8
ようやく秋物の薄手のコートを出した頃には、ハルは「おかえり」と「いってらっしゃい」を言ってくれる人になっていた。
ハルは莉子の隣で眠る。
触れることができないにも関わらず、横で眠る人がいることが不思議で、ハルが寝たのを確かめて髪を梳くようになでてしまう。毎回「やっぱり無理か」と思いつつ、ハルの寝顔を眺めて自分も眠りにつく。夜中に起きると、ハルは、いない。早朝戻ってきて、莉子を起こす。
ハルは、陽が高い間、出てくることはない。陽の光が苦手なのかと思って、部屋のカーテンを閉めている方がデフォルトになった。もとより、朝出社してから夜遅く帰って来る生活が続いていたため、カーテンが開くのはもっぱら休みの日のみだったのもあって、不自由さもなかった。
納期やイベントが重なって、休日出勤が続いていたため、近頃は、カーテンを開けることもない。
見慣れたカーテンをそろそろ変えようかと思う頃、ようやく莉子の代休の順番がやってきた。部署内で繁忙期の代休を順に取っていると、お子さんの学校行事や家族の予定などを優先する人から取得するため、莉子の順番は、その合間を縫って取っていると、いつも最後の方になる。
「若くもないし、と言って落ち着いたって年齢でもないし」
「なぁにぃ?その、覇気のない羅列」
ランチの時間も先方次第で時間がずれ込んでいたため、葵と一緒にゆっくりと話をしながらの社食も、ずいぶんと久しぶりだった。
「今週、やっと代休取れるんだよ」
「やったじゃん。何する?予定立てたの?」
「部屋でのんびりする」
代休と土日を合わせた三連休が取れたのだが、莉子の体力では部屋で養生するのが一番と踏んでいた。
「やだぁ、三日間もぉ?」
「ちょっと前まで、一日部屋に居ることなかったからさ、この二週間ほどやっと日曜日だけ休めるようになったのに、ぜんぜん、部屋の中のことする気分になれなくって。色々と溜まってるんだよね」
「その気持ちは、分かるけどさぁ。三日もぉ?本当にぃ?」
ゴミを見るような目つきでそれをとがめる葵の表情に根負けして、莉子は次の質問を投げた。
「葵は、これから年末にかけて忙しくなるんだよね?」
「そうねぇ。例年だと、そうなるね」
「二人そろって、仕事が落ち着いてる時期なんて久しぶりだし…どっか、行く?」
「それ賛成。莉子は、部屋から出ろ、出ろ」
主に莉子のことを思って言っている葵のこういう命令には、莉子も素直に聞き入れるようにしている。
「じゃ、一緒に出掛けてください」
「良い心がけだねぇ」
あからさまに偉そうに言う葵に笑って、莉子もおどけて返した。
「あれ、葵さん、休みの日に会う彼氏はいないの?」
「お互い様。それに、今は樋口さん狙ってるから、他は良いの」
葵のまっすぐな言葉は、聞いていてスッとする。男を狙うそれを堂々と宣言できる人生ってどんな感じかなぁとも思って、莉子は葵を見た。
「あれ、わりと本気なんだ」
「そうよ、虎視眈々と。で、金曜にする?土曜にする?」
「ちょっと待って…あ、金曜は、まだ、残務ある…かも…。土曜日だね。葵の都合は大丈夫?」
「良いよ。土曜日、休みで予定ないし。ね、せっかくだし、午後から買い物とか行こうよ。で、飲んで帰る。早く切り上げた方が良いでしょ、莉子、最近、体力ないから」
「…やっぱり…そう思う?」
「なんか、顔色悪くない?」
「自分でも薄々思ってたけど。他人が見てもそうか…。連勤はきついよねぇ、若くはないんだし」
「…そういうことなのかなぁ。でもさぁ、春にもあったじゃん、莉子の部署の繁忙期。その時も似たり寄ったりな勤務状態が続いたけど、その時と比べるとさあ、なんか、違う気がして。ほら、夏の終わりに倒れて二日ほど寝てたことあったでしょ。あの後から…かな…」
「…ああ、春ね。そう言われると…」
「でしょ。で、倒れた後の体調どうなの?」
「まあ、普通。…年取ったのかな」
「やめて~。まだ、ぎり二十代なんだから。自発的にそういうこと言わない」
「はいはい、おかあさん」
「だからさぁ、自分でおばさん認めないの」
「今のは、葵へ向けての、だよ」
「同期に言ってんだから、自分にも言ってるようなもん」
「はいはい。んじゃあ、明日のランチの時に、土曜の予定立てようよ」
「明日もランチ、来れそう?じゃ、明日、お昼に。おつかれ」
「はぁ~い、おつかれさん」
社食の入口で葵と莉子はそう言って別れた。
致し方なく…そう思わなくもないけれど、実際に休みの日を外で過ごす予定が入ると、わずかに心が浮き立った。
何を買おうか、久々に雑誌でも見て、欲しい物を妄想するのも良いかな、通販サイトもついでに覗いて、靴は履いてみないと買えないから、靴にしようかな…そんな取り留めもないことを考えて、莉子も午後の仕事へと戻って行った。
待ち合わせ場所で葵を待っていると、ふいに隣にやって来た樋口に、莉子は驚いた。
「…こんにちは」
「どうも、莉子ちゃん」
愛想の良い表情で、そう近寄ってきた樋口を、莉子は不思議に思った。
「今日は?」
「あ、ひょっとして…聞いてない、のかな?」
そう言って続けた樋口の話によると、葵に誘われたのだと言う。
「…お邪魔じゃない?私…」
何も聞いていなかったことにムッとしつつ、莉子がそう尋ねると樋口は曖昧に笑う。
「あ、莉子、待たせた?」
そう言って近づく葵に、自分の体で隠しながら樋口を指差し『どういうこと?』と莉子は口を動かした。すると、葵はそれを無視してニヤっと笑って言った。
「お待たせ、樋口さんも」
「葵ちゃん、莉子ちゃんに言ってないでしょ、僕が来ることを」
「ごめん、でも、人数多い方が楽しいし」
「女の買い物に付き合うっていう男の人、私、あんま知らないよ」
質問がスルーされたことに内心ムカつきながら、莉子がそう言うと、
「でも、樋口さんも今日この辺に買い物来る予定だったんだって。時々別行動で、休憩とか一緒にしたりして、最後はご飯食べて帰ろうよ」
悪びれもなく、葵がそう返してきた。
「なんか腑に落ちないけど…」
「まあまあ、葵ちゃんが言うように、人が多い方が楽しいし。それに、荷物持ちだと思ってくれたんで良いから」
少しばかり悪くなった空気を払うように、樋口が明るい口調でそう莉子へと言葉を落とした。
「樋口さんがそれで良いなら…よろしくお願いします」
「今日、車で来たから、荷物増えたら乗せて帰ってあげるよ」
「そうですか」
そこまで世話になるわけにはいかない、そう莉子は思って、なるべく必要な物以外は買わないことに決めた。樋口が来ることを事前に告げない葵への意地のように、その決意を固めた。
そんな莉子の心とは裏腹に、三人での買い物は楽しく過ぎた。
葵のいつもは見せない表情も楽しめた。樋口を狙っていると断言するだけのことはあるなと、莉子は思う。自分もいつか、あんな風に赤裸々な態度を誰かに取ってみたいものだと。
買い物に疲れて、近場にある大衆居酒屋へと早めに入ったのは六時前だった。
「こんな時間に食事ができるなんて、なんだか、奇跡だよ」
そんな大げさなことを言う樋口に笑って、三人で乾杯をした。
歩き疲れたけれど、充実した午後の後のアルコールは体に馴染みやすく、莉子はいつもより早くほろ酔いとなった。それは、樋口も葵も同様で、二人のこれからの進展を想像しやすくもした。それに、莉子は喜んでいた。自分を出汁にしたのだから、結果は出してほしいのだ。
そんなことを思って、ぼんやりと酒のメニューを見ていると、店員がラストオーダーを告げに来た。混雑する場合は二時間ほどでラストオーダーを取ることを入店時に告げられていた。これで楽しい休日の終わりがやってきてしまった。莉子は手元のメニューを見ながら、そんな感傷を抱いた。
三人が好きなものをそれぞれ一杯ずつオーダーした後、樋口がおもむろに切り出した。
「あのさ、今日、葵ちゃんに無理言って誘ってもらったのは、僕の方なんだ」
「え?」
てっきり葵からだと思い込んでいた。莉子の表情を見て、葵も少し笑う。
「そう思ってるんだろうなって、思ってたよ。」
葵がそう話す様子を、莉子は小さな痛みを持って聞いた。
「初めに言ってよ…」
不機嫌にそう言う莉子に、樋口が再び重い口を開ける。
「こんなこと言うと、あれだけど…。ね、莉子ちゃんて、ここ数か月、ずっと体調悪くない?」
「ん?」
今日のこの日、ここに誘われたのはこれから始まる話のためか…、樋口の言葉で、そう莉子は悟る。
「体調…葵にも、この前、言われたよねぇ。自分では、多少だるくて化粧のりが悪いってことは感じてたんだけど…」
「あの日は、そんな風に言ったけど、あんたの顔色、マジでヤバイから」
「そう?」
「なんていうか、どんどん…ね」
「自分じゃ、分からないものねぇ…」
莉子と葵のやり取りを見ていた樋口が、ラストに注文した飲み物を一口含んで口を開く。
「莉子ちゃんが倒れた日、車で送って行ったよね」
「ええ。その節は…」
「いやいや。そういうことを強要したいわけじゃなくて。…僕、勘が良いんだよ」
「はい?」
あまり楽しい話ではなさそうだ、そう莉子は感じて、ラストオーダーで注文した焼酎のお湯割りに口をつけて葵に目を移した。
「莉子。樋口さん、からかってるわけじゃないのよ」
莉子に見つめられて、葵が少しのバツの悪さと共に、そう樋口をフォローしている。その雰囲気を見ただけでも、自分がはめられたように思えて、先ほどまで満ちていた休日の充実感とは対極の居心地の悪さを莉子は感じる。
「ただ、勘が良いっていうだけだから、何の効力もないんだ。それでも…関わったら心配になる」
そこで樋口はふぅっと息を吐き出した。
「葵ちゃんとは、入社する前からの知り合いなんだ。僕のこの胡散臭い勘のことも知っててね。莉子ちゃんから、気になる…とっても気になる気配を、僕はあの倒れた日よりも前から感じていた。葵ちゃんの友達だっていうし、無視できなくてね。あの日も、自分でドライバーを買って出た」
「…それで?」
何か追い詰められているように莉子は感じていた。だから、余計に居心地が悪い。樋口のその同情めいた目線は、莉子を苛立たせる。
「莉子ちゃんには、何かが憑いている」
そう断言する樋口を、莉子は笑い飛ばそうとして、できなかった。
「そっか、自覚あるんだ」
それを見た樋口が、少し驚いて、安心したような表情になった。
「自覚あるんだぁ、莉子」
多くの説明を求めず、そのくせ話についてくる葵を見て、葵なりに分かっていて、今日を迎えていることを確信して。
「何のことですかって言うタイミングを、葵に完全に塞がれちゃった」
さっきまで感じた苛立ちを投げるように、莉子は葵にそう言った。
「まじで」
あえて、葵はおどけてそんな風に答える。
「自覚があるようだから言うけれど、悪いものではないと思うんだよ。…だけど、莉子ちゃんの傍らに留まる理由によっては悪化しうる、と思う。今は何も不便はないだろうけれど。体力はもってかれてるんだから、それって一つの問題だろう。生きる力って、食べたり飲んだりの体力だから、無気力と惰性で現状維持していると心配だな。このまま見て見ぬふりをすると…最悪は、莉子ちゃんの生きる力がなくなるその時まで、搾り取られて終わり。そして、莉子ちゃんが居なくなってもそれは存続しうる。拠り所を他の者へと変えてね」
樋口の言うそれは、ハルのことだと、莉子にも分かる。分かるが、莉子は、納得はできない。
一度、部屋の入口に立っただけで、何かあると分かったという樋口のその言動を疑うわけではないが。
「そう、なんですね…」
ハルのたたずまいと表情が脳裏に浮かんで、樋口の言葉が頭の中の表層で漂った。
「…莉子ちゃんの何かに丁度良いのだと思う。じゃないと、居心地が悪ければ、それは離れて行くだろうから」
「正直、あれが、悪いものだという感覚が持てません…」
ハルを指すのに『あれ』と呼ぶ状況が、莉子はイヤだった。名前をこの場で明かすのもイヤで。それ以上、言葉が続かない。
莉子のその様子を見て樋口は答える。
「そうだろうね。今日も買い物に付き合いながら、莉子ちゃんを僕的な価値観で診させてもらったけど、悪影響はなさそうなんだ。憑いてはいるけど、莉子ちゃんにとって、それが悪い物ではない…。莉子ちゃん次第でもあるわけ。…だからこそ、心配なんだ」
そこで樋口は、射るような目つきを、一瞬、莉子に向ける。
その表情に訝しみつつ、莉子は樋口を伺う。
「あっちへ流されてはダメだよ」
そう言って、樋口は凪いだ瞳で莉子を見つめた。
一人になりたいから…と、二人を振り切って、莉子は駅へと飛び込んだ。
落ち着くと、先ほど告げられた樋口の言葉が頭を廻った。
ハルと一緒にいると、穏やかに過ごせる。そこに身を任せていては、ダメだと樋口は言っているのだろうか。
ゴーッと通り過ぎた快速電車が、消えゆく先を見つめながら莉子は思う。
部屋に戻ればハルがいる。
そのハルの隣では、今夜聞いた樋口の話が霧散しそうで。
ガタンガタンと揺れる車内でも、何一つ、結論めいたものが降りては来なかった。
到着した駅から莉子の住むマンションまでの道々、薄く光る星を見上げて莉子は足を止めた。
これから使えそうなセーターを一枚、今日、買って。冬が深まる季節を楽しんで。そういう気持ちが廻ってきたことに、心躍っていたというのに。最後のお話があれでは、ちょっとなえる。樋口に文句を言いたくなる程度に、気持ちは戻ってはいたが。
帰宅する足が重く感じる。
帰ればハルがいる。
誰かと寄りかかり合うような距離感は好きではない。
普通に誰かを恋しく思ったり羨ましく思ったりしながら生きていたのに。
感情を拾えない、今の自分を持て余していた時にやってきたハル。
「ただいま」と告げる声や表情が心に沁みる。
責任もなくただ受け入れれば良いだけの関係だと思う。
だからこそ、その存在に心置きなく添えるのだと思う。
でも。
―流されてはダメだよ。
その言葉が、とぷりと莉子の心に沈み込んでいった。