10 装蹄師
場面が急に変わったと思ったら、厩舎の中だった。
さほど大きくもなく立派でもない、にわかごしらえと言った様子の建物。建物の両端が開け放たれていて、外に同じような建物が連なっているのが見える。
建物の上には爽やかに晴れた空が広がっていたが、遠くの方でうっすらと黒い煙が上がり、馬房の中を通り抜けて行く風はかすかに火薬のにおいをはらんでいた。
何頭もの馬が、馬房で草を食んだり兵士に手綱を引かれて出入りしたりしているが、どれも身体つきのがっちりした軍用馬らしかった。壁に吊るされた馬用の鎧も、それを物語る。
――ここは、戦地なのかもしれない。
一番端の馬房の柵の中にさっきの男性がいて、自分はそこから少し離れた壁にもたれて、彼を見ている。
男性は馬の後ろに、馬に背を向けて立ち、後脚の片方を曲げさせて自分の股で挟むようにして、槌を振るっていた。蹄鉄を打っているのだ。
その作業はしばらく続き、やすりもかけ終わると、彼は腰のベルトに挟んだ布で汗を拭きながら、顔を上げた。
急に彼がこちらを向いて、笑顔になった。その少し驚いたような笑顔を見た瞬間、胸の中に温かいものが広がって、セシータは気づいた。
この『私』は、彼に好意を持っているんだ。
さっきの場面も、今の場面もそう……『私』は彼の姿を見ていたくて、彼の仕事を見に来るのだろう。
「見てたんですか、全然気づかなかった。気配を消すのが上手いですね、リンカさんは」
リンカ、と呼ばれ、はっとした。
「邪魔にならないようにと思って」
『リンカ』の声が答えた。
それは確かに自分が発しているのだが、もう忘れてしまったはずの自分の声とは「違う」とセシータには感じられた。たぶん、セシータの声より少し低い、落ち着いた柔らかな声。
「きっとこいつも、気づいてなかったと思いますよ」
彼は馬の首筋を叩いてそう言い、ハミの横の輪を持ってこちらに向きを変えさせた。鼻をブルルと鳴らした馬は、セシータが見たことのある鹿毛よりも、黒に近い毛色をしている。
リンカは苦笑して、
「自分の相棒に気づかないわけないわ。ねぇ、“ムウ”。ライナさんが鈍いだけよ」
言いながら、もたれていた壁から身を起こした。さらりと胸に垂れた髪は、深い緑。
「ひどいな」
ライナと呼ばれたその男性は、そういいつつも明るい笑顔を見せた。
「装蹄に興味があるんですか?」
聞かれて、それを見ているセシータは
(違うのに)
ともどかしくなる。リンカが興味があるのは、彼に、のはず。
すると、リンカは答えた。
「見ていて飽きないわ。でも……今日は、あなたを見てた」
「俺を?」
想いを打ち明けるのかと少し緊張していると、リンカは続けた。
「あなたは、とても腕のいい軍お抱えの装蹄師で、私は女ながら若くして部隊を任せられた騎士。どちらも成功した人生のように人の目には映るだろうけど、根元の所は違うんだと思って……」
ライナは柔らかな表情のままで軽く眉を上げると、馬房の入口に渡された棒の間を抜けてこちらに出てきた。
「根元の所とは?」
彼はリンカからこぶし三個分ほどの距離を取ったあたりの壁にもたれ、汚れた手袋を外した。その、皮膚の硬くなった大きな手を、リンカの視線は追っている。
「ライナさんは軍人の家に生まれたけど、装蹄師になりたくて夢を叶えたって聞いたわ」
「まあ、俺は四男なので、両親の反対もそれほどではなくて。この間たまたま牛の削蹄をやってるところを父に目撃されて、呆れた顔をされましたけど」
彼の笑顔はすっきりとしていて、自嘲の色はない。
リンカも笑顔を返してから、話を続けた。
「私の両親はどちらも優秀な騎士の家系に生まれて、自分たち自身もやっぱり優秀な騎士。だから結婚したの。子どもが立派な騎士になって、国に貢献することを期待して」
こちらの笑みには、少し苦いものが混じっているようだ。
「つまり私は優秀になるのが当たり前、騎士になるのが当たり前っていう風に育って今がある。もちろん努力もしたし、私だからこその仕事をしていると思うけど」
リンカはいったん言葉を切り、
「でも、この仕事を愛してるかって言ったら、愛してないの」
ライナは腕を組み、しばらく沈黙してから言った。
「周囲から思われてることと違うから、罪悪感を感じている?」
「そうね……だって、お国のため、なんて思ってないから」
つぶやくリンカに、ライナははっきりとこう言った。
「そういう周囲の人たちにとっては、あなたがどう思っているかは関係ないんですよね」
セシータはどきりとした。リンカも顔を上げる。
「周囲の人があなたの表面と結果しか見ないなら、そう思わせておいたらいい。逆よりはずっといいじゃないですか。お国のためにと思って働いているのに、義務感でやってるんだろうなんて思われるよりは」
「それは、そう、だけど」
少しあっけにとられている風のリンカに、ライナは笑う。
「俺だって、外面と中身は違うかもしれない。天職を得て成功しているように見えるけれど、実は兄たちのように立派な軍人になれそうもなくて逃げただけかもしれない」
「……そうなの?」
「どうでしょう」
ライナは軽く手を広げた。
その手は、毎日の仕事で黒ずみ、皮膚も厚くなって、見た目にもごつごつしている。馬の歯型までついていた。
「表面からわかることなんて、ほんの少しです。そして国のためだったとしても他のことのためだったとしても、リンカさんの心がこの戦争を終わらせたいと願っていることを、俺は知っています」
二人の視線が出会う。
「目指す場所が一つなのに、迷うことなんてありませんよ」
(もしかしたら、私はこの言葉をずっと昔から知っていたのかもしれない)
セシータは腑に落ちた思いだった。
どんな場所にいても、そこにいるのが自分の意志でなくても、目指す場所は――願うことはただ一つ。
故郷の大事な人たちを守ること。
(だから迷わずに、こうして生き続けていられるのかしら……)
リンカが、柔らかな吐息をこぼして微笑む。
「私、ライナさんのこと大好きだわ」
ほとんど飛び上がりそうな勢いで、ライナが身体を伸ばした。
「え……あ、ありがとう?」
その反応に笑いながら、リンカが壁から身を起こす。身動きして初めて、セシータはリンカが腰に剣を佩いていることに気づいた。
「その、目指す場所にたどり着いたら、その後はどうしようかしら。そもそも、私の仕事なんてない方がいいわけでしょう? それがつまり平和ってことだもの。平和になって、もし装蹄の仕事を教えてほしいって言ったら、ライナさん教えてくれる?」
ライナがなにか答えようとした時、厩舎の外から声がかかった。
「隊長殿。向こうに動きがあったそうです」
「今、行く」
リンカが外に目を向けた。
厩舎のすぐ外に立っていたのは、宝珠を編み込んだ組みひもを首に下げた、黒いマントの男。魔導師――その能力者にセシータは会ったことがなかったが、読んだことのある文献に出てくるのと同じ格好をした男だった。
彼はあの宰相と、同じ顔をしていた。
次話からまた、セシータとクラトーの話に戻ります。