フェルメリア
朝の冷たい空気で、碧は目を覚ました。
木の軋む音。
ごとごとと揺れる荷台。
どうやら、この世界は夢ではないらしい。
「……さむ」
身体を起こした瞬間、腰に鈍い痛みが走った。
硬い木板の上で寝ていたせいだろう。背中も肩も妙に重い。
碧は顔をしかめながら周囲を見回した。
麻袋。
酒樽。
木箱。
荷物の隙間へ、人が押し込まれている。
やっぱり旅客用には見えなかった。
荷台の前では、犬耳の男が無言でけん車を引いている。
茶色の耳が、朝風に揺れていた。
肩へ食い込む革帯。
白い吐息。
黙々と石畳を踏みしめる足。
「……すげぇな」
思わず呟く。
その声に、隣の少女――リゼが小さく笑った。
「犬人は力がありますから」
「いや、でも……ずっとこれ引いてるんだろ?」
「途中で交代はします。でも、大変なお仕事です」
リゼはそう言って、少しだけ目を伏せた。
碧は改めて荷台を見る。
人を乗せるための空間じゃない。
荷物を運ぶついでに、人が座っているだけだ。
「これ、人が乗る用じゃないよな?」
「はい。貨物便です」
リゼは荷台の側面を指差した。
荷台にはプレートがかけられていて、そこには黒い塗料で文字が書かれている。
『PV-1045』
「……なんだこれ」
「このけん車の便名です」
リゼは慣れた様子で答えた。
「PVはポルトヴェラ共和国。10は十月発、4は保存食便、最後の5は今月五本目って意味です」
「へぇ……」
碧はなんとなく頷いた。
妙に現実感のある仕組みだった。
「本当は旅客便もあるんですけど……」
そこで、リゼは少し言葉を濁した。
「乗れなかったのか?」
「……6便は、年に数本しか出ないので」
「6便?」
「獣人用旅客便です」
さらりと言われた言葉に、碧は眉を寄せた。
「獣人用?」
「はい」
リゼはどこか慣れたように頷く。
「でも、すごく高いんです、値段も抽選の倍率も。普通の獣人だと、なかなか乗れなくて……」
「じゃあ、みんな貨物便に?」
「乗れるスペースがあれば、ですけど」
リゼは苦笑した。
「半年前から乗れる貨物便を探してたんです。」
貨物便を探す。
その言葉が、妙に引っかかった。
人なのに。
荷物の“空き”で運ばれるのか。
ごとごとと、けん車が揺れる。
前方の視界が開けた。
「……うわ」
思わず声が漏れた。
巨大な城壁だった。
朝靄の向こうに、灰色の壁が長く伸びている。
その内側には、尖った屋根や塔が密集していた。
煙も見える。
かなり大きな街だった。
「あれがフェルメリアです」
リゼが言った。
けん車は街道を進み、城門へ近づいていく。
周囲には他のけん車も多かった。
人間が乗っている豪華な旅客便。
牛人が引く大型の荷車。
木材を積んだ貨物便。
その側面には、それぞれ違う番号が書かれている。
『CP-1022』
『VT-1051』
碧にはどこから来ているのか分からない。
けれど、この世界に“物流”が存在していることだけは、なんとなく理解できた。
城門前にはけん車の列ができていた。
兵士らしき男が荷札を確認している。
この兵士にも犬のような灰色の耳がついている。
しかし、けん車を引いている犬人よりも頭一つ分は背が高い。
狼だろうか、目は鋭く黄色に光っている。
「ポルトヴェラ45便です」
けん車の犬人が声を上げる。
兵士は頷き、荷台をちらりと見た。
「……今月はどれも便乗が少ないな、それに少し遅い」
「秋に入って荷物多くなっちゃって…」
「……そうか、通れ」
それだけだった。
けん車は城門をくぐる。
その瞬間。
「……う」
匂いが一気に押し寄せてきた。
焼いたパン。
煙。
革。
香辛料。
湿った石畳。
人の声も多い。
商人。
荷運び。
呼び込み。
朝だというのに、街は既に騒がしかった。
「朝市です」
リゼが言う。
石畳の大通りの中央には、露店がびっしりと並んでいた。
干し肉を吊る店。
黒パンを積み上げた店。
鍋から湯気を立てる屋台。
その間を、人々が絶え間なく行き交っている。
肉は見たことのないものばかりだが、野菜はにんじんや玉ねぎ、キャベツに似たものなど、見覚えのあるものが多かった。
「……すげぇ」
碧は思わず呟いた。
耳のある人がいる。
尻尾のある人がいる。
でも、それが当たり前みたいに街へ溶け込んでいた。
犬耳の商人が客と値段交渉をしている。
牛人の男が大量の荷物を背負って歩いていく。
その横を、人間の子供が走り抜けた。
市場の奥へ行くにつれて、店の雰囲気も少しずつ変わっていく。
石造りの重たい建物が並ぶ通り。
色布を吊るした明るい露店。
話し声の響きまで、どこか違って聞こえた。
「フェルメリアって……変な街だな」
「変、ですか?」
リゼが少し笑う。
「色んな国の人が来ますから」
碧はもう一度周囲を見る。
知らない言葉。
知らない服。
知らない食べ物。
市場には妙な活気があった。
その時。
ぐう。
また腹が鳴った。
「……」
「……」
リゼが少し笑う。
「お腹すいてますね」
「そりゃ減るだろ……」
昨日から、まともに食べていない。
碧は市場の鍋へ目を向けた。
湯気が立っている。
温かそうだった。
でも。
「……なんか」
黒パンは硬そうで、スープには具がほとんど見えない。
昨日もらったパンを思い出す。
あれもかなり硬かった。
「……みんな、あんなの食ってるのか?」
「え?」
「その、パン」
リゼは不思議そうに首を傾げた。
「普通だと思いますけど」
普通。
この世界では、あれが普通なのだ。
碧は市場を見回した。
肉もある。
野菜もある。
見たこともない香草まで並んでいる。
なのに、みんな似たような硬いパンを食べている。
「……もったいないな」
「もったいない?」
「いや、なんでもない」
碧は首を振った。
その時だった。
近くの店の店主が、ちらりとリゼを見る。
一瞬だけ視線が止まる。
それから、
「あー、悪い。今ちょっと混んでてな」
と、少し困ったように笑った。
断られたわけではない。
でも、歓迎されていないことは分かった。
リゼは慣れた様子で目を逸らす。
「……行きましょう」
「え?」
「……さっき通った通りなら、もう少し入りやすいお店もあるかもしれません。あそこは獣人が多かったので……」
自然な口調だった。
碧は少しだけ言葉に詰まる。
周囲を見れば、人間と獣人は普通に同じ市場を歩いている。
けれど、どこか空気が違った。
隣にはいるのに、少しだけ距離がある。
そんな感じだった。
朝の冷たい風が、市場の布旗を揺らしていた。




