第6章 第7話:二人で決める
選ぶという行為は、一人でやる時より二人でやる時のほうが怖い。
自分だけの失敗なら、まだ抱え込める。
自分だけの傷なら、まだ耐えられる。
でも、隣にいる相手の未来まで一緒に賭けるとなると、
人は初めて本当の意味で責任の重さを知る。
だからこそ、それでも一人で決めないと選ぶことには意味がある。
相模第七防衛区画の夜は、やけに白かった。
整備区画の補助灯がまだ落ちきらず、観測通路の裏へ回る細い通路にも、遠くの明かりが薄く滲んでいる。人の気配は少ない。けれど完全な無人ではない。誰かの足音が遠くを通り、配線の低い駆動音が壁の向こうで鳴り続けている。
静かだ。
でも、安全ではない。
榊冬真は、その薄明るい通路の端で壁にもたれていた。
監視下運用。
主支援系統からの切り離し。
個人動線への照会。
敵側の接触試験。
全部が同時に近づいている。
だから今夜は、ただ会うためじゃない。
本当に決めるために来ている。
足音がして、冬真は顔を上げた。
澪だった。
ジャケットを羽織ったまま、周囲を一度だけ確認してから近づいてくる。最近の澪は、こういう時の動きが少し変わった。前はただ会いに来ていた。今は、見られること、読まれること、近づく手の意味まで意識している。
「来た」
澪が言う。
「ああ」
「待った?」
「少し」
「ごめん」
「別にいい」
短いやり取りのあと、二人ともすぐには続けなかった。
今夜ここに来た理由は、どちらも分かっている。
だからこそ、軽い入り方では踏み込めない。
「瀬名さんとは?」
澪が先に訊く。
「話した」
「……どうだった?」
「乗った」
冬真が言う。
「ただし、嫌そうだった」
澪が少しだけ笑う。
「想像つく」
「ああ。でも、やる」
「うん」
それだけで、少しだけ空気が定まる。
三人目の共犯。
その言葉を思い出す。
軽くはない。
でも今の二人にとっては、必要な現実だった。
「冬真」
澪が声を落とす。
「うん」
「もう待てない」
「……ああ」
「見つけられる前に、こっちで決めたい」
「分かってる」
「今度は」
澪が一歩だけ近づく。
「本当に、二人で決めよう」
その言葉に、冬真は小さく息を吐く。
一人で決めない。
一人で背負わない。
何度も言われてきた。
何度も分かっているつもりだった。
でも今夜は、その言葉がこれまでよりずっと重い。
作戦を変える。
命令を半歩だけ裏切る。
失敗すれば終わる。
その全部を、今から二人で引き受けるのだ。
「資料ある」
冬真が言う。
「うん」
澪が端末を差し出す。
「正式案と、今日の修正版」
「見せろ」
二人は通路脇の細い補助台へ端末を置き、同じ画面を覗き込んだ。
南中層の崩落帯。
半地下搬送路。
中継の細い谷。
先鋒誘導ライン。
そして、そこへ重ねるように冬真が非公式で引いた修正線。
「正式案だと」
冬真が言う。
「ここで一回、正面に行かされる」
「うん」
「そのあと半地下へ落とされる」
「うん」
「そこで戻れそうに見える右上が、一番危ない」
「……」
「だから行かない」
澪が言った。
「ああ」
「左奥」
「そう」
冬真は頷く。
「正面へ抜けるふりを一回だけ見せる」
「敵に“上へ逃げる”って読ませる」
「その半拍前に切る」
「左斜めへ」
「そうだ」
言葉がよく噛み合う。
前よりずっと自然に。
それが少し怖くて、少し嬉しい。
「冬真」
澪が画面から目を離さず言う。
「これ、私が遅れたら終わるよね」
「ああ」
「逆に、私が早すぎてもだめ」
「ああ」
「ちゃんと合わせられると思う?」
冬真はその問いに、すぐには答えなかった。
思う、では足りない。
大丈夫、でも弱い。
必要なのはもっと正確な言葉だった。
「合わせる」
冬真が言う。
「……」
「お前が合わせるんじゃない」
「え」
「二人で合わせる」
そこまで言って、自分でも少し驚く。
でも、引っ込めたいとは思わなかった。
「それが今夜の話だろ」
澪の目が少しだけ揺れる。
それから、静かに頷いた。
「うん」
小さく言う。
「そう」
「だから」
冬真が画面の一点を指す。
「ここで迷うな」
「うん」
「俺が直接触れられる時間は短い」
「うん」
「でも入れたら、そこだけは通す」
「……分かった」
通す。
今までなら冬真が一人で決めていた言葉だ。
でも今は、その先を澪が知ったうえで頷いている。
その違いが、決定的に大きい。
「私も言う」
澪が言った。
「何を」
「ここで、無茶しない」
「……」
「突っ込みたくなっても、勝手に前へ行かない」
「できるか」
「できる」
澪は迷わず答えた。
「だって今は、一人で戦ってるわけじゃないから」
その一言が、冬真の胸へ静かに入る。
一人で戦っているわけじゃない。
それは多分、冬真がずっと欲しかった言葉だった。
でも、それを望んではいけないとどこかで思っていた。
守る側がそう思うのは、弱いことだと。
今はもう、そう言っていられない。
「失敗したら終わる」
冬真が改めて言う。
「うん」
「監視も処分も、全部一段深くなる」
「うん」
「お前の立場も」
「分かってる」
「それでも?」
澪は冬真を見た。
視線を逸らさず、静かに言う。
「それでも、二人で選びたい」
その答えに、冬真は少しだけ喉が詰まる。
答えとしては十分すぎた。
もう、これ以上の確認はいらない。
「……ああ」
冬真も低く返す。
「俺もだ」
「うん」
「もう一人で決めない」
その言葉は、自分自身へ向けた宣言でもあった。
澪はほんの少しだけ笑う。
安心したみたいな、でも泣きそうにも見える笑い方だった。
「今の」
澪が小さく言う。
「かなり嬉しい」
「知らない」
「知って」
「面倒だな」
「今さら」
それだけで、少しだけ空気がやわらぐ。
だが、次の瞬間にはまた現実が戻る。
「作戦投入が早まるかもしれない」
冬真が言う。
「瀬名がそう言ってた」
「うん」
「上は多分、お前に時間を与えたくない」
「分かる」
「逸脱傾向、見られてるからな」
「……うん」
「だから次、急に来る」
「その時は」
澪が端末を閉じる。
「今日決めた通りに動く」
「ああ」
「冬真も」
「入る」
短く言う。
「監視破ってでも?」
「必要なら」
「……」
「今は、それを躊躇してる場合じゃない」
それを口にした瞬間、自分の中で最後の線が一本切れた気がした。
監視を破る。
制度に従わない。
昔の自分なら、そこまで明確には言わなかった。
でも今はもう、それが裏切りではなく必要に見える。
「冬真」
「なんだ」
「今の、すごく危ない」
「知ってる」
「でも」
澪が少しだけ笑う。
「ちょっと安心した」
「何で」
「やっと同じ場所に来た感じするから」
その言葉に、冬真は返せなかった。
同じ場所。
守る側と守られる側じゃなく、
前に立つ側と後ろにいる側でもなく、
同じ危険を選ぶ場所。
たしかに今、二人はそこに立っている。
「ねえ」
澪が声を落とす。
「私たち、今かなり危ないことしてる」
「ああ」
「でも、間違ってる感じはしない」
「……」
「そういうの、初めてかも」
冬真は少しだけ視線を落とした。
分かる。
危険だ。
でも、ただ破滅に向かっている感覚ではない。
むしろ今までより少しだけ、呼吸が合っている。
「……俺も」
小さく言う。
「何?」
「今のほうが、前よりましだ」
「前より?」
「一人で決めてた時より」
澪の目がまた揺れる。
今度は、嬉しさを隠しきれなかった顔だった。
「それ」
小さく笑う。
「ちゃんと覚えとく」
「やめろ」
「無理」
「面倒だな」
「知ってる」
遠くでアラートの短い試験音が鳴る。
実戦ではない。
でも、長くはここにいられない合図には十分だった。
「戻る」
澪が言う。
「ああ」
「次は、もう本番だと思う」
「多分な」
「怖い?」
「怖い」
冬真が正直に言う。
「私も」
澪も頷く。
「じゃあ、ちょうどいいね」
「何が」
「二人とも怖いなら、ちゃんと慎重になれる」
その理屈は妙に澪らしくて、冬真は少しだけ息を抜いた。
「澪」
「ん」
「失敗したら」
「うん」
「終わる」
「うん」
「でも、二人で選んだなら、それでいい」
言ってから、自分で少し驚く。
それでも、嘘ではなかった。
澪はしばらく黙って、それから静かに頷く。
「うん」
小さく言う。
「私も、それがいい」
その言葉で、今夜の決断はようやく形になった気がした。
澪は一歩だけ近づく。
今までで一番、自然に近い距離。
でもまだ触れない。
触れないままのほうが、今は逆に強い気がした。
「次」
澪が言う。
「強制で来ても、私はそのままじゃ行かない」
「ああ」
「冬真も」
「分かってる」
「じゃあ」
澪は少しだけ笑う。
「今度は、ちゃんと一緒に違反しよう」
「ひどい言い方だな」
「でも本当でしょ」
「……ああ」
冬真も認める。
「本当だ」
そのまま澪は通路の向こうへ歩いていく。
冬真はしばらくその背中を見送った。
二人で決める。
それは甘い約束じゃない。
言葉一つで救われるようなものでもない。
失敗すれば終わる現実ごと、二人で引き受けるということだ。
それでも今、
冬真は一人だった時より、少しだけましに呼吸ができていた。




