57 絵姿
アラッカの町に到着してから、ようやく私たちは安心して休むことができた。温かい寝台で夜を過ごし、昼には出発すると聞かされている。
ラルフは護衛の騎士たちと街道の下見に行ってきたという、商会の人たちと会っている。
相変わらず肩にヤタを乗せた私とクリスチーナさんは、その間にいつでも出発できるようコンファーロさんに託された布を、二人で馬車に運び入れることにする。
「お祖父さまが受け取りに行ったときには、これの存在が信じられなかったのですわ」
クリスチーナさんは感慨深そうにしながら、黒い布に手を添えた。
「光沢があってとても美しい布です。丁寧に紡いだ糸が、丁寧に織り上げられているのは、携わった人たちの想いがあるからでしょうか」
『主様の色、とても良い色』
ヤタが胸を張って私に同意してくれた。
「そうですわね、リズとヤタの言う通り。お祖父さまのご命令で、この繭の報告が上がった時にすぐさま、コンファーロ最上級の織り工房へと運ばせたと聞いているわ……あら」
クリスチーナさんが馬車の荷台の奥に目を配り、驚いたように声をあげた。
私もつられたようにして中を覗くと、荷台となる板張りの床にあぐらを組んで座る、男性の後ろ姿。
「シュウさん?」
「姿が見えないと思っていたら、まさかこのような所にいらしたのね」
私とクリスチーナさんの呼びかけに気づかないのか、シュウさんは振り返ることなく一心不乱に何かをしているようだった。
私たちは不思議に思って、顔を見合わせてから馬車の中へと足を踏み入れる。
シュウさんの後ろから彼の手元を覗くと、彼は白い紙に向かって手を動かしていた。紙上を滑るのは、灰鉛と呼ばれるこの世界でよく使われる鉛筆。上質なものであれば鉱石が練り込まれることでより黒に近い色をもっているが、とにかく高価だと聞く。
シュウさんが描く線は、かつての世界で見たようなものに近い黒。
そしてその描く絵は……。
「竜……いえ、ドラゴン?」
彼の絵をもっとよく見ようと四つん這いになりなって覗き込むと、ようやくシュウさんが手を止めて顔を上げて私を見た。
「これって、リントヴルムの山の主の姿……ですよね」
私の言葉に反応して、ヤタもまた翼を羽ばたかせながら、私と共に絵を覗き込む。
彼の膝元に置かれた大きな紙に描かれていたのは、かつて病室だけで過ごした私では想い描ききれなかった、幻想世界の生き物だ。
灰鉛で描かれた竜は、まだ線描であるのにもかかわらず、とても立派な存在だというのが分かる。
大きな翼を広げて、長い首をもたげさせながら角の生えた頭部を正面に向けている。ごつごつとした額、縦長な瞳孔は鋭い眼光を思わせて、裂けた口からは牙が見えてとても強そうだ。手足には爪があり、特に脚部分はがっしりとしていて西洋的なフォルム。竜というよりも、ドラゴンと呼ぶべき姿。
「足りない部分はあるか?」
シュウさんに尋ねられ、私は悩みつつ言葉にする。
「鱗は、これから描くんですか?」
そう言ってしまってから、違和感に気づく。
「爬虫類系ならば、鱗は違うのかしら……でも、羽化の失敗でできたほころびを繕うには、鱗が便利かなって……」
何を言っているのか自分でもあやふやだったけれど、それを聞いたシュウさんは「そうか、それもありだな」と受け入れてしまう。
よく考えてみれば、元の世界の理に縛られる必要はないのかもしれない。
そんなことを考えている間にも、シュウさんは早速絵に手を加えていく。大きな体躯には黒い鱗様の影が加わり、その羅列がさらに生き物としての脈動さえ感じられる。それと同時に、姿形さえなかったはずの主をそこに見ているようで……。
「リズ?」
絵の中の世界に呑み込まれるようにして見つめていたのだろう。
私を心配そうに振り返るシュウさんに呼ばれ、そこでようやく我に返った。
「……圧倒されていました。凄くて」
「そうかな……きみの中のイメージとかけ離れていないだろうか?」
「いえ……むしろ、おぼろげだったリントヴルムの主様を、改めて鮮明に思い出していたくらいです。格好いいです……ねえヤタ、あなたもそう思うでしょう?」
じっと絵を覗き込んでいたヤタは、私の声に反応して顔を上げた。
『主は凄い、カッコイイ』
誇らしげに胸を張ったヤタを見て、私も少しだけホッとする。
「そうか、良かった。このまま描き進めよう」
シュウさんは再び絵に向かい、一心不乱に手を動かし始める。
その背を見つめながら、私は彼から聞かされた過去を思って胸が締め付けられる。これを……この力を諦めなければならなかったという、かつてのシュウさんの絶望が私にはよく分かる。もし私が今、彼と同じように病気で視界を奪われてしまったら、魔法紡ぎどころか、初めてラルフのために刺した刺繍のようなものですら、出来なくなってしまうだろう。
「リズ、そろそろ私たちも準備を続けましょうか」
考えに耽っていたところにクリスチーナさんに声をかけられ、私は自分たちの手にある布に目を落とす。
「荷台に置きましょうか? それとも手元に置いておきたいのなら座席の方へ……」
クリスチーナさんがそう問いつつも座席の後ろの荷台にちょうど隙間があるのに気づき、そちらに移そうとしたところで私はハッとする。
「クリスチーナさん、手伝ってもらっても良いですか?」
これまではとにかくリントヴルムに戻りさえすれば、何とかなるのだろうと漠然と考えていた。けれども、それでは駄目だ。
きょとんとする彼女の前で、持ってきてあった私物の鞄を開ける。そして布断ち鋏を取り出したのだった。
「リズ、何をするつもりなの?」
訝しむクリスチーナさん。
「この布で、作りたいものがあるんです」
私の決意を感じてくれたのか、クリスチーナさんは多くを聞かずに、手を貸してくれた。
二人で黒の布の端を持ち、荷台の空いた床に広げた。
幾度も広げた布端から幅を測り直して、ここだと決めたところに指を入れる。両手の人差し指と中指で布を挟み、縦糸方向にぴんと張る。
最初のひと断ちは、どんな布だとしてもドキドキするものだ。
それが稀少な黒糸で織られた布となればなおさら。
「女は度胸でしてよ、リズ」
無駄にできない裁断をと考えるあまり躊躇していた私に、端を手で持っていてくれていたクリスチーナさんが焦れたように発破をかけてくれた。
「……ふふっ、ありがとうございます、クリスチーナさんが一緒にいてくれて良かった」
私は少しだけ緊張が解けて、摘まんでいた布を引っ張りながら破るように割く。そうすると布はまるで初めから定められていたかのように、ピリピリと紙を破くように横糸に添って真っ直ぐ割けていく。
正確に横糸を揃えられない環境で布を裁つのは、手で裂くのが一番だ。
そうして短冊状になった布を、今度は鋏で小切れにしていく。
するすると滑らかに断たれていく布と、刃が擦れる音は、とても心地よい。
ハンカチほどの大きさになった布が五枚。とりあえずこれでいいだろう。
「……これをどうするの、リズ?」
そう疑問を投げかけてきたクリスチーナさんに、私は微笑みながら言う。
「刺繍をしようと思います、できる限りたくさん。クリスチーナさんも一緒にどうですか」
「わ、私がしても……よろしいのかしら」
不安そうな顔をする彼女に、頷いてみせた。
「ラルフたち騎士の制服に使うわけじゃないので、見栄えを気にしなくても大丈夫です。それに、クリスチーナさんの魔法紡ぎに対する想いが、今は一番大切だと思う」
私は、かつてラルフに言われた言葉を思い出す。
──リズの匂いがする。
私がラルフのために刺した、一針一針に乗った想い。それが長年ラルフを助けてくれていたのが本当ならば、見た目の出来映えよりも大切なものがあるということ。
ラルフの力になりたい一心でマルガレーテに入ろうとする優しい人の刺したものが、助けにならないはずがない。それだけじゃない……。
私は一心不乱に描き続けるシュウさんと、それを眺めているヤタに目を移す。
そしてここにはまだ居ないけれど、誰よりも私の理解者となってくれているラルフの姿を思い描いていると、馬車の扉が開いた。
噂をすれば影、そこから顔を覗かせたのはラルフだった。
「リズ、クリスチーナ、呼びに行こうとしていたらもう来ていると聞いて驚いた。何か問題があったのか?」
「ラルフ……大丈夫よ、ゆっくり休むことができたし、早めに支度ができたの」
「それならいいが……それは?」
私の手元にある布を見て問うラルフに、クリスチーナさんが答える。
「お祖父さまから託された、特別な黒布ですわ。これから刺繍をしますの、私たちで」
「クリスチーナもか?」
ラルフ、そんな怪訝な顔で失礼な言い方しないの。
けれどもクリスチーナさんは自慢げに微笑みながら胸を張っているので、ラルフの嫌味っぽい言葉を意に介していなさそう。やっぱり強いです、クリスチーナさん。
「それより何かあったのですか、ラルフェルト様?」
暢気な私よりも、クリスチーナさんはラルフの様子に何かを感じ取っていたようで。
「ああ、あまり良い知らせではなかった。どうやら雨期に入ってからの長雨で、迂回路の山道が崩れる心配がある。早めに出発した方がいい」
「ホーロラ山は難所ですわ、急ぎましょう」
クリスチーナさんの表情も険しくなった。
正規のルートである街道ならば、雨期の水くらいで危険になることはない。私たちが行くのは、ホーロラ山の山道を通って、山間に流れる河を渡るルートをとる。小さな村が点在しているから道はそれなりなのだけれど、この山の合間をくねるように流れる河が問題なのだという。
私たちは急いで支度を調え、アラッカを出発することになった。
コンファーロさんたちに見送られながら屋敷を出発して、小さなアラッカを出るとすぐに細い道へと入った。
車窓から見る景色はすぐに木々で埋め尽くされてしまう。道も狭くて、同じような荷馬車が対向からやってきたらすれ違うことは難しそう。それでも安心して進めるのは、この道を使う者が極めて少ないから。
そして何より、驚くほど馬車が揺れない。まるで空中を浮いて滑っているかのようで、大きな荷台を曳いて走る馬たちの歩も、心なしか早い気がする。
「……いったい、どんな技術を使ったのか」
ラルフも同じことを考えているのか、補修を促した張本人のシュウさんに目を向けている。
「確かに、夢のような技術だわ、宙を浮いていたってもっと揺れそうだもの」
「サスペンションを強化して、さらに車輪の摩擦を極限まで消してあるんだ」
シュウさんの説明に、私とラルフ、クリスチーナさんやヤタまでもが揃って首を捻る。
特にラルフは私の方を見てくるけれど、前世があちらの世界だったとしても、分からないものは分からないのだ。そこまで期待しないで欲しい。
「とにかく、俺はこのまま急いで絵を完成させたい。後のことは任せてもいいだろうか?」
「ああ、それでかまわない。何事もなければ、明日の夕方にはウィンスの町へ到着する予定だ」
「じゃあせっかく揺れないことだし、私も刺繍をさせてもらうわね。あ、でもその前に……いつもの繕いをしておきましょうか?」
そう申し出ると、ラルフは着ていた制服のジャケットを脱いで渡してくれた。
毎日続いていた彼の制服の繕いは、昨日は時間がなくて出来ていない。私の繕いが彼の魔法のための力になるならば、この先の旅路のことを思えば今こそ欠かすべきではない。
思った通り、少しだけ裾のほつれを見つけた。
私は裁縫道具の入った鞄を開けて、糸と針を取り出す。
ラルフが言った通り、このまま何事もなくリントヴルムまで辿り着けますように。
そう願ったのだけれど、異変はすぐ訪れることになった。




