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あの男は何者なのだろう。
ハルは、見える見えないに関わらず、誰にでも話しかけているようなので、その辺の判断を聞いたとしても、あてにはならない。
ただ、約束したことを、ただの口約束だとしても、できないことではないのだから、やってみようと思っただけのこと。
あの男と初めて会った翌週の買い物帰り、ふと、その街灯の下で足を止めた。
いつも通り、人通りはない。
さっき、学生服を着た少年の乗った自転車が通り過ぎたくらいだ。
あの男は、今の莉子には見えない。
この辺りに顔があって目があったような気がする場所を少し眺めてみたが、何も見えてこない。もしかしたら、今は居ないのかもしれない。そう思った後で、ビリビリとした感じが、前回より弱いように思った。
樋口の置いた石ころはすぐに手に取れた。
輝いているが、少し重みのあるどこかの河原に在りそうな、ただの小さな石だと思った。
石を拾い上げた所で、例の静電気のような感じが強まった気がしたが、そのまま、緑の置物に手を伸ばした。
ぴりっとした弾けるような感覚の後、手に取ったそれを持ち上げた時だった。
ビシッ。
それまでとは打って変わって、圧倒的なプレッシャーを感じた。
ぞっとして、一歩後ろに引くと、ごうっと強風が吹きぬけて莉子を道路へと押し倒した。
その圧迫感が苦しくて、体をバタバタと動かした時、手に握り持っていた緑の置物がつるっと滑って、莉子から前方の空間へと飛んだ。
ビシッ。
まるで何かに当たったようだった。
緑の置物は、すり抜けた先の空間で、二つに割れて消えた。
驚きながらも、ようやく動かせるようになった体を起こして、莉子は走った。
ローヒールを選んだ今朝の自分を褒めてやりたいと、自分のラッキーにほくそ笑んで、全力で走る。そして数分で、自分の体力が底辺だったことを痛感する。
莉子の住む古いマンションを目前にして、息が上がってしまった。
「はぁはぁはあぁ…。毎日ちゃんと三食摂らないとって、葵にバカにされそう…」
それでも、自分のテリトリーに戻った安心感で、気が緩んだ莉子は立ち止まってそんなことを言っていたのだが。
「リコ、あぶない!」
いつもは、部屋から出た所では見かけないハルが、全力で部屋のベランダから莉子の方へと飛び降りてくるのが目に入った。
「ハル…?」
ハルの目線を追うと、ゴミや枯葉を巻き込んだ一陣の風が、莉子へと向かってきているのが見えた。それでも、ハルが必死の形相で、こちらに向かっている原因が何かは、莉子には見当もつかない。そのゴミを巻き込んだ小さな竜巻風の突風は、直撃されるとヤダナという程度のことを思ってはいたけれど。
「リコ!」
ハルの強い声と同時に、びちゃっと頭から何かが降ってきた。
「…ハル?まさか…」
風が目前で威力を失い、それに巻き込まれていたゴミや枯葉や色々なものもその場所で失速した。
「牛乳攻撃!」
空になった一リットルパックを持ったハルが、誇らしげにそう莉子へと言う。
「牛乳…」
頭から、牛乳をかぶった状態の莉子に追い打ちをかけるかのように、枯葉やゴミがハラハラと舞い落ちてきた。
ハルが放った牛乳は、みごとその風の原因となった男へと命中していた。
それは、ハルの意志と同期していて、莉子を助ける方に働いた。
後で分かったことだが、男は、すでに悪霊化した地縛霊だった。
樋口は、除霊鎮霊目的で清められた物を、男の元に置いた。
莉子が会った時の男は、清められる途中の姿だったようで、子どものハルにも幽霊初心者の莉子にも、男は普通の状態に見えてしまった。
そもそも、霊か人間かの区別もできない状態なのだから、莉子に悪霊かどうかの差異が分かるはずもなく。
男が、除霊鎮霊の用途で樋口が置いたものをどうにか取り払おうと躍起になっていた時にやってきたのが、莉子とハルだった。
まんまとひっかかったと言うか、利用されたというか。
中途半端に清められた魂は、莉子によって邪魔な物が取り払われた途端、悪霊化がリバウンドしたように暴走した。
見えなかった莉子には幸いで。もう人間の姿は保てず禍々しい塊となって莉子の命を食らおうとしていた。
ハルと一緒に過ごしているせいで、莉子の魂もまた中途半端だ。
彼らにとって処しやすく魅力的に見える莉子の魂を前に、その暴走が加速した。
ハルが居なければ、莉子はあの禍々しい魂の一部となって、闇の中へと入っていたのかもしれない。
でも。
「牛乳、くさい…」
牛乳を頭からかぶった莉子は、とても悲しい気持ちになる。
他にやりようがあったんじゃあなかったの?そう思う莉子を見て、ハルは陽気にケタケタと笑っている。
ふとそのハルを見ていた莉子は気づく。
「あれ、ハル、背がまた伸びた?」
手を伸ばして、頭の位置を確認する。
「そう?」
「やっぱり。すごいね、こんなに伸びるものなの?」
初めて会ったハルは、小さな小さな子どもだったのに、今は莉子の脇に背が届く勢いだ。部屋に戻って確認してみるけど、確か、あの頃のハルは、冷蔵庫の取っ手のあの辺りに頭があったはずで…。
「はははは」
ハルはまだ笑っている。
「そんなに、牛乳かぶった私が面白い?失礼ね」
「だって…」
それ以上言葉が続かないような、ツボに入ったような笑い声が続く。
「もういい。帰って、お風呂入ろう…」
ハルの笑い声を後ろに、莉子はトボトボとエレベーターのある方へと歩みを進める。
「あ、そうだ、今日はお散歩行かないからね!」
普段、外でハルと接していないせいで忘れていたが、ハルは他の人には見えないのだ。そのハルに向かって大声を上げてしまった。
気づいた時には、エレベーターから降りてきた少し年下の女性から、痛い目線を向けられた。それに気づいて、莉子は大きなため息を吐き出す。
ローヒールで正解って思っていた、少し前の自分が笑える。
「…はぁ」
力なく笑う莉子を見て笑いが止まらないハル。
それを一瞥して、莉子は諦めたようにエレベーターに乗り込んだ。
もう二度とあんな霊にひっかかってやるものか!
莉子は誰にともなく、そう、強く決意したのだった。




