第三十三話 すべての策略はこの日のために(二)
「廊下は走らずに歩きなさい」
普段は生徒達にそう注意している明美であるが、足の動きは早い。
辛うじて教頭という立場が足の裏を廊下にしっかりと踏みしめる行程をさせている。
「これは走っているのではなく競歩です」
早い動きを咎められても否定できる理由も用意している。
明美が探しているのは麻雀部顧問の立花直。彼女が三十分前に見せた土下座は自分を欺くための演技と確信している。
幸いにして誰かにぶつかることも咎められることな、明美は直を見つける。
最初に狙いをつけた麻雀部部室に彼女がいたのだ。
「あれ、教頭先生としてまだまだ出るべき行事があるんじゃないの?」
意外な声を上げる直だが、目が笑っているところを見ると明美が来ることを予想していたようだ。その証拠にこの部室に生徒は一人もいない。
置かれている調理器具や材料などでメニューの下ごしらえはここで行っているのが部外者の明美にも分かる。しかし、誰もいない。
「ちょうど出来た料理を屋台まで運ばせているとことなんでね」
心の内にある明美の疑問に直は答える。これも用意していたのだろう。明美はそれにはあえて反応せず。
「私にだって少しくらいは自由な時間はあるんですよ」
笑顔で直の問いに答える。
それを聞いた直は天井を見つめ、小さく息を吐くと
「立ち話もって……立っているのはお前だけだけど……、まあ何だからこっちに来なよ」
「そうですね。じっくりとお話を伺いたいですわ」
固い笑顔のまま明美は直の隣へと迎う。
窓の外からは生徒達の屋台自慢や残暑を生きる蝉の声。廊下からは教室から出たばかりの――おそらくお化け屋敷であろう――女子生徒の安堵の声が聞こえてくるが、二人には何の感慨ももたらさない。それぞれが相手のことしか考えていないのだ。
明美が直の隣に座っても、部室の静寂とした緊張は続く。視線も交わることが無い。
直に至っては明美を無視しているだけではなく、部のシフト表に目を通している。しかも明美が座ってからその作業を初めている。 明美は視界の端にそれを捉えながらも何も話さない。
何か言おうと口を動かすのだが、暫く口を開いた後で悔しそうに閉じる。直はそんな明美にお構いなしだ。
数分間その状況が続き、廊下より女子生徒の笑いが多分に混じった声が聞こえたところで
「葵塚学園の教頭として麻雀部顧問の立花先生に質問があります」
と、明美は直の方へと体を向ける。
「そんな、いちいち立場を確認しなくてもここではいつもそうだろ」
直は視線の先を変えずに余裕をもって応える。
「人が真剣に尋ねているのです。こっちを見ていただけませんか?身体こど」
普段の明美ならば語尾に不機嫌さを加えないのだが、今回ばかりは違う。
「分かりました、教頭先生」
直は身体を明美へと向ける。
両手を膝に乗せている明美と違い左腕は机に乗せ、目を通していたプリントは持ったままだ。
まるで自分の病状を憂う患者をリラックスした雰囲気で迎える医者のように。二人の心持ちや体勢はそのように見える。
「どういうつもりですか?」
「『どういうつもりですか?』って?」
詰め寄る明美に対してほぼオウム返しの直。
「とぼけないでください。どうしてコンテストに出ているのが清水さんではなくて三石さんなんですか!?」
直は明美を見ると首を傾げ
「コンテストに出ているのは清水ではなく三石でもない。『麻雀プリティー』だぞ」
再び手にしているシフト表に目をやる。
「私は『清水一香を麻雀プリティーとしてコンテストに出場させろ』と言ったはずですが?」
「そんなの公の場で言ったことか?」
直は手にしていた紙を明美の前に差し出した。シフト表と合わせるようにして隠し持っていたもう一枚。それはコンテスト実行委員会からの立候補願い。
「ほら見ろ。ここには『麻雀プリティー』に立候補してほしいと書いてあるじゃないか」
「そ、それは……」
「公平性を保つために実行委員は『麻雀プリティー』が誰であるかを指定していない。ならばこっちが誰を『麻雀プリティー』にするか自由に選べるってわけだよな」
清水一香の名前を出さなかったことは失敗だったか、と明美は一瞬己を悔いたが、すぐに別の機会があったことを思い出す。そうそれこそが本番だったのだ。
「でも……麻雀勝負で麻雀部は負けたではありませんか! 負けたらしみ……」
「『負けたら清水一香が麻雀プリティーになる』か。残念ながらその勝負ではそちらは負けているんだよ」
「え……!?」
「私たちが負けたのはその後の勝負。負けた場合の条件は『麻雀プリティーがコンテストに出場する』そうとしか言われていない」
「そんな……」
明美は自分の記憶を呼び出す。あの日、杏子に麻雀で勝ったと報告した里美はなんと言った?
「お姉ちゃん。私たち麻雀部に勝ったわよ」
「そうね、これで私の思い通りね」
「そうだね、麻雀プリティーを立候補させないとね」
(清水一香の名前が一度も出ていない……)
唇を震わせる明美を見ながら直が追い打ちをかける。
「実行委員からも『清水一香』の名前は一度も出ていなかっただろう? 私もあの時彼女の名前は一度も言っていない」
そう、明美としては直は狼狽と落胆のあまり名前を出せなかっただけだと思っていたが、直は冷静だったのだ。
「で、でも……彼女の将来を考えてって……」
明美の呟きを聞いた直は右手で頭を抱えると
「三石は学園から『姫様』と呼ばれているんだ。そんな彼女にとって癒しの場だったんだがこんな表の場に出て麻雀部でも心休めなくなるんではないかと思ってな……」
直の言葉が口からのでまかせではないことは一香が当初杏子の立候補に強く反対していたことからも分かる。直としても一香と気持ちは同じだった。
「つまり私はあなたたちの手のひらの上でぬか喜びしていたと……」
スパイとして自分が送り込んだ二人はすでに麻雀部の側についたのであろう。
「そのとおり、お前への定期報告もこっちが都合のいいように作ったものだ。お前は自分が勝ったもんだと思って油断していた。そこと私たちが突いたんだよ」
「勝ったと思ったときから私は負けていたんですね……」
小さく自嘲の笑いを浮かべる明美。それを眺める直はコンテストにおける逆転劇までの苦労を語るつもりはない。
これから語るのは将来への展望。
「別にお前がただ負けて終わるわけではない。これから互いに勝てるようにするだけだ」
「互いに勝てる?」
明美は笑いを止めて直を見る。
「ああ……」
どこかの部が風鈴をドアか窓につけているのだろうか。直は自分の考えをまとめようと流れいる音にしばし耳を澄ます。
「『外へ出る前に足場を固める』これも重要だ。だから私は『麻雀プリティー』としてコンテストに立候補させた」
そこまで言った直は一息入れ、明美に真剣な眼差しを向けると。
「『麻雀プリティー』は『麻雀プリティー』以外の何者ではない。つまり清水はもちろん三石でもない。清水が初代。三石は二代目。三石が卒業したら麻雀部の誰かに三代目を継がせる。そう、大学には行かせない。『麻雀プリティー』はこの学園だけのものだ」
ここで直は少し首を傾げて
「うん……歌舞伎の世界で言う『何代目なんとか郎』みたいなものだなぁ……。そういう伝統的なものにしたい。そんな名物を作ったら麻雀部にもっと人が来て学園の繁栄になるんじゃないかとね」
そこでちょっと悩んでしまったら台無しではないかと明美は少しあきれるが、これまでの悔しさは全くない。
「そうですね、大名跡ってものですか。それは素晴らしい。でも仮に今の『麻雀プリティー』である三石さんがその名前を気に入ったらどうします?」
少しいたずらっぽく尋ねる明美。それを聞いた直は表情を緩めながら
「そうだなぁ……、そのときは『麻雀プリティー』の後ろにZかRをつけて独自の大学麻雀部の名物にすればいいんじゃないか」
だから名跡ですってば。と明美は笑い出す。そこには自嘲もあきれもなかった。




