なんか家族ができたらしい
今の俺は赤ん坊だった。
「ヨウカ、起きたの?」
アンナの声がした。柔らかい声だった。
前世でも、優しい声を聞いたことがないわけではない。学校にはいたし、部活にもいた。友達にもいた。
ただ、家の中で聞く優しい声には、あまり慣れていなかった。
アンナは俺を抱き上げると、慣れた手つきで布を替えた。
そこで俺は、何度目かの現実確認をする。
女の子である。
「お腹空いたのね。ちょっと待って」
アンナが笑う。
俺は赤ん坊らしく声を上げた。
「あー」
言葉にはならない。だがアンナは、それだけで嬉しそうにした。
「はいはい。分かってるわよ」
分かるのか。すごいな、母親というものは。
いや、正確には拾いの母親だ。
でもアンナは、俺を拾ったその日から、当然のように世話をしている。
⸻
ヨシュアもそうだった。
剣士で冒険者と聞いていたので、もっと荒っぽい男を想像していた。しかし実際のヨシュアは、声こそ低いが、手つきは意外なほど丁寧だった。
俺を抱く時も、壊れ物を扱うようにそっと持つ。
「怖がるな。落とさん」
そう言って笑った。
別に怖がっているつもりはない。ただ、体が勝手に強張ることがあった。
大きな男の手。低い声。足音。扉の開く音。
そういうものに、前世の記憶が反応する。
ヨシュアはそれに気づいたのか、俺を抱く時は必ず先に声をかけるようになった。
「ヨウカ、抱くぞ」
それだけで、少し楽だった。
たぶんこの人は、優しい。少なくとも、怖がらせたい人ではない。
それは赤ん坊の体でも分かった。
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俺の暮らす家は、フィル村の端にあった。
大きな家ではない。木でできた、温かい匂いのする家だ。
暖炉があり、棚には瓶が並んでいて、壁にはヨシュアの剣が掛けてある。アンナの机には、魔法の本らしいものと、乾燥させた草が置かれていた。
俺は赤ん坊なので、動ける範囲は狭い。
だが、目だけはよく動いた。
そして、見つめると時々、妙な文字が浮かぶ。
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【木の椅子】
座るための家具。少し古い。脚の一本に傷がある。
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【薬草瓶】
乾燥薬草が入った瓶。湿気に注意。
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【暖炉】
火を扱う場所。近づきすぎると危険。
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鑑定。たぶん、そういう力なのだと思う。
ただし、何でも分かるわけではない。
アンナが使っている魔法書をじっと見ても、
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【魔法書】
魔法について書かれた本。現在の理解では詳細不明。
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と出るだけだった。
便利なのか、不便なのか分からない。
いや、便利ではある。ただ、俺の知識や理解が足りないと、深くは読めないらしい。
そこは少し安心した。
何もかも分かる能力だったら、自分が自分でなくなる気がしたからだ。
それにしても。
赤ん坊が壁や椅子をじっと見つめている姿は、周りから見ればかなり変かもしれない。
「この子、よく見るわね」
アンナが言った。
「賢い子になるかもな」
ヨシュアが答える。
「親バカ早くない?」
「拾って二日で親なら、もう親バカでいいだろう」
「それもそうね」
二人は笑った。俺は黙って聞いていた。
親。
その言葉が、胸の奥に引っかかる。
前世にも親はいた。
だが、家族というものは、いつも安心できるものではなかった。
父の機嫌。母の不在。家の中に流れる、言葉にならない重さ。
それが普通だと思っていた時期もある。でも、たぶん普通ではなかった。
少なくとも、この家は違う。
ヨシュアはアンナの話を聞く。アンナはヨシュアに怒る時も、怒鳴らない。二人とも、俺を見て笑う。
それだけのことが、かなり不思議だった。
⸻
ある日、アンナが指を切った。
薬草を刻んでいる時だった。
「痛っ」
小さな声だった。大した傷ではない。指先を少し切っただけだ。
けれど、赤い血が見えた瞬間、頭の中が妙に冷えた。
清潔な布。圧迫。水で洗う。汚れた刃物なら感染の危険。
そんな知識が、断片的に浮かぶ。
前世の俺は医者ではない。医学生でもない。だから、これは専門的な知識ではない。たぶん、一般常識と、何かのスキルが反応しているだけだ。
医学。
そんな言葉が頭の端に浮かんだ。
だが、俺は赤ん坊だ。
何もできない。
声も出せない。歩けない。布も持てない。
アンナは切った指を、自分の目の高さまで持ち上げた。
反対の手の指先に、小さな火が灯った。
小さい、というより、点に近い。赤ん坊の爪より小さいくらいだ。
それを傷に当てた。
じ、と短い音がして、火が消えた。
血が止まっている。
「大丈夫、大丈夫」
アンナは俺の視線に気づいて笑った。
「心配してくれたの?」
俺は声を出した。
「あう」
心配した。でも、何もできなかった。
それが少し悔しかった。
それに、今のは何だったのか。
布を巻いて押さえる、が頭に浮かんでいたのに、アンナはその前に終わらせた。火であんなことができるとは思っていなかった。
あれだけ小さいのに、ちゃんと血が止まっている。
前世でも、そういうことはあった。
分かっているのに動けない。おかしいと思っているのに言えない。助けたいと思っても、助け方を知らない。
今も同じだ。
知識がなければ使えない。体が動かなければ届かない。
だったら、覚えるしかない。
見て、聞いて、考えて、いつか動けるようになるしかない。
赤ん坊の小さな手を握りしめた。
その手は、あまりにも弱かった。
でも、何もできないままでいるつもりはなかった。
⸻
季節が少しずつ変わった。
俺は、ヨウカとして育っていった。
首がすわり、寝返りができるようになり、はいはいを覚えた。
動けるようになると、世界は広がった。
床の木目。棚の下。暖炉の近くの灰。アンナのスカートの裾。ヨシュアの靴。
どれも新しい。
俺はあちこちに行こうとして、そのたびに止められた。
「ヨウカ、そこは駄目」
「あー」
「暖炉は駄目。火傷するわ」
「あう」
「分かってない顔ね」
分かっている。火傷するのは分かっている。
だが、見たいものは見たい。知りたいものは知りたい。
前世でもそうだった。歴史漫画、伝記、図鑑、迷路の本。何かを見つけるのは好きだった。
どうやら、その性分は赤ん坊になっても変わらないらしい。
ただ、赤ん坊の探索は危険だ。
ヨシュアは俺を抱き上げると、肩に乗せるようにして部屋を歩いた。
「ほら、見たいならこっちから見ろ」
視点が高くなる。
棚の上。窓の外。アンナの机。
世界が一気に広がった。
俺は思わず声を上げた。
「おー」
ヨシュアが笑う。
「おお、か。そうか。楽しいか」
楽しい。かなり楽しい。
前世でも、誰かに肩車をしてもらった記憶はない。あったのかもしれないが、少なくとも思い出せない。
だから、これは新しい記憶だった。
悪くない。いや、かなり良い。
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その日の夕方、家に客が来た。
小さな女の子だった。
俺より少し大きい。たぶん三歳くらい。
黒い髪。大きな目。背筋が妙にしっかりしている。
その子は扉の前で、じっと俺を見た。
「この子?」
「そう。ヨウカよ」
アンナが言う。
女の子は近づいてきた。
俺は床の上で座っていた。まだ安定しない座り方だ。
その子は俺の前にしゃがみ、真剣な顔で言った。
「カリン」
自己紹介らしい。
俺も返事をしようとした。
「よ……」
言えない。
「う……あ」
カリンはしばらく俺を見つめた。
そして、なぜか満足そうに頷いた。
「よーか」
発音は少し違ったが、たぶん俺の名前を呼んだ。
それからカリンは、小さな手を差し出した。
俺はその手を見た。
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【カリン】
状態:健康
詳細不明。
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人間には、壁や椅子ほど簡単には情報が出ないらしい。
だが、何か強い気配があった。
この子は、ただの子どもではない。
そう思った。
俺が手を伸ばすと、カリンはぎゅっと握った。
力が強い。赤ん坊相手にその力加減でいいのか。
少し痛い。
でも、不思議と嫌ではなかった。
カリンは言った。
「よーか、まもる」
アンナが笑った。
「あら、頼もしい」
ヨシュアも笑った。
「もう護衛ができたな」
俺はカリンを見上げた。
守る。
三歳の子どもが言うには、ずいぶん大きな言葉だ。
でも、その目は本気だった。
俺は返事の代わりに、握られた手を少しだけ握り返した。
カリンはまた満足そうに頷いた。
どうやら、友達ができたらしい。
いや。
家族ができたばかりなのに、もう幼馴染までできたのかもしれない。
なんだ、この人生。
前世より、だいぶ賑やかになりそうだった。




