プロローグ:樺太インシデント
西暦2020年8月21日 // 午前02:00
日本、南樺太
目標:ロシア人居住区、座標グリッド48.15 N, 142.7 E
気温:摂氏マイナス10度
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凍てついた尾根の上から見下ろす目標地点は、まるでデジタルスクリーンに映し出された図面だ。
東へ1キロ。夜の闇に癌のように広がるロシア人居住区の灯り。
西へ1キロ。静寂に沈むアイヌの集落『コタン』。
俺たちの任務は癌の巣の中。そして、俺たちの頭痛の種は、その隣で静かに眠る人々だった。
『こちらスペクター・アクチュアル、セントラルへ。感明度は?』
第4 echelon司令部からの声は、幾重にも暗号化され、感情が削ぎ落とされている。
「セントラルよりスペクター・アクチュアル。良好だ」俺は、吐く息が白く凍る中で応えた。
『了解。パッケージ、コードネーム『ヴァイパー』は敵性対象と確認。居住区の中央倉庫に潜伏中。これよりタイムリミットは30分。0230時までに『ヴァイパー』を確保できなければ、千歳基地より発進した部隊が作戦『クリーン・スレート』を実行する。目標ゾーンは居住区全域と心得よ』
説明は不要だった。居住区を更地にするということは、その爆風でアイヌのコタンも地図から消えるということだ。これは不測の事態などではない。俺たちを従わせるための、脅しだ。
『……失敗させる気マンマンじゃないですか。30分なんて、ふざけてる』
プライベート回線で、軽薄な声が響く。諜報と潜入の専門家、ハンゾウだ。凍てつく地面に伏せながらも、奴はどこか退屈そうに、皮肉な笑みを浮かべている。奴の最大の武器は、人の心を読み取る特殊な能力と、しばしば任務を厄介ごとにする女好きの悪癖だ。
「なら、もっと速く動くだけだ」
俺はリストバンド型のデータパッドに表示された地図を見ながら言い放つ。俺の周囲にいる男たち――俺の部隊、俺の責任。俺の視線はハンゾウから、その隣にいる筋肉の塊へと移る。破壊工作と重火器担当のシバタ。奴にかかれば、施錠された扉など、壁ごと木っ端微塵だ。その反対側には、俺たちの天才技術者にして装備担当のタクミ。すでにガジェットのホログラムに夢中で、指が宙を舞っている。
俺の、機能不全の家族。そして、この連中を率いるのが俺の役目だ。
「いいか、スペクター。作戦を伝える」俺の声は、一切の無駄を削ぎ落とした。「ハンゾウ、シバタ。お前たちが先行班だ。ゲートの見張りは二人。ハンゾウ、お前の口八丁で注意を引け。シバタ、お前が『槌』だ。警報を鳴らす暇も与えず、静かに、綺麗に片付けろ」
シバタは装甲グローブに包まれた拳を握りしめ、ゴキリ、と低い音を鳴らした。奴なりの了解の合図だ。
「俺はすぐ後ろに続く」俺は、視線を天才技術者に向ける。「タクミ、お前は空の目だ。屋上にいる四人の歩哨をマークした。先行班の突入と同時に、お前のドローンで眠らせろ。タイミングを合わせろよ」
「ええ。僕のドローンは同期、武装ともに完了です」タクミは視線も上げずに答える。その意識は、すでに目に見えないほど小さなドローンたちと繋がっている。「何も感じさせません」
「よし。合図と同時に開始する。――実行」
ハンゾウが最初に動いた。酔っぱらいが次の酒場でも探すかのように、ゲートハウスの明かりの中にふらりと姿を現す。「Эй, товарищ,」奴は舌の回らないロシア語で警備に声をかける。「Огоньку не найдется?(よう、旦那。火、持ってないか?)」
一人は面倒くさそうに手を振ったが、もう一人が怪訝な顔で半歩踏み出した。
シバタにとって、その隙だけで十分だった。
コンテナの完全な闇から、人ではなく、影そのものが滲み出す。左手が二人目の口を塞ぎ、驚きの声を圧殺する。右手が頭を掴む。ゴキリ、と生々しい骨の砕ける音。異変に気づいた最初の警備兵が目を見開くが、その口が悲鳴を上げる前に、シバタの巨体が彼に襲いかかり、寸分違わぬ無慈悲な動きを繰り返した。二つの体は音もなく凍てつく地面に横たえられた。ゲートは確保された。
スコープ越しに、屋上の歩哨四人の熱源が白く光るのを確認する。「タクミ、やれ」
ディスプレイ上で、蜂のような小型ドローンが四機、軒先から離脱した。木の葉が舞うよりも静かに降下する。最初の一機の背後で、微かな青い火花が散った。マイクロテーザーが突き刺さる。男の体は硬直し、全身の筋肉が痙攣する中でライフルが手から滑り落ち、甲高い音を立てた。その音が響く前に、残りの三人も完全に同時に硬直し、操り人形のようにその場に崩れ落ちた。
俺たちは居住区のぬかるんだ道を、亡霊のように進む。倉庫の電子ロックはタクミが10秒で解除した。突入、制圧。長年の訓練で磨き上げられた、流れるような暴力のバレエ。
いた。部屋の中央、椅子に縛り付けられ、頭に袋を被せられた人影。
「パッケージ確保だ!」静寂を破り、シバタの野太い声が響く。「大した運動にもならなかったな、同志諸君!」
「頼むよ、シバタ」ハンゾウはやれやれと肩をすくめ、拳銃をホルスターに戻した。「お前が『運動』したら、この建物はクレーターになる。これはフィネス――技巧ってやつさ」奴は捕虜に気取った足取りで近づく。「さて、俺たちが命がけで引っ張り出した『大物』の顔を拝むとしようか……なあ、タクミ、新記録じゃないか?」
「突入から12分47秒」タクミは部屋の設備をスキャンしながら、興味なさそうに答えた。「僕の計算より9秒のロス。シバタの足音が想定より大きかったせいです」
「なんだと、この機械オタク!」
「そこまでだ」俺の一言が、いつもの口論を断ち切る。「IDを確認して撤収するぞ。ハンゾウ、袋を取れ」
ハンゾウは芝居がかったお辞儀をすると、「ご苦労性の親父殿の仰せのままに」と軽口を叩き、男の頭から袋を乱暴に引き抜いた。
部屋の空気が凍り付いた。
そこにいたのは、アイヌの活動家、田中 賢治 (たなか けんじ) だった。顔は痣だらけだが、見間違えるはずもない。
「……レイ」ハンゾウの声から、先ほどの余裕が消え失せていた。「こいつはスパイじゃない。政治犯だ。……心を読んだ……二日前に拉致されたらしい。ここで殺して、ロシア人のせいにする筋書きだったんだ」
裏切り。その言葉が、物理的な衝撃となって俺を襲った。
ミッションも、『ヴァイパー』も、F-35も、全てが嘘。
政府が認可した、口封じのための暗殺。そして俺たちは、使い捨ての駒。
腹の底に、氷のように冷たい怒りが湧き上がる。俺は感情を完全に殺した声で、司令部に通信を入れた。
「セントラル、こちらスペクター・アクチュアル!作戦は中止だ!繰り返す、『ヴァイパー』は誤認!こちらは民間人、日本国籍の拉致被害者を確保した!『クリーン・スレート』を中止せよ!中止せよ!」
返ってきたのは、ノイズだけだった。
俺は倉庫を飛び出し、空を睨んだ。
そこに星はなかった。低い雲を突き破って姿を現した、二機の捕食者のシルエット。骨の髄まで響くような、低いエンジン音。F-35JライトニングII。
奴らのウェポンベイは、開いていた。
待機しているのではない。攻撃態勢だ。
先導する機体の翼の下で、閃光が迸った。ミサイルが、俺たちを的確に捉え、炎の槍となって突き進んでくる。
「――対地ミサイルだ!伏せろォッ!」
俺の絶叫は、爆音にかき消された。
世界が、全てを焼き尽くす純白の熱量に変わる。最後の感覚は、焼けるような熱さではなかった。爆発の中心で、ありえないほどの力によって、存在そのものが引き裂かれ、そして繋ぎ合わされるような、冒涜的な感覚だった。
そして、光だけが残った。




