ひとつの部屋
店を出ると、昼の光が石畳へ白く反射していた。
市場の喧騒は相変わらず続いている。
荷車の軋む音。
呼び込みの声。
遠くで鳴る鐘。
碧は店先で小さく息を吐いた。
腹は少し落ち着いた。
けれど、不安は何も解決していない。
財布の中には、この世界の金。
帰り方は分からない。
知り合いもいない。
このまま夜になったらどうなるのかも、よく分からなかった。
隣では、リゼが小さな布袋を抱え直している。
碧は少し迷ってから口を開いた。
「……あのさ」
「はい?」
「今夜泊まる場所、探すんだよな」
「……はい」
リゼは少しだけ表情を曇らせた。
たぶん、考えたくない話だったのだろう。
碧も同じだった。
「その……宿、一緒に探してもいい?」
リゼが瞬きをする。
「え……?」
「俺、この街のこと全然分かんないし」
本当に、それだけだった。
一人で放り出されたら、多分どうにもならない。
リゼはしばらく黙っていた。
長い耳が、小さく揺れる。
(……変な人)
そんな顔をしていた。
でも同時に、
(でも、人間の人に断るのも……)
そんな迷いも見えた。
やがてリゼは小さく頷いた。
「……はい」
「ありがとう、めっちゃ助かるよ」
碧は素直にそう言った。
その反応に、リゼは少しだけ困った顔をした。
◇
宿探しは、思ったより難しかった。
「一泊、銀貨一枚だな」
「……無理です」
「二人なら二枚」
「無理です」
リゼの返事がどんどん早くなっていく。
三軒目を出た頃には、もう耳までしょんぼりしていた。
碧は横を歩きながら苦笑する。
「そんな高いのか」
「高いです……」
「相場分かんないんだけど」
「さっきのお昼、二人で銅貨三枚くらいでした」
「……なるほど?」
全然分からなかった。
でも、とりあえず宿が高いことだけは分かった。
日が傾き始める。
市場の喧騒も少しずつ変わっていく。
昼の商人たちに代わって、酒場へ入る客が増えていた。
通りには橙色の灯りが灯り始めている。
リゼは不安そうに周囲を見回した。
「……どうしましょう」
「野宿とかできるのか?」
「フェルメリアの外は危ないって聞きました」
「じゃあ無しか……」
二人同時に黙る。
その時だった。
細い路地の奥に、古びた木看板が見えた。
宿屋らしい。
かなり小さい。
碧は半分諦めながら扉を開けた。
◇
中は薄暗かった。
古い木の匂いがする。
カウンターの向こうには、眠そうな老人が座っていた。
「……泊まりか?」
「空いてますか?」
リゼが尋ねる。
老人は二人をちらりと見て、奥の帳簿をめくった。
「空いてるぞ。二部屋か?」
リゼの耳がぴくりと動く。
「あ……」
一瞬、迷うように言葉が止まった。
だが、すぐに小さく頷く。
「はい、できれば……」
老人は料金を告げた。
その瞬間、リゼの表情が固まる。
碧も財布の中を見る。
銀貨と銅貨が数枚ずつ。
昼間より少しは価値が分かるようになった今なら、足りないことくらいは理解できた。
「……足りない?」
碧が小声で聞く。
リゼはかなり言いづらそうに頷いた。
「二部屋だと……ほとんど残らないです」
「一部屋なら?」
「……数日はなんとか」
老人は急かすでもなく、黙って二人を見ていた。
碧は少し考えてから頭を掻く。
「じゃあ、一部屋でいいです」
リゼの肩が、小さく揺れた。
けれど、断ることはしなかった。
「……はい」
老人は頷く。
「飯は出ねぇぞ。水は裏だ」
「ありがとうございます」
リゼが深く頭を下げた。
その横で、碧は小さく息を吐く。
とりあえず、今日寝る場所だけは確保できたらしい。
◇
部屋は狭かった。
古い木壁。
小さな机。
窓はひとつ。
そして、ベッドもひとつだった。
「……」
「……」
沈黙が落ちる。
リゼは部屋へ入ったまま固まっていた。
碧は荷物を下ろしながら言う。
「まあ、寝るだけだしな」
「……はい」
声が硬い。
碧はその理由が分からない。
とりあえず空気を変えようと、市場で買った包みを机へ置いた。
「とりあえず食べる?」
中には干し肉と果物、それに黒パンが入っている。
リゼは小さく頷いた。
二人は机を挟んで座った。
昼とは違う。
静かだった。
窓の外からは、遠くの喧騒だけが聞こえてくる。
碧は果物を齧りながら、ふと口を開いた。
「なんでそんな緊張してんの?」
リゼの耳がぴくりと跳ねる。
「……え」
「店入った時からずっと変だし」
リゼはしばらく黙っていた。
やがて、小さく視線を伏せる。
「……普通じゃ、ないので」
「何が?」
「人間の人と、同じ卓で食べたり……同じ部屋に泊まったり」
碧は首を傾げる。
「そうなのか?」
「……はい」
「なんで?」
「なんで……」
リゼは困ったように言葉を探した。
「普通、人間の人と獣人は、もう少し距離があります」
「距離?」
「その……人間と一緒にいる獣人って、使用人とか、従者とか……そういうことが多いので」
碧は少し考える。
でも、やっぱりよく分からなかった。
「別にそんなんじゃないだろ」
あっさり言う。
リゼは目を瞬かせた。
「……変な人」
「また言ったな」
碧は苦笑した。
リゼも、小さく笑う。
その笑い方は、昼より少し自然だった。
◇
夜が深くなる。
灯りを消すと、部屋はすぐ暗くなった。
碧は靴を脱ぎ、先にベッドへ腰掛ける。
「……寝るか」
そう言って振り向くと、リゼはまだ部屋の隅に立ったままだった。
「?」
碧は首を傾げる。
「寝ないの?」
リゼは少し迷うように視線を泳がせた。
「……その」
「ん?」
「私は、床で大丈夫です」
「え?」
碧は思わず床を見る。
硬い木板しかない。
「いや、寝られないでしょ」
「でも……」
リゼは小さく俯いた。
長い耳も、どこか落ち着かなさそうに揺れている。
「同じベッドなんて、普通は……」
「あー……」
そこでようやく、碧も少しだけ理解した。
気まずいとか、そういう話ではない。
この世界では、それ自体が特別なのだ。
けれど。
「でも一個しかないしな」
碧はあっさり言った。
「ちゃんと端寄るから」
「……」
「俺そんな寝相悪くないし、多分」
「多分なんですか……」
リゼが小さく呟く。
碧は苦笑した。
「ほら、明日も動かなきゃだろ」
リゼはしばらく迷っていた。
けれど、やがて諦めたみたいに小さく頷く。
「……失礼します」
その言い方に、碧はまた少しだけ不思議な気分になった。
リゼはかなり遠慮がちにベッドへ腰掛ける。
壊れ物に触るみたいな動きだった。
碧は壁側へ寄る。
「落ちるなよ」
「……はい」
リゼは端の方で小さく身体を丸めた。
身体はまだ少し固い。
でも、不思議と怖くはなかった。
変な人だと思う。
人間なのに、変な人。
でも。
悪い人ではない気がした。
窓の外では、フェルメリアの夜風が静かに吹いていた。
二人は、小さなひとつのベッドの上で、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




