20. 目を開けたら負け
「能登さんは、無事に目を覚ましました。今は深山さんと二人で話しています」
能登さんと深山さんをあの場に残して、僕と白雪さん、それから朱音ちゃんの三人は、旧図書館に戻ってきた。
植え込みの陰を離れる間際に聞こえた、能登さんの嗚咽を思い出す。あれはもう、大丈夫な涙だと思う。
「そうか。なら、こちらの仕事もあらかた終わりだな」
話を聞いた柘榴さんは、そう言って立ち上がると、じっと僕の顔を見つめている。
あらかた、って、もしかして?
「千歳君、最後は君のお祓いだ。その目を清めておく必要がある」
「え、僕の目、ですか」
「君は面を被って、穢れを直接見ただろう?」
この流れ、知ってるぞ。お札の騒動のときも、一件落着したと思ったところで、まさかの続きがあったんだ。
あのときは手だったけど、今度は目!?
「あ、あの、柘榴さん!」
隣で声を上げたのは白雪さんで、勢いよく手を上げたかと思いきや、その姿勢のまま固まった。
「白雪さん、どうかした?」
その目が、ほんの一瞬、こちらを向く。口をもごもご動かしてるけど、何を言っているか聞き取れない。
な、なんだろう。
けれど僕が聞き返すより先に、ぱっと柘榴さんへと向き直って言葉を続けた。
「千歳君へのお祓いは、その、どうしてもしないといけないことですか」
「もちろんだ。あの面は、人の穢れを直接見る道具だからな。使った者の目には、穢れの澱が残る。そのままにしておけば――遠からず、光を失うぞ」
「し、失明!? 聞いてないですよ、そんな話!」
「でも、私も鏡の前で穢れを見ましたよ」
そうだ、確かに。あの大きな鏡に映った能登さんの姿から、黒いモヤが広がっていき、それは鏡の中だけじゃなくて、本体のほうにも現れていた。
そのモヤは面を通してなくても見えていた。
「あれは鏡が映し出した写し身だ。直接ではないから問題ない」
そんな、それはズルい!
……でも、最初から危険性を聞かされてたとしても、困っている白雪さんを放っておくなんてできなかったけど。
それにしてもだよ。視力とか命とか、大事なことは先に言ってほしい。この人の説明不足は今に始まったことじゃないけどさ!
「心配するな、今なら祓える。――ほら、じっとしていろ」
言うが早いか、柘榴さんの両手が伸びてきて、僕の顔をがしっと挟み込んだ。
既視感がすごい。初めて会った日も、この人はこうやって僕の頭を固定して、目を覗き込んできたんだった。
あのときと違うのは、距離がそこで止まらないことで――柘榴さんの整いすぎた顔が、ゆっくりと近づいてくる。
「目を開けたままではできないぞ、大人しく目をつぶれ」
できないって何を!
ちょ、ちょっと待って。この距離は、その、あれでは。キ、キ――。
「そのままじっとしていろ」
視界が閉じると、残った感覚が急に鋭くなる。古い紙と埃の匂いの奥に、柘榴さんの気配がある。頬を挟む手のひらの熱と、かかる吐息。
僕の右の瞼に、何か柔らかいものが、そっと押し当てられた。
一秒ほどして離れると、次は左に同じ感触。
また一秒経ってその感触が離れていっても、声も出せずにいる僕の耳のすぐそばに、低い声が落ちてくる。
「目を開けるなよ……」
終わりかと思ったら、柔らかくて、少し湿ったものが、今度は右の瞼の上を、ゆっくりと撫でていく。
さっきとは少し違う感触。
睫毛の際まで丁寧に、何かを拭い取るように。それが済むと、左も同じように清められていった。
暗闇の中では、時間の感覚まで溶けていく。聞こえるのは自分の心臓の音ばかりで、それがうるさいくらいに速い。
「よし、終わったぞ。もう目を開けていい」
恐る恐る目を開けると、柘榴さんはすでに一歩離れたところに立っていた。何事もなかったような、いつもの澄ました顔で。
自分の顔が火照っているのがわかる。たぶん耳まで赤い。
助けを求めるように白雪さんのほうを見ると、白雪さんは――両手で顔を覆っていた。指の隙間から、こっちを見ているような、見ていないような。
え?
もしかして、直視できないような酷いことをされた?
* * *
柘榴さんたちと別れて、旧図書館を出てからも、隣を歩く白雪さんは、ずっと静かなままだ。
怒っているのか、疲れているのか、その横顔からは読み取れない。
……うう、気まずい。
言っておくけど、僕は何もしていないからね?
「あの、あれだね。深山さんたちの舞台、観にいきたいね。その……一緒に」
沈黙に耐えかねた僕の口から、そんな言葉が漏れてしまい、猛烈に後悔が押し寄せてくる。
突然何を言っているんだ、僕は!
いや、実際のところ、深山さんが無事に舞台に立てるのか、それは気になる。
でも、白雪さんは元々深山さんと知り合いなんだし、僕に誘われなくても、とっくに観に行く予定だったに違いない。
僕じゃなくて、もっと仲のいい友達とさ。
「千歳君、私を誘ってくれてるの?」
ごめんなさい!完全に調子に乗りました!
「い、いえ、すみません。差し出がましいことを、そうじゃなくて……」
足を止めた白雪さんが、じっと僕の顔を見ているのは感じてるけど、まともにその顔を見れない。
もうこの際、朱音ちゃんでもいいから、誰かこの場を誤魔化して!
「えっと、白雪さんはお友達と行く予定だったよね? 変なこと言ってごめん」
「ううん、誘ってくれて嬉しい。私も千歳君と行きたい」
「え?」
「私は千歳君と行きたいって言ったの。約束だよ?」
無意識に目を逸らそうとする僕の視線に割り込むように、白雪さんは顔を覗き込んでくる。
笑った白雪さんの口元で、八重歯がきらりと光る。
色々あって、白雪さんの隣に立って、こうして親しげに話してるけど、本当は僕なんかがここにいちゃいけない気がしてきたよ。
「うん、約束……します」
それでも、この笑顔を前にして、断るなんてできないでしょ!
「……千歳君」
「どうしたの、白雪さん?」
「目を瞑って」
え? また?
「い、いいから。目を瞑って!」
「はい!」
……何も起きない。いや、気配はある。何かが、ゆっくりと近づいてくる。
ふわりと、甘い匂いが鼻先をかすめたかと思うと、右の瞼に、柔らかいものが、そっと触れた。
それは、柘榴さんの時よりも長く、少しだけ強く。
そのまま、しんとした沈黙が続く。
「……あの、白雪さん。もう、目を開けていい……?」
返事がないので、そっと目を開けると、目の前には、誰もいなかった。
「あれ!?」
慌てて辺りを見回すと、少し先の明かりの下に、白雪さんの後ろ姿があった。
「し、白雪さん!」
僕の声に振り返った白雪さんの顔は、薄闇に紛れてよく見えない。ただ、その声だけが、夜道にはっきりと届いた。
「千歳君、また明日ね」
……今のは、何?
右の瞼が、まだ熱を持っている気がして、思わず指先で触れる。
白雪さんの役に立てたことは嬉しい。
そして、彼女の優しさに触れることも。
でも、その優しさに慣れてはいけない。受け取ることが当たり前になるほど、近づきすぎては、いけない。
あの時の過ちを繰り返さないように。
* * *
長い眠りの底で、《《それ》》は身じろぎをした。
外へ伸ばしたひとすじの糸は、灯りのともる場所で餌にありついた。憎しみ、嫉妬、そして――。
澱の底に崩れていたものが、わずかに輪郭を取り戻していく。
幾重にも巻かれた戒めは、まだ解けないが、ほつれた隙間は、確かに広がっていた。ひとすじだった糸は、いまや幾筋にもなって、土を伝い、水脈に紛れ、灯りのともる場所へと伸びている。
忌々しい、あの顔。その面影を澱の底に透かし見ながら、《《それ》》は、緩んだ縛めの中で、久方ぶりに指先を動かした。




