おなかがすいた
授業疲れたな。
篠宮碧は、電車の窓へ頭を預けながらぼんやりと思った。
十月に入り、夏休みが終わって一か月。
昼は大学、夕方からはバイト。
長かった夏休みの“バイト漬け生活”から、ようやく通常の生活リズムへ慣れ始めた頃だった。
車窓には、夕暮れの街が流れていく。
腹減った。
今日の従食、なに食べようかな。
スパゲッティもいいけど、夜まで働くしやっぱりドリアかな。
そんなことを考えているうちに、重たい眠気がじわじわと身体を包み込んでいく。
暖房の効いた車内。
揺れる座席。
遠くで聞こえるアナウンス。
碧は小さく息を吐いた。
「……ちょっとだけ寝るか」
そう呟いた記憶を最後に、意識は沈んだ。
◇
がたん。
大きく身体が揺れた。
耳に届く、木の軋む音。
電車じゃない。
碧はゆっくりと目を開けた。
「……は?」
見知らぬ景色だった。
薄汚れた布の天井。
荒い木板。
鼻をくすぐる革と干し草の匂い。
身体の下では、ごとごとと強い揺れが続いている。
碧は半身を起こした。
「なんだ、これ……」
そこは、人を乗せるにはあまりにも雑な荷台だった。
周囲には麻袋や木箱が積み上げられ、その隙間へ干し草を敷いて無理やり座れる空間を作っている。
どう見ても貨物車だ。
向かいには荷袋。
隣には、小柄な少女。
そして前方には――。
「……犬耳?」
思わず声が漏れた。
荷車を引いている男の頭に、茶色の犬耳が生えていた。
いや、それだけじゃない。
腕には薄く毛があり、揺れる尻尾まで見える。
コスプレ?
いや、違う。
妙に生々しい。
何より。
「……どこだよ、ここ」
窓の外に広がる景色は、日本ではなかった。
石畳の街道。
草原。
遠くに見える古い風車。
中世ヨーロッパみたいな景色が、夕焼けの下に広がっている。
「……起きたんですね」
隣から、小さな声がした。
碧が振り向くと、少女がこちらを見ていた。
白に近い淡い茶色の髪。
長い耳。
赤い瞳。
そして、その頭にはうさぎのような耳が生えている。
年齢は十五、六くらいだろうか。
耳以外は人間と変わらない。
けれど、その耳だけが現実感を壊していた。
「えっと……」
碧の口から、情けない声が漏れる。
少女は少し首を傾げた。
「大丈夫ですか?」
「いや……大丈夫っていうか……」
全然大丈夫じゃない。
だが、何から聞けばいいのかも分からなかった。
少女は困ったように笑った。
「けん車が出る直前に、急に乗り込んできたんです。ふらふらしてて、そのまま倒れるみたいに寝ちゃって……」
「けん車……?」
「荷運び用のけん車です。空きがある時だけ、人も乗せてくれるんです」
少女は周囲の荷物へ目を向けた。
「正式な乗り合いは高いので……」
そこで言葉を切り、少しだけ笑う。
碧は改めて荷台を見回した。
麻袋。
木箱。
樽。
その隙間に、人間とうさぎ耳の少女が押し込まれている。
どう考えても“客”ではなかった。
「フェルメリア行きです」
「フェルメリア……」
知らない単語だった。
いや、それ以前に。
「……夢?」
思わず呟く。
少女はきょとんとした。
「夢?」
「いや……なんでもない」
碧は額を押さえた。
整理が追いつかない。
大学帰りだった。
電車に乗っていた。
バイトへ行く途中だった。
それなのに。
なんで、こんな場所にいる?
ごとごと、と車輪が揺れる。
その時だった。
ぐう。
間抜けな音が鳴った。
碧の腹だった。
「……」
「……」
少女が少しだけ目を丸くする。
碧は顔を押さえた。
「すみません……」
少女は小さく笑うと、腰の袋を探り始めた。
取り出したのは、小さな布包み。
中には、茶色い硬そうなパンが入っていた。
少女は少しだけ迷うようにそれを見つめ、それから半分を碧へ差し出した。
「食べますか?」
「え、でも」
「私も、そんなに持ってないですけど」
困ったように笑う。
碧は一瞬ためらったが、正直、限界だった。
「……ありがとう」
パンを受け取る。
硬い。
見た目からして硬い。
恐る恐る齧る。
「っ……かっっった」
思わず声が漏れた。
少女がくすっと笑う。
「ですよね」
味も、ほとんどない。
少し酸味があるだけだ。
けれど、腹が減っていた。
空腹の胃には、それでも十分ありがたかった。
碧は黙ってパンを咀嚼した。
その時。
ふと、窓の外が目に入る。
「……あ」
琥珀色の景色が広がっていた。
夕日に染まる草原。
風に揺れる細長い穂。
一面に、黄金色が波打っている。
ススキ――。
そう思った。
だが。
「……いや」
どこか違う。
穂の形。
垂れ方。
風に揺れる重み。
碧は、思わず目を細めた。
「……米?」
その呟きは、風に消えた。
隣の少女は、不思議そうに首を傾げる。
「なんですか、それ」
「え?」
「“コメ”って」
碧は答えられなかった。
ただ、胸の奥が妙にざわついていた。
懐かしい景色だった。
なのに、誰も知らないみたいに、ただの草原みたいに。
意味の分からない世界だった。
ごとごとと、けん車が揺れる。
遠くには、大きな城壁都市が見え始めていた。
碧は小さく息を吐いた。
「……バイト、行かなきゃいけなかったのにな。休む連絡もできてないし」
ぽつりと呟く。
当然、少女にその意味は分からない。
夕焼けの風だけが、静かに吹いていた。
ここまで読んでくださってありがとうございます。
異世界で少しずつ暮らしを作っていく話を書いていけたらと思っています。
よろしくお願いします。




