第3章 第1話:遠くなる名前
名前は、ときどき人間より先に歩いていく。
誰かが呼ぶ。
別の誰かがそれを繰り返す。
やがて、その名前は本人の手を離れ、希望とか象徴とか、そういう便利な意味だけを纏って前へ出ていく。
天城澪、という名前も、もうそうなり始めていた。
相模第七防衛区画の朝は、薄いざわめきから始まる。
出撃前の緊張とは違う。戦後の疲労とも少し違う。今日は空気のどこかに、妙な高揚が混じっていた。大型スクリーンが点いているせいだ。中央区画の共有通路に設置されたそれには、昨夜の危険任務の速報映像が繰り返し流されている。
北西残骸区画での前進観測成功。
敵指揮ノード活動域の絞り込み。
先鋒機の生還。
そして、白い暁式参号の機影。
榊冬真は、通路の端を歩きながらその映像を見上げなかった。
見なくても分かるからだ。
音声だけで十分だった。
『危険任務を成功に導いたのは、機動戦闘中隊所属・天城澪少尉を中心とする先鋒部隊――』
冬真の足が一瞬だけ止まりかける。
中心とする。
間違ってはいない。
実際、あの場で前にいたのは澪だ。
あの白い機体が崩れなかったから、観測データは持ち帰れた。
だから名前が前へ出るのは当然だ。
当然だから、なおさら痛い。
「お、見たか?」
通路脇で待っていた瀬名が、紙パック飲料を片手に声をかけてきた。夜勤明けらしく髪が少し跳ねている。
「見てない」
「見てなくても聞こえてる顔だな」
「うるさい」
「否定の仕方が雑」
瀬名は大型スクリーンのほうを親指で示した。
「今日も英雄様、大人気だぞ」
「知ってる」
「朝から兵士の食堂でもその話題ばっかりだ。“天城少尉がいるならまだ戦える”だと」
「……」
「で、お前はそういう時に限って死人みたいな顔になる」
冬真は返さず、足を速める。
瀬名は当然のようについてくる。
戦術支援管制室へ入ると、壁面モニタの一角にも同じ速報が表示されていた。軍内部向けに編集されたものなのか、共有通路の映像より戦況解説が細かい。どこで観測に成功し、どのタイミングで撤退へ移ったか。その節目ごとに、暁式参号の機影と澪の名前が強調されている。
「ほら」
瀬名が自席に腰を下ろしながら言う。
「完全に“希望の象徴”扱いだ」
「そうだな」
「嫌そうな言い方するなよ。実際すごいのは事実だろ」
「分かってる」
分かっている。
分かっていてなお、あの映像のどこにも、自分が戦場を一秒ずらした痕跡はない。
あるわけがない。
あってはいけない。
だからこれは正しい報道だ。
正しいはずなのに、冬真の胸の奥には、薄く削られるような感覚だけが残る。
自席へ着くと、端末にはすでに新しい戦後解析が積まれていた。敵指揮ノードの推定移動、こちらの中継構造への探索痕、そして先鋒機への重点観測傾向の継続。
澪の名前が前に出るほど、
敵の目もまた、そこへ集まる。
それは英雄として当然の宿命なのかもしれない。
だが冬真には、その“当然”がどうしても気に入らなかった。
「追加で広報部が天城少尉のインタビュー打診してる」
別卓の通信員が言う。
「午後、避難区画の慰問も候補に上がってます」
「は?」
思わず瀬名が素で声を出した。
「昨日あれだけの任務やって、今日もう慰問?」
「向こうの都合は待ってくれないんだろ」
別の隊員が苦い顔で返す。
冬真の視線がわずかに上がる。
広報。
慰問。
希望の顔。
そういう単語が自然に澪の周りへ集まり始めている。
昨日までの“腕の立つエース”ではない。
今日からはもう、“見せるべき英雄”として扱われている。
「……早いな」
冬真がぽつりと言う。
「何が」
瀬名が訊く。
「名前の歩く速さ」
「うわ、今日も詩人だな」
「違う」
「でも分かるよ」
瀬名は珍しく茶化しきらずに続けた。
「天城少尉本人より、周りのほうが先に“英雄像”作り始めてる」
「ああ」
「こういうの、止まらないんだよな。一回うまく回り始めると」
冬真は端末画面を見つめる。
敵の探索ログに紛れて、内部広報の調整案まで流れてきていた。天城澪少尉の戦果を市民向け放送に活用、防壁内の士気向上施策に組み込み――そういう言葉が並んでいる。
澪の意思は、そこにはない。
もちろん完全に無視されているわけではないだろう。
だが、もう本人がどう思うかとは別のところで、澪という名前は必要とされ始めている。
戦術支援管制室の自動扉が開き、数人の前線兵が物資申請の確認で入ってきた。そのうちの一人が壁面モニタを見上げ、何気なく言う。
「やっぱ天城少尉はすげえな」
「だな。あの人が前にいると安心感が違う」
「ほんと、いるだけで士気上がるわ」
悪意はない。
むしろ純粋な称賛だ。
だからこそ冬真は、何も言えなかった。
安心感。
士気。
希望。
そういうものを人に背負わせる時、人は簡単にその重さを忘れる。
「顔、やめろ」
瀬名が小声で言う。
「何が」
「今のそれ。“言いたいことは山ほどあるけど全部飲み込んだ”顔」
「……」
「分かりやすすぎるって」
冬真は視線を下ろし、代わりに敵ログを開いた。
感情から逃げるには数字を見るのが一番いい。
敵指揮ノードの断片通信。
人的接点を含む追跡方針。
澪周辺支援の存在確定。
どれも嫌な内容だ。
だが少なくとも、曖昧な拍手や期待よりはずっと扱いやすい。
そこへ、個人回線の短い通知が入る。
送信者:天城澪
冬真の指が、ほんの一瞬だけ止まる。
「おっと」
瀬名が横目で気づく。
「英雄様からだ」
「見るな」
「見てない。でも分かりやすい」
冬真はすぐにメッセージを開いた。
――今、そっちって映像流れてる?
その一文だけで、少しだけ胸の奥がざわつく。
澪も気づいているのだ。
自分の名前が先に歩き始めていることに。
冬真は短く打つ。
――流れてる
――見てないけど、聞こえてる
少し間があって、返信が来る。
――私の名前ばっかり先に行くんだね
その一文を見た瞬間、冬真は目を細めた。
やっぱり、そう思っていたのか。
表では笑って受けているのだろう。
希望の象徴として振る舞っているのだろう。
それでも本人の中には、ちゃんと違和感がある。
名前だけが先に行く。
本人を置いて。
冬真は返答に少し迷ってから、こう打った。
――お前が前にいるからだ
すぐには返ってこない。
代わりに、管制室の扉がまた開いた。
入ってきたのは、澪だった。
前線用の簡易制服姿。さっきまでどこか別の場所で説明でも受けていたのか、肩口に薄く皺がついている。表情は穏やかだが、よく見ると少しだけ疲れていた。
「来たぞ、希望の顔」
瀬名がわざとらしく言う。
「やめてください、それ」
澪は苦笑した。
「その呼び方、今日だけで三回目なんですけど」
「もうそんなに?」
「外でも言われた」
澪はそう言ってから、ふっと肩を落とすように息をついた。
その小さな仕草だけで、冬真には分かる。
かなりきている。
「何しに来た」
冬真が訊く。
「それ、毎回ひどくない?」
澪が言う。
「……」
「まあ、ちょっと顔見たくて」
さらっと言ってから、澪はすぐに付け足す。
「あと、昨日の戦闘ログの確認も兼ねてる」
後半はたぶん本当だ。
前半も、たぶん本当なのが困る。
瀬名が絶妙なタイミングで立ち上がる。
「俺、向こうの卓見てくるわ」
「露骨だな」
冬真が言う。
「気のせいだろ」
瀬名は肩をすくめて去っていった。
澪は冬真の自席の横まで来て、壁面モニタを見上げる。
そこにはまだ、自分の速報映像が小窓で流れている。
「これさ」
澪がぽつりと言う。
「見てると、変な感じする」
「……」
「私、あんなに綺麗じゃないのに」
冬真は少しだけ息を止めた。
澪の横顔は、映像の中の“英雄”とは違って生身だ。
目の下に薄い疲れがある。
髪も少し乱れている。
でもその生身のほうが、冬真にはよほど大事だった。
「綺麗かどうかは知らない」
冬真が言う。
「何それ」
「でも、ああやって切り取られると、お前じゃなくなる」
言ってから、自分でも少し驚く。
思っていたより本音が出た。
澪も少し目を見開いた。
それから、小さく笑う。
「そっか」
「何だ」
「冬真もそう思うんだ」
「……」
「よかった」
その“よかった”が、ひどく静かに刺さる。
「何がよかった」
冬真が訊く。
「私だけじゃなかったから」
澪はモニタを見上げたまま答える。
「みんなが喜んでくれるのは嬉しいよ。でも、あれが“私そのもの”みたいに扱われるの、ちょっとだけ苦しい」
「……ああ」
「名前ばっかり先に行って、私は後ろで追いかけてる感じ」
冬真は何も言わなかった。
言える言葉がない。
その感覚は、たぶん自分にも似た形であるからだ。
澪の名前だけが前へ出ていく。
その後ろで、自分は何者でもないまま見ている。
追いかけることすらできず、ただ視界に入れているだけの距離。
「冬真」
澪が言う。
「私、ちゃんとまだ私かな」
「何だそれ」
「変な質問?」
「変だ」
「でも聞きたかった」
澪はそこでやっと冬真のほうを見る。
真面目な目だった。
「みんなが“希望”って言うたびに、少しずつそっちの顔をしなきゃって思うの」
「……」
「それを続けてたら、どこからが本当の自分か分からなくなりそうで」
その言葉を聞いて、冬真の中で何かが静かに沈む。
英雄の重さ。
名前の先行。
希望の顔。
全部、澪が強いから耐えられているように見えるだけで、本当は少しずつ削っているのだ。
「お前は」
冬真がゆっくりと言葉を選ぶ。
「お前だろ」
「雑だなあ」
「それ以上に何て言えばいい」
「分かんない」
澪は少し笑って、それからまた真面目な顔に戻る。
「でも、冬真にそう言われると、ちょっとだけ大丈夫な気がする」
その一言で、また守る理由が増える。
ずるい。
そう思う。
けれど嬉しいとも思ってしまう自分がいる。
澪はモニタの小窓を見上げ、そこに映る自分の名前を目で追った。
「遠いね」
「何が」
「私の名前」
澪は静かに言う。
「昔はそんなことなかったのに」
冬真は答えられない。
昔は名前より先に人がいた。
今は名前が先に行く。
その差が、二人の距離をそのまま表している気がしたからだ。
管制室の外から、誰かが澪を呼ぶ声がした。
広報部門の担当らしい。次の説明があるのだろう。
澪は小さく顔をしかめる。
その一瞬だけ、英雄の仮面が外れかける。
「行かなきゃ」
「そうしろ」
「またそれ」
呆れたように言ってから、澪は少しだけ笑った。
「でも、来てよかった」
「何しに来たんだ」
「だから、顔見に」
「後半は」
「ついで」
言い切る。その図々しさが、妙に澪らしい。
「冬真」
出口へ向かいかけて、澪が振り返る。
「私の名前が先に行ってもさ」
「……」
「私自身をちゃんと見ててくれる人がいるなら、まだ大丈夫かも」
その言葉が、冬真の胸のいちばん深いところへまっすぐ届く。
見ている。
ずっと。
名前じゃなくて、お前自身を。
そう言いたいのに、言えない。
だから結局、いつものように少し低い声で返すしかない。
「見てる」
たった一言。
でも冬真にしては十分すぎるほどだった。
澪は目を少しだけ丸くして、それから柔らかく笑った。
「うん。知ってる」
そう言い残して、今度こそ管制室を出ていった。
自動扉が閉まったあとも、冬真はしばらくその方向を見ていた。
壁面モニタの小窓では、まだ澪の名前が流れている。
希望の象徴。
先鋒の英雄。
戦果の顔。
どれも間違っていない。
けれどそれだけでは、澪じゃない。
「で?」
戻ってきた瀬名が、自席に腰を下ろしながら訊いた。
「何話した」
「名前が遠いらしい」
「うわ」
「何だ」
「詩的なやり取りしてんな、お前ら」
「してない」
「してるよ」
瀬名は缶を傾け、それから少しだけ真面目な顔になる。
「でも、まあ」
「何だ」
「天城少尉、自分の名前と本人がズレ始めてるの、ちゃんと分かってるんだな」
「ああ」
「で、それをお前に言いに来た」
「……」
「そりゃ重いわ」
重い。
その通りだ。
嬉しいより先に、重いと思ってしまう。
それだけ澪にとっての自分の位置が、少しずつ変わってきているから。
壁面モニタの映像が切り替わり、今度は市民向けの短い特集へ変わる。
澪の名前が、また明るい文字で表示される。
遠くなる名前。
前へ歩いていく名前。
それを後ろから見ているしかない自分。
それでも、名前じゃなくて人を見ているのは自分だと、澪が知っている。
その事実だけが、少しだけ冬真を救っていた。
同時に、その救い自体が次の痛みになることも、
もう分かり始めていた。




