なんか捨て子になったらしい
最後に覚えているのは、冷たい床の感触だった。
寺原丈賀。
二十二歳。大学生。
野球をしていた。教師になりたかった。
父は怒鳴る人だった。
母は、こちらを見ているようで見ていない人だった。
だから、家というものにあまり期待したことはなかった。
けれど、それでも。
生徒に歴史を教えてみたかった。
部活で声を出している子どもたちを見てみたかった。
自分が昔、学校で救われたように、誰かにとって学校が悪くない場所であってほしいと思っていた。
その願いだけは、たぶん本物だった。
そして意識は、途切れた。
次に目を覚ました時、世界はひどくぼやけていた。
寒い。
まずそう思った。
体が動かない。
手足に力が入らない。
目を開けても、何が見えているのか分からない。
いや、違う。
これは目が悪いのではない。
体が、小さすぎる。
喉の奥から、頼りない声が漏れた。
「あ……う……」
泣こうとした。
でも、上手く泣けなかった。
赤ん坊の体なのに、頭の奥に妙な冷静さがあった。
寒い。
腹が減っている。
体温が下がっている。
このままだと危ない。
そんな判断だけが、異様にはっきり浮かぶ。
おかしい。
赤ん坊が、こんなことを考えるはずがない。
その時、遠くから足音が聞こえた。
枯れ葉を踏む音。
硬い靴底。
二人分。
「ヨシュア、待って」
女の声だった。
「どうした?」
「泣き声がした」
「こんな森の端でか?」
「したの」
足音が近づく。
俺は、いや、今の俺は、もう一度声を出そうとした。
喉が震える。
けれど出てくるのは、泣き声とも呼べない小さな音だけだった。
布がめくられた。
冷たい空気が流れ込む。
同時に、女の顔が視界いっぱいに広がった。
栗色の髪。
驚いた目。
それから、痛そうな顔。
「赤ちゃん……」
女は息を呑んだ。
その後ろから、男が覗き込む。
「捨て子か?」
「たぶん。でも、この布……冒険者のものね」
「親は?」
女は答えなかった。
男も、それ以上は聞かなかった。
女の手が伸びてきた。
俺は一瞬、体をこわばらせた。
触られるのが怖い。
そう思った。
前の人生の記憶が、ひどく遠くで軋んだ。
怒鳴り声。
乱暴に閉まる扉。
誰かのため息。
腹の奥に沈む、どうにもならない感覚。
けれど、その手は乱暴ではなかった。
女は俺を抱き上げ、胸元にそっと包んだ。
「冷たい……。ヨシュア、急いで帰るわ」
「ああ」
「この子、泣き方が弱い。体力が落ちてる」
女は俺の顔を覗き込んだ。
その瞬間、目が合った。
彼女の瞳が、少し揺れた。
「……不思議な子」
「どうした?」
「分からない。でも、放っておけない」
男は小さく笑った。
「捨て子を放っておける女だったら、俺は結婚してない」
「うるさい」
女はそう言いながら、俺をもっと強く抱きしめた。
温かい。
ただ、それだけのことで、喉の奥が詰まった。
泣くつもりはなかった。
けれど、今度は勝手に涙が出た。
赤ん坊の泣き声が森に響く。
やっと、ちゃんと泣けた。
⸻
フィル村というらしい。
俺を拾った二人は、村外れの木の家に住んでいた。
女の名はアンナ。
魔法使い。
男の名はヨシュア。
剣士で、冒険者。
二人は俺を湯で温め、柔らかい布で包み、薄い乳を飲ませた。
体は赤ん坊なので、ほとんど何もできない。
飲む。眠る。泣く。
それだけで疲れる。
だが、頭の中だけは妙に動いた。
ここはどこだ。
なぜ生きている。
なぜ赤ん坊なんだ。
なぜ、この体は女の子なのか。
いや、最後の疑問は今は置いておく。
考えてもどうしようもない。
大事なのは、生き残ることだ。
そう思った時、視界の端に、奇妙な文字が浮かんだ。
【家の壁】
木製の家の壁。そこそこの耐久力がある。火に弱い。
〈素材〉
ブガの木
「……あ?」
声にならない声が漏れた。
なんだこれ。
壁を見ただけで、情報が出た。
意味が分からない。
ゲームか。
いや、そんな雑な話があるか。
だが、文字は消えない。
見ようとすると、さらに頭の奥に情報が滑り込んでくる。
鑑定。
観察。
魔力。
スキル。
知らないはずの言葉なのに、なぜか意味だけは分かる。
その時、アンナが近づいてきた。
「起きたの?」
俺は慌てて壁から目を逸らした。
赤ん坊に慌てるも何もないが、気持ちとしてはかなり慌てた。
アンナは俺を抱き上げる。
「名前、必要よね」
ヨシュアが椅子に腰かけながら言った。
「親の手がかりは?」
「ないわ。布に紋章もない。冒険者だった可能性は高いけど……」
「なら、俺たちでつけるしかないな」
アンナは俺の顔をじっと見た。
また目が合う。
彼女は少しだけ困ったように笑った。
「この子、なんだか朝みたいな目をしてる」
「朝?」
「暗いところから、光が差す前みたいな」
ヨシュアは首をひねった。
「詩人みたいなこと言うな」
「うるさい」
アンナは俺の額に指を置いた。
「ヨウカ」
その名前を聞いた瞬間、胸の奥が小さく震えた。
「この子の名前は、ヨウカ」
ヨウカ。
前世の名前ではない。
寺原丈賀ではない。
でも、不思議と嫌ではなかった。
アンナは優しく言った。
「ようこそ、ヨウカ。ここがあなたの家よ」
家。
その言葉に、俺は何も返せなかった。
前の人生で、家という言葉はあまり温かくなかった。
でも今、抱きしめる腕は温かい。
部屋には火があり、木の匂いがあり、誰かの声がある。
今度こそ。
何を今度こそなのか、自分でも分からない。
けれど、赤ん坊の小さな手を握りしめながら、俺は思った。
今度こそ、ちゃんと生きたい。
そして、できることなら。
誰かが壊れる前に、気づける人間になりたい。
その夜、フィル村の小さな家で、捨て子のヨウカは眠った。
なんか捨て子の女の子に転生したらしい




