01. 転校生に期待は禁物
どれほどの時が経ったのか、それ自身にも分からなかった。
憎悪も、渇望も、かつて名で呼ばれていたことも、長い眠りの底で崩れて、混ざり合い、ただ昏い澱のようなものになって沈んでいた。
その澱の底に、ひとつだけ形を残しているものがある。
忌々しい、あの顔。
その人間の力は強大で、身を縛られ、力を封じられた。
――だが、遠くで何者かが呼んでいる。
幾重にも巻かれた戒めは、まだ解けない。それでも、長い年月は縛めの端を確かに緩ませていた。
ほつれた隙間から、それは糸のように細いひとすじを外へ伸ばす。
滲み出したものは、土を伝い、水脈に紛れ、やがて灯りのともる場所へ、ゆっくりと流れ込んでいった。
* * *
「祀乃目 千歳です。みなさんよろしくお願いします」
精一杯の笑顔、できる限り明るい声での挨拶は、確かに手応えを感じた。
昨夜、自分の部屋でちょっぴり、たった三時間ほど練習した甲斐があったというもの。練習しすぎて声を枯らしそうになってしまったのも、この成功の前では笑い話だ。
どこから来たの? 家はどの辺? もう部活は決めた?――転校生に対するありふれた、でも、優しさの込められた質問にも、差し障りなく答えていく。
さらには「きのことたけのこ、どっちが好きか?」という危うい質問にさえ「チョコレートはあまり好きじゃなくて」という、すべての問題を回避する答えをしてみせた。
しかし、本当の試練はここからだった。
ジャブに続いて出されたコンビネーションパンチに、僕はただひたすら顔面を殴られるだけで、つまり、「あ、はい」と「えっと、そうかも」の二種類をひたすら繰り返すしかできなかった。
新年度始まって早々、五月という時期に突然現れた転校生。
クラスメイトたちの上がりに上がった期待値に、僕はまったく応えられず、無難な笑顔だけを残して、僕の周りから人の輪は消えていった。
この時期、クラスの中には、すでに仲良しグループというものが完成している。誰と組むのか、どこにいれば浮かないか、この一ヶ月築き上げたそれぞれの地図に、期待外れの転校生を入れる余地はないようだ。
この先ボッチにならないよう、みんなが必死なのは当然のことだ。
「…………」
かくして僕は、今日もひとりで本を読んで休み時間をやり過ごしている。
しかし、断っておくが、除け者にされているわけではない。朝の挨拶を交わし、軽口を叩き合ったりする相手はできた。
ただ、はっきりと「友達」ができたかと問われると、僕の胸はギュッと苦しくなる。
まあ、人と距離があるのは、僕にとっては慣れたことだけど。
「祀乃目君」
目の前の本を読んでるようで、周囲の気配を探ることに神経を張り巡らせていた僕は、自分の名前が呼ばれたことに一瞬気づかなかった。
「あの、祀乃目君? 今、大丈夫かな?」
「へ? あ、ごめん!」
パッと顔を上げた僕の目の前にいたのは、クラス委員の日々瀬 白雪さんだった。
その大きな目がこちらを覗き込むように見下ろしている。
ゆったりとひとつに結ばれた薄茶色の長い髪が、彼女が動くたび、肩越しに揺れる。
「もしかして、忙しかった?」
僕が戸惑っていると、日々瀬さんはさらに顔を近づけてきた。
ふわりと甘い匂いが、鼻腔をくすぐり、僕は思わず視線を逸らそうとしてしまう。
でも、その愛嬌のある大きな瞳からは目が離せない。
パチリと瞬きをするたびに長いまつ毛が揺れ、笑顔を浮かべている口元から真っ白い歯が覗く。
浮かれた様子を見せるのはまずい。
そんなところをクラスメイトに見られたら、確実に僕のボッチ生活が確定してしまう。
誰にでも優しく声をかけ、いつも明るい笑顔を振りまく日々瀬さんは、クラス中の男子はおろか、女子からも人気がある。
みんながひっそりと日々瀬さんを「白雪姫」と呼んでいることも知っている。
そんなみんなの白雪姫に対して、デレデレしているところを見られようものなら「新入りが何調子に乗ってんだ!」と、すぐに校舎裏に呼び出されるに違いない。
「あ、その、大丈夫、うん、全然暇です!」
僕は開いていた小説を閉じると、勢いよく立ち上がった。
そんな僕の挙動不審な動きを見て、日々瀬さんは目を丸くして口に手を当てていたが、すぐにくすりと笑う。
その拍子にチラリと八重歯が覗き、僕の視線は再び日々瀬さんに惹きつけられる。
可愛さが渋滞していて、もうズルすぎる!
「少し日が経っちゃってごめんなさい。まだ校舎内を案内してなかったから、今日の放課後、案内させてもらえないかなって思ったの」
こ、これは、転校生あるあるのイベント。
日々瀬さんと二人きりで校内を散策できるなんて、滅多に訪れないラッキーイベントだ。
この自然な流れには、クラスの男子たちもケチをつけられまい。
「チッ!!」
まさか、ケチをつける奴がいるなんて!
いや、今のは舌打ちじゃなくて、投げキッスかもしれない。怖くて音のしたほうを向けないが、そこでは甘々な二人が、お互いに投げキッスしあっているに違いない。
「祀乃目君? もし都合悪ければ、また別の日にしても大丈夫よ?」
「いえ、大丈夫です! お願いします!」
「良かった。じゃあ、放課後にまた声をかけるね」
こんなイベントが発生するなんて、僕にもツキが回ってきたのだろうか。




