なんか姉も練習中らしい
ルカの声で、朝が始まった。
細いのに、よく通る。
昨日までの家にはなかった音だ。
俺は布団の中で目を開けた。
アンナも目を開ける。
疲れている顔だが、声は出る。
「泣いてるわね」
ヨシュアはもう起きていた。
水を温め、布を取ろうとして、なぜか二枚落とす。
「どっちだ」
アンナが寝台から答える。
「端に青い糸がある方」
ヨシュアは布を見比べた。
「これか」
「それ」
足音が、いつもより慎重になる。
慎重すぎて、逆に床板が鳴った。
ぎし、と音がする。
寝台の方で、ルカがさらに泣いた。
ヨシュアが止まる。
「俺か?」
「たぶん違うわ。でも、止まらないで」
「分かった」
俺は寝台から離れた場所に座っていた。
手元には木札箱。
昨日までは、書けば少し落ち着いた。
今日は開けているだけだ。
ルカ、泣く。
そんな木札を作ったら、一日で箱が埋まる。
カリンは隣にいる。
ルカを見に来たというより、俺を見張りに来た顔だった。
「ヨウカ」
「なに?」
「行く?」
「行かない」
「ほんと?」
「今は」
カリンは頷いた。
信用されたのか、保留されたのかは分からない。
アンナが体を起こそうとする。
ヨシュアがすぐ手を出した。
「起きるか」
「起きるわ」
「俺が」
「ヨシュア」
名前を呼ばれて、ヨシュアの手が止まる。
アンナは息を整え、自分の腕で体を起こした。
「全部支えられると、逆に動きにくいの」
「……分かった」
「支えるなら、背中」
今度は正しく手を添えた。
俺はそれを見ていた。
助けることと、相手の動きを奪うことは近い。
近いから、難しい。
アンナはルカを抱き上げる。
泣き声の角が取れた。
止まるわけではない。
でも、腕の中に入った途端、音が変わる。
「ヨウカ」
アンナが呼んだ。
「はい」
「その布、取ってくれる?」
寝台の横にある布。
青い糸ではない。
端に小さな印がついた方だ。
俺は立ち上がる。
近づきすぎない。
布だけ取る。
ルカの顔を覗き込まない。
頭の中で手順を並べてから、布を取った。
「これ?」
「ええ。ありがとう」
アンナに渡す。
指先が触れた。
温かい。
けれど、少し乾いている。
疲れている手だ。
「他は?」
「今は大丈夫」
それなら下がる。
俺は元の場所へ戻った。
カリンがこちらを見る。
「できた」
「布だけ」
「布、大事」
「うん」
布だけ。
でも、勝手に抱くよりはずっといい。
ルカはしばらく泣いた後、急に静かになった。
寝たのかと思った。
違った。
目を開けている。
焦点が合っているのかは分からない。
それでも、一瞬こちらを見た気がした。
新生児の視力がどうだったか。
そんな知識が頭の端に浮かぶ。
口が小さく開いた。
また泣くのかと思ったら、くしゃみをした。
ヨシュアがびくっとする。
俺も肩が跳ねた。
カリンも固まった。
アンナだけが笑った。
「くしゃみよ」
「分かってる」
ヨシュアが言う。
分かっていない顔だった。
昼前、セリアさんが来た。
アンナの顔色を見る。
ルカの様子を聞く。
布の替え方を確認する。
ヨシュアに休めと言う。
「俺は大丈夫だ」
「大丈夫じゃない顔です」
「顔か」
「顔です」
最近、ヨシュアはよく顔で止められている。
セリアさんは俺の前にしゃがんだ。
「ヨウカちゃん」
「はい」
「手を洗ってから近づくこと。勝手に抱かないこと。アンナが寝ている時にルカが泣いたら、まず大人を呼ぶこと」
「はい」
「自分で何とかしようとしない」
「はい」
前にも聞いた。
でも、今日は前より重い。
赤ん坊が目の前にいるからだ。
俺は木札を取った。
手を洗う。
勝手に抱かない。
泣いたら大人。
書いてから、セリアさんを見る。
「いいですか?」
「いいわね」
カリンも覗き込む。
「私も?」
「カリンちゃんも。抱っこは大人がいる時だけ」
「うん」
カリンは真剣な顔で頷いた。
「落としたら、だめ」
「そうね。落としたら大変」
「だから、まだ持たない」
「それもいい判断ね」
カリンは胸を張った。
俺も、まだ持たない。
持ちたいのかどうかも分からない。
触ってみたい気持ちはある。
でも、怖い。
小さすぎる。
俺の知識は、壊さない方法を全部知っているわけではない。
知らないなら、触らない。
今はそれでいい。
昼食の時、ヨシュアは台所に立った。
昨日より手際はいい。
ただ、寝台の方から声が上がるたびに手が止まる。
「焦げる」
アンナが言う。
「分かってる」
「止まってる」
「分かってる」
ヨシュアは鍋に戻った。
また、手が止まる。
「父さん、鍋」
俺が言う。
「分かってる」
「止まってる」
ヨシュアがこちらを見た。
アンナが笑った。
カリンも笑った。
ルカは泣いている。
それでも、家の空気は悪くなかった。
食卓には、簡単な料理が並んだ。
アンナの分は少ない。
ヨシュアの分は多い。
俺の分はいつも通り。
カリンの分もある。
ルカの分は皿ではない。
アンナの腕の中だ。
家族が増えたのに、皿は増えていない。
代わりに、布と湯と、ヨシュアの動きが増えた。
午後、アンナが眠った。
ルカも寝ている。
寝台のそばに、小さな布のかたまり。
呼吸が二つある。
俺は離れた場所に座っていた。
カリンは扉の近くにいる。
「見てる?」
「見てる」
「何を?」
「アンナさんとルカ」
「見すぎ?」
カリンは考えた。
「今は、見守り」
「違いは?」
「近づかない」
なるほど。
見守りは、近づかない。
今の俺にはちょうどいい。
ルカが動いた。
布の端から手が出る。
反射的に立ちかけたが、途中で止まる。
「大人?」
カリンが聞く。
「まだ」
「泣いたら?」
「呼ぶ」
「うん」
ルカは泣かなかった。
手を動かし、また布の中に戻る。
それだけだった。
俺は息を吐く。
こんなことで疲れるのか。
疲れるらしい。
二十二歳の記憶があっても、新生児のいる家で落ち着けるわけではない。
経験がないものは、経験がない。
それだけの話だ。
夕方、リリとトマとノルが家の外まで来た。
ルカを見たいらしい。
ヨシュアが玄関で止めた。
「今日は外からだ」
「えー」
ノルが言う。
トマも背伸びする。
「赤ちゃん、見えない」
「今日は見えなくていい」
ヨシュアは動かない。
リリが俺に気づいて手を振った。
「ヨウカちゃん、弟?」
「うん」
「小さい?」
「小さい」
「かわいい?」
答えに詰まった。
かわいい。
なのか。
赤い。
泣く。
くしゃみをする。
壊れそう。
目が合った気がする。
一言にまとめるには、情報が多い。
「まだ、分からない」
そう答えると、リリは笑った。
「そっか」
トマが言う。
「俺、兄ちゃんになったことない」
ノルも言う。
「俺もない」
「俺もないな」
ヨシュアがぼそっと言った。
みんなでヨシュアを見る。
ヨシュアは咳をした。
「俺は父さんだ」
「父さんも練習中?」
ノルが聞いた。
ヨシュアは黙った。
それから、家の奥を見る。
「そうだな」
その返事で、胸の奥が軽くなる。
ヨシュアも練習中。
なら、姉も練習中でいいのかもしれない。
夜、またルカが泣いた。
アンナが眠そうに目を開ける。
ヨシュアが起き上がる。
俺も目が覚めた。
部屋の中は暗い。
寝台の方だけが騒がしい。
「母さん?」
声をかけると、アンナがこちらを見る。
「大丈夫。ヨウカは寝ていていいわ」
寝ていていい。
そう言われても、目は冴えている。
ヨシュアが布を取る。
今度は落とさなかった。
俺は寝台へ行かず、桶のそばへ行った。
手を洗う。
水が冷たい。
洗ってから、布を一枚取る。
「母さん、布いる?」
アンナが少し驚いた顔をした。
それから頷く。
「ええ。そこに置いてくれる?」
近づきすぎない。
渡しすぎない。
寝台の横の台に置く。
それだけ。
「ありがとう」
「うん」
俺は戻った。
抱いていない。
触っていない。
泣き止ませてもいない。
布を置いただけだ。
でも、アンナは助かった顔をした。
ヨシュアもこちらを見て頷いた。
それなら、今日の姉はそれくらいでいい。
布団に戻る。
ルカの声は、まだ止まらない。
昨日より、聞き分けられる気がした。
腹が減っているのか。
布が気持ち悪いのか。
ただ泣いているのか。
分かる、とは言えない。
でも、全部同じではない。
木札箱を開ける。
夜、手を洗う。
布、台へ置く。
抱かない。
大人を見る。
書いてから、最後に一枚足した。
姉、練習中。
見た瞬間、変な気分になった。
姉。
寺原丈賀だった俺が、今はヨウカで、ルカの姉。
今日は布を置けた。
それくらいなら、明日もできるかもしれない。
ルカの声が弱くなった。
アンナの声がする。
ヨシュアの低い声もする。
家の中に、新しい音がある。
俺は木札を箱にしまった。
どうやら、姉も練習中らしい。




