅと頬を膨らませ歩き出す。ラチェットはメグの後ろ姿に見惚れながら、ふらふらと付いていった。
教会の食堂に入ると、ニースたちは男女別れて、司祭や修道士たちとテーブルを囲んだ。テーブルの上には、小さなランプの明かりに照らされて、質素な食事が並んでいた。大きめの深皿にスープがたっぷり入れられ、果物の入った小皿が添えられていた。他にはパンも何も、テーブルの上には見当たらなかった。
「それでは、祈りを」
司祭の言葉に合わせて、グスタフたちが手を合わせる。ニースも真似て、手を合わせた。
「聖カルデナ。我ら地の民に、生きる力を」
両手を擦り合わせて祈りを終えると、食事が始まった。隣に座るラチェットが、微笑んでニースに囁いた。
「ニース、よく出来たね。初めてなのに」
「はい。ラチェットさんが言ってた通り、みなさんの真似をしました」
照れくささを感じて囁き返すと、ニースはスープに手を伸ばした。スプーンですくうと、刻んだ野菜やほぐした鶏肉と共に、中からとろりとした白い粒が出てきた。
――なんだろう、これ。豆にしては小さいし、麦にしては丸い……。
ニースが不思議に思いながら白い粒を見つめていると、ラチェットが囁いた。
「ニース。それは米っていうんだ。美味しいから食べてごらん」
ニースは頷きを返し、そっと口に運んだ。ほんのり鶏肉の風味が広がる出汁をたっぷり吸った米粒は、柔らかくふわりと口の中に溶けた。胃に優しく滲む味わいは、満腹には足りなかったが、充分満足感を得られるものだった。
食事を終え、感謝の祈りを捧げると、グスタフとマルコムは司祭に声をかけられ、話をしに行った。ニースとラチェットは食器を下げるのを手伝い、部屋に戻った。寝支度を整えたニースは、初めて過ごした教会での一日を振り返り、ラチェットに問いかけた。
「そういえば、どうして修道士の人がマッサージをしてくれたんですか? 修道士って、お祈りする人たちだと思ってたんですけど」
ラチェットが、困ったように頬をかいた。
「なんでだろうね。座長かマルコムさんなら知ってるだろうけど、僕は分からないな」
「そうなんですね」
仕方ないと寝ようとしたニースだったが、ふと思い付き、笑みを浮かべた。
「きっと、ジーナさんなら知ってますよね。ぼく、聞いてきます」
「ああ、そうだね。ジーナさんならきっと……」
ラチェットは、ニースを送り出そうとして、はたと気づいた。
――教会って、女性の部屋に男は入っちゃいけないんじゃなかったか? いや、ニースは子どもだし……。でも、そもそも今ってジーナさんとセラちゃんは、部屋にいるのか? メグがもし一人で部屋にいたとしたら……。
ラチェットの脳裏に、風呂上がりのメグの優しい微笑みと、いつもニースに愛おしむような笑みを向け、ニースと同じ馬車に乗ろうとするメグの顔が浮かんだ。胸にモヤっとした物を感じたラチェットは、部屋を出ようとするニースの腕を、慌てて掴んだ。
「いや、ダメだ、ニース。ちょっと座って」
「え? はい……」
ニースはきょとんとした顔をして、ベッドに腰掛けた。ラチェットは、驚いた様子のニースをじっと見つめた。ニースの瞳は澄みきっていたが、すっと通った鼻筋や二重の瞼は絵画や彫刻のようで、年齢以上に大人びて見えた。
――ニースは純粋な子で、まだまだ幼い。でも、男だ。メグだって、あんなに綺麗だったし、間違いが起こらないとは言い切れないんじゃないか? 今は絶対に二人きりにしてはいけない……!
ラチェットは強い使命感を滾らせ、真剣に語りかけた。
「あのね、ニース。教会では、女性の部屋に男が入っちゃいけないんだよ」
「なんでですか?」
ラチェットは、どう答えたらと悩み、頭をかいた。
――なぜ……なぜなのか。何も知らないニースに伝えるのは難しい。でも、ここで納得してもらわないと、何かあってからじゃ遅い……!
ラチェットは決意を固め、メガネをくいと上げた。
「あー。なんて言えばいいのかな……。このカルデナ教の信者の人たちが崇拝してるのが、聖カルデナだって話はしたよね」
「はい。全身真っ黒の、天の導きだったんですよね?」
「うん、そう。聖カルデナって、三千年ぐらい前に実在した女性なんだけど……。そのカルデナには、恋人がいたらしいんだ」
「……恋人ですか?」
首を傾げたニースに、ラチェットは頷いた。
「そう、恋人。でもね、カルデナは生涯独身だったらしい。なんでも、恋人と死に別れたとか何とかで」
ニースは目をぱちりと瞬き、しゅんと眉根を寄せた。
「えっと……なんていうか、悲しい話ですね」
「うん、まあ……。それでね、修道士とか教会に属する人たちは、生涯独身を貫こうとするみたいなんだよ。聖カルデナが、恋人と死に別れた悲しみの中でも人々を助けて回ったことを、尊んでいるらしくてね」
ニースは頷きつつも、やはり首を傾げた。
「それはなんとなく分かりましたけど……それと、教会の女性の部屋に入っちゃいけないのと、何の関係があるんですか?」
ラチェットは困りきり、苦笑いを浮かべた。
「うーん。これで伝わらないか……。ええとね。男の人と女の人が一緒の部屋にいると、その……間違いが起こったら、困るだろう?」
ニースは、ぽかんと口を開けた。
「間違い……?」
ラチェットは、なかなか伝わらない事に思い悩み、両手で頭をくしゃくしゃとかきむしった。
「ああ! 僕がここでそれを詳しく説明しなくちゃいけないのか……!」
ラチェットの様子を見て、ニースが申し訳なさそうに肩を落とした。
「あの……ラチェットさん。ぼく、よく分からないですけど、とにかく教会で女の人の部屋に入っちゃいけないっていうのは、わかりましたから。大丈夫です」
ラチェットは驚き、顔を上げた。
「え……。本当に、いいの? 説明しなくて、大丈夫?」
ニースはゆっくり頷いた。
「はい、いいですよ。無理に説明しなくても。教会じゃないところでだったら、女の人の部屋に入ってもいいんですよね? 例えば、宿屋とか」
ラチェットは、ずり落ちたメガネを直しながら答えた。
「い、いや。宿屋も女性と二人きりになりそうな時は、やめた方がいい。とにかく、狭い部屋で異性と二人きりというのが良くないんだ。当たり前だけど、風呂やトイレもダメだよ?」
ラチェットの言葉に、ニースは苦笑いを浮かべた。
「さすがに、それはぼくも分かります。裸を見られたら、恥ずかしいですから。服を着てるのに部屋に入っちゃいけないっていう理由が、よくわからないだけです。……でも、わかりました。女の人と二人きりで、狭い部屋には入らないようにします」
ラチェットは、はぁとため息混じりに小さく呟いた。
「服を脱ぐことになったら困るから、入っちゃいけないんだけどな……」
「え? なんですか?」
「い、いや、何でもないよ! 僕は疲れたから寝るね!」
ラチェットは慌ててメガネを外すと、ベッドの中に飛び込んだ。ニースは不思議そうにしながらも、ランプの明かりを消し、もぞりとベッドに潜り込む。程なくしてニースは、スヤスヤと寝息を立て始めた。ラチェットは、穏やかに眠るニースに背を向けて縮まり、頭に毛布を被って、目をぎゅっと瞑った。
――ニースがこんなに純粋なのに、僕は……。でも、あんなに綺麗になった女性と一緒の部屋なんかに行かせたら、心配せずにいられないじゃないか……!
ラチェットは、脳裏に浮かぶメグの微笑みと、ニースの純粋な瞳から逃げるように、必死に頭を抱えこんだ。
ラチェットが未だ眠れずじっとしていると、静かに扉を開く音がした。ラチェットは、そっと毛布から顔を出し、メガネをかけた。グスタフと共に、足音を忍ばせて部屋に入ってきたマルコムが、ニースを起こさないように声をかけた。
「ラチェット。まだ起きてたのか」
「マルコムさん……大変だったんですよ!」
ラチェットが泣きそうに顔を歪めたので、マルコムはグスタフと顔を見合わせ、ラチェットを部屋から連れ出した。
三人は上着を羽織り、教会の庭にあるベンチに腰を下ろした。涼やかな風が吹き、大きな二つの月が輝く中で、ラチェットが二人にニースとの問答について話した。二人は必死に笑いを堪えた。
「ふはは……それは災難だったな。ラチェット、お疲れ様」
「笑い事じゃないですよ、座長! 僕は本当にどうしたらいいのか、わからなかったんですから!」
グスタフに食ってかかるラチェットを、マルコムが止めた。
「くくく……ラチェット、お前も充分、純粋で真面目だよ。ニースはまだまだ子どもだ。いちいち大人の話なんかしなくたって、適当に話をでっち上げて説明しておけば充分だろう」
「そんな……」
ラチェットは、ぽかんと口を開けた。マルコムは、さらに畳み掛けた。
「それに、それは単にお前がニースにヤキモチを妬いてただけだろう? 確かにニースは美少年だが、お嬢とそんなことになりはしないさ。考えすぎなんだよ」
「僕がニースにヤキモチ? ただの、考えすぎ……」
ラチェットは、どっと疲れが出たように、がっくりと肩を落とした。グスタフがラチェットを慰めるように、肩をぽんと叩いた。
「まあ、仕方ないさ。メグのことで頭がいっぱいだったから、余計なことまで考えが浮かんだんだろう。あの子は我が子ながら美人だからな。気持ちはわかるよ」
「座長……」
グスタフを見上げて涙目になるラチェットに、グスタフは真剣な目を向けた。
「だがな、ラチェット。私は応援はしているが、あまり邪な目でメグを見るなよ」
ラチェットが顔をぴしりと凍らせると、マルコムが笑った。
「ぶはは。グスタフ、お前は酷なことを言うなぁ。見るぐらい、いいじゃないか。まあ、ラチェットの両親のこともあるし、結婚が決まるまでは手を出すのはやめた方がいいとは、俺も思うけどな」
グスタフはマルコムを無視して、がっしりとラチェットの肩を掴み、にっこり微笑んだ。
「ラチェットくん。私は君のことを信頼しているんだ。分かるね?」
「は、はい……」
震える声で答えたラチェットに、グスタフは安心したように笑みを浮かべた。
「それで、ラチェット。さっきの話だが、そもそもニースは、何をジーナに聞きに行こうとしてたんだ?」
ラチェットは、気まずそうにメガネを外して、上着の裾で拭きながら答えた。
「ニースは、風呂で修道士がマッサージをする理由を知りたがったんです。最初は僕に聞いてきたんですけど、答えられなくて。座長かマルコムさんならわかるかもって言ったら、ジーナさんに聞きに行くってニースが……」
マルコムは、はははと笑った。
「なんだ、そんなことか。前に、聖皇国の風呂は医療の一環だって話をしただろ?」
「ええ。アウクリシウムで聞きました」
「マッサージも同じだよ。血行を良くしたり、筋肉の緊張をほぐしたりとか、色々あるんだ。カルデナ教の教会には、治療院があるのは知ってるだろう?」
「ええ。知っています。市井の医者とはまた違った方法で、祈手や治癒士が治療を行っていますよね」
「ああ、そうだ。教会にいる修道士や修道女たちは、ほとんどが治癒士なんだよ。中には祈手もいるがな」
ラチェットは、合点がいったと頷いた。
「そうか。だから修道士がマッサージをしたんですね。僕たちは、治療行為を受けていたのか」
「そういうことさ。教会ではそれを浄化と言うんだ。体内の異物を取り除いたり、病を祓ったりっていう考えなんだろうな。教会に寝泊まりする人間は、必ず最初に浄化を受けないといけない。伝染病の感染予防でもあるんだろう」
「奇跡の印象が強いですけど、衛生観念も昔からずっとあったってことなんですね」
興味深く聞くラチェットに、グスタフが話を継いだ。
「むしろ、いまの治療技術や衛生観念の元は、カルデナ教なんだよ」
「そうなんですか?」
「聖カルデナって女性は、かなり凄かったようだ。世界中に信徒を作ったわけだからな」
「信仰と共に、世界に広がっていったということですか……」
いつまでも続きそうな話に、マルコムが立ち上がり、ぱんと手を叩いた。
「さあ、お喋りはこの辺で終わりにしよう。慰問演奏会を開いてほしいと、司祭様から頼まれたんだ。ラチェットも、あとはゆっくり寝とけよ。明日はオルガンを弾いてもらうからな」
「え? あ、はい。わかりました」
三人は冷え始めた体をさすりながら、部屋へと戻った。夜のしじまが、優しく村を包んでいた。




