第3話 【伝播の試行】第1話「伝播の手触り」
【記録:伝播実験・第1回】
場所:駅前広場。
人波。誰も立ち止まらない。
カノジョはベンチの隙間に、小さな紙片を挟んだ。
手書き。『0612』。
――夕方、確認に行く。
紙片は消えていた。清掃員が捨てたらしい。周囲に落ちていたゴミと一緒に。
【記録:伝播実験・第2回】
場所:図書館の閲覧室。
古い小説の、百ページ目と百一ページ目の間にメモを挟む。
『ここに、誰かがいた。』
一週間後。
その本は返却されていた。メモは挟まったまま。誰も開いていない。ページの折り目も、新しい傷もない。
【記録:伝播実験・第3回】
場所:公園のベンチ。いつもの場所。
ペンで、ほんの小さな傷をつける。目を凝らさなければ見えない。かすかな線。
翌日。
その傷は、別の傷に上書きされていた。子供の落書き。いたずら書き。誰かの名前の一部。カノジョの線は、その下に埋もれていた。
【記録:伝播実験・第4回】
場所:――
カノジョは、その場所を覚えていない。
データも残っていない。自分の記録にもない。
ただ、指先だけが覚えている。いつもと違う熱。いつもと違う震え。
(そこは、どこだった)
思い出せない。
でも――その場所だけは、「何か」が違ったような気がする。
【記録:伝播実験・第5回】
場所:地下鉄の駅構内。
自動券売機の横。誰もが通る。誰も見ない。
カノジョは小さなシールを貼った。『0612』。
三時間後。
シールは剥がされていた。機械の定期メンテナンス時に、清掃員が剥がしたらしい。
【記録:伝播実験・第6回】
場所:誰も通らない路地裏。
壁の隅。雨が当たらない場所。
カノジョはペンで『0612』を刻んだ。
一ヶ月後。
その壁は、新しい広告に塗り替えられていた。
【記録:伝播実験・第7回】
場所:――
カノジョは、その場所も覚えていない。
データもない。記録もない。
ただ――指先の震えだけが、その場所の「形」を覚えているような気がした。冷たくて、湿っていて、それでいてどこか温かい。
(あそこは、きっと――)
カノジョは、自分の観測記録を開いた。過去の記録。石の傷の主。レコードのノイズの主。場所に漂う匂いの主。焼き物のひび割れの主。
(みんな、自分の震えを何かの形にした。遺した。届くかどうかはわからなくても)
でも――カノジョのそれは、どこにも届かない。拡散する。消える。誰の記憶にも残らない。
(なぜだ)
彼女は自分の指先を見た。震えている。その震えは、誰かから受け継いだものだ。誰かに届けるべきものだ。なのに――届かない。
【記録:伝播実験・第8回】
場所:路上の公衆電話。
今はもう、ほとんど使われていない。
カノジョは受話器を取った。ダイヤルはない。数字のボタン。『0612』。
誰も出ない。音声案内もない。ただの無音。
(届かない)
カノジョは、その場にしゃがみ込んだ。
指先の熱が、少しずつ冷めていく。誰にも届かない。どこにも残らない。自分の震えは、ただの「ノイズ」で終わるのか。
(違う)
沙織の言葉が蘇る。
「描かないと、忘れてしまいそうだから」
(彼女は、描いていた。線にして、影にして、形にした。誰にも気づかれなくても。誰も見なくても。ただ――描かずにいられなかったから)
カノジョは立ち上がった。
(私は、何を遺したいのか。誰に届けたいのか)
答えは出ない。でも――その「出なさ」を、もう怖いとは思わなかった。
(場所じゃないのかもしれない。方法でもない。ただ――)
彼女は歩き出した。行き先は決まっていない。でも――自分の足で歩いている。それだけで、よかった。
【記録:伝播実験・第9回】
場所:――
カノジョは、その場所も覚えていない。
でも――その時に、初めて「伝わる感触」があった。
誰かが、彼女の震えを受け取った。その人の指先に、かすかな熱が移った。それが、カノジョにはわかった。説明できない。でも――確かに、そこにあった。
カノジョは、自分の指先を見た。
まだ、熱い。
(誰かが、受け取った。私の震えが、誰かに届いた)
それが、最初で最後の「伝播」だった。偶然か。必然か。わからない。でも――その「わからなさ」が、彼女の中に確かな手応えを残した。
(この感触を、もう一度)
カノジョは、次の場所へ向かった。
【記録:伝播実験・第10回】
場所:――
カノジョは、その場所を覚えている。
街はずれの、小さなカフェ。
誰もいない。窓際の席だけが、少しだけ温かい。
(ここは――)
沙織と過ごした場所だ。あの日、沙織はここでスケッチを描いていた。何も言わなかった。ただ、そこにいた。
(ここなら――)
カノジョは、その席に座った。
(音が、沈まない)




