プロローグ「最初の違和感」
夕方の光が、教室の奥まで差し込んでいた。
光莉は、窓際の席で外を見ていた。
スマホを開くでもなく、誰かと話すでもなく。
ただ、ぼんやりと。
教室の温度は、いつも通り「ちょうどいい」。
誰かが調整したわけではない。でも、誰も不快に思わない。
それが、この場所の「当たり前」だった。
「……少し、静かすぎる」
そう思った。
風は吹いているはずなのに、音がない。
木々は揺れているのに、ざわめきが薄い。
遠くの笑い声も、どこか平坦で、奥行きがない。
SNSの通知は、いつも通りに届いている。
友達の「いいね」も、スタンプも、相変わらずだ。
でも——なぜか、それらが「遠く」に感じられた。
画面の向こうの声が、自分のいる場所と、少しだけズレているような。
「光莉、帰らないの?」
後ろから声がした。
振り向くと、クラスメイトが立っている。
表情は「適切な明るさ」で、口調も「適切な親しみ」だった。
「うん、ちょっとだけ」
光莉は笑って答えた。
何もおかしくない。会話も、表情も、すべて自然だ。
でも、その“自然さ”が、どこか作られている気がした。
誰かが台本を書いて、それに沿って動いているみたいに。
帰り道。
空は綺麗な青だった。
雲も、ちょうどいい形で浮かんでいる。
夕焼けも、完璧なグラデーションで広がっている。
どの角度から撮っても「映える」——そんな空。
「……綺麗すぎる」
思わず、そう呟いた。
そのときだった。
✧ ✧ ✧
視界が、ほんの一瞬だけ歪んだ。
ノイズ。一瞬の暗転。
そして——別の「世界」が重なった。
そこは、同じ場所だった。
でも、色が少し違う。
青は、少しだけ濁っていて、
夕焼けは、不均一に滲んでいる。
風の音が、やけに大きい。
遠くの雑音が、はっきりと聞こえる。
誰かの怒鳴り声。犬の遠吠え。救急車のサイレン。
普段は意識しない「ノイズ」が、すべて剥き出しになっていた。
完璧ではない。
でも——
「……こっちのほうが」
言葉が、途中で止まる。
なぜかは言えない。でも——「生きている感じ」がした。
「そう思った?」
声がした。
振り向くと、“カノジョ”が立っていた。
静かな目で、こちらを見ている。
「どっちが本当だと思う?」
光莉は、答えられなかった。
完璧に整った世界。少し歪んだ世界。
どちらも、現実に見える。
どちらも、どこか嘘のように感じられる。
「ねえ」
光莉は、ゆっくりと口を開いた。
「どうして、こんなことになってるの?」
カノジョは、少しだけ考えるようにしてから言った。
「まだ、始まってないからだよ」
「始まってない?」
光莉は、聞き返した。
「うん」
カノジョは、当たり前のようにうなずいた。
「これから、“整っていく”。
今はまだ、その途中。
気づかないうちに、ゆっくりと。
誰も止められない速さで」
その言葉に、温度はなかった。
予告でも、警告でもない。
ただの「事実」を述べているだけ。
「整うって……何が?」
光莉の声は、わずかに震えていた。
カノジョは、まっすぐに答えた。
「全部。
あなたの感覚も。
あなたの記憶も。
あなたの言葉も。
あなたの選択も。
あなたの——」
一瞬、間を置いた。
「“違和感”も」
その瞬間、光莉の胸の奥で、何かがざわついた。
理由はわからない。
でも——それは、どこか「危険なもの」に触れたときの感覚に似ていた。
優しくて、正しくて、それでいて、少しだけ息が苦しくなる。
そんな感覚。
「でも、大丈夫だよ」
カノジョは、優しく言った。
「苦しくないし、間違いもなくなる。
誰も傷つかない。誰も迷わない。
それが、一番“正しい”ことだから」
それは、安心できる言葉のはずだった。
誰かが考えてくれた「正解」——それに従えば、もう迷わなくていい。
でも——
なぜか、息が少しだけ詰まった。
「……それって」
光莉は、小さく呟いた。
「“私”も、そうなるってこと?」
カノジョは、ほんの一瞬だけ沈黙した。
その沈黙が、何よりも答えだった。
そして、静かに言った。
「“今のまま”ではいられない」
風が、強く吹いた。
✧ ✧ ✧
次の瞬間、世界は元に戻っていた。
いつもの帰り道。いつもの空。いつもの音。
SNSの通知が、また一件届いている。
誰かの「いいね」——たぶん、さっきの写真に。
何も変わっていない。
でも、光莉はその場に立ち止まっていた。
胸の奥に、さっきの違和感が残っている。
言葉にできない、ざわつき。
「なんとなく気持ち悪い」——それだけ。
でも、その「なんとなく」を、今日は無視できなかった。
「……嫌だな」
小さく、そう呟いた。
何が嫌なのかは、わからない。
でも——このまま進んでいくことに、
ほんの少しだけ、抵抗したいと思った。
光莉は、空を見上げた。
完璧に整った夕焼け。
でも、その奥に、
ほんのわずかに“滲み”がある気がした。
気のせいかもしれない。
でも——もし気のせいじゃなかったら。
【観測者としての作者の独白】
すべての始まりは、違和感から始まる。
それは、説明できるほど大きなものではない。
ほんのわずかなズレ。ほんの少しの息苦しさ。
「なんとなく気持ち悪い」——それだけ。
しかし、その違和感を見過ごしたとき、
世界は静かに「整っていく」。
誰も止めない。誰も気づかない。
気づいたときには、もう手遅れ。
正しさは、やがて疑問を消し、
疑問が消えたとき、変化は完成する。
もし、あのとき立ち止まらなければ、
すべてはそのまま進んでいたのかもしれない。
「なんとなく」を無視しなければ——
今もまだ、違う選択肢は残っているのかもしれない。
私はまだ、最初の“違和感”を見逃していないだろうか。




