第72話 帝国の冷たい視線
俺の顔を正面から見据える兵士の目は、感情というものが一切抜け落ちていた。まるで、ただの物体を検分するかのように、冷たい光を宿している。吐く息が白く濁るほどの寒さだが、この男の視線はそれ以上に肌を刺す。
「……所属は金獅子商会。目的は商業活動だ」
俺は努めて冷静に、腹の底から声を出すように堂々とした態度で答えた。ここで少しでも怯えを見せれば、奴らの思う壺だ。御者台から静かに降り立つと、懐からゲルトに渡された身分証と、アステル王国発行の通行許可証を差し出す。指先がわずかに震えそうになるのを、意識して押さえつける。
兵士の一人がそれを受け取り、無言で中身を検め始めた。カサリ、と羊皮紙が擦れる乾いた音だけが響く。その間も、他の兵士たちの槍の穂先は、寸分違わず俺たち――俺と、隣で固唾を飲んでいるライアン、そして馬車の中にいるヒルダとセーラ――に向けられたままだ。馬車の中から伝わる張り詰めた空気が、皮膚をピリピリと刺激する。
「金獅子商会……だと?」
書類を検めていた兵士が、わずかに眉を動かした。アステル王国最大の商会の名が、この帝国兵にも多少の驚きを与えたらしい。だが、それだけだった。彼はすぐに無表情に戻り、形式的な質問を続ける。
「帝国での滞在予定期間は?」
「三ヶ月ほどを予定している。取引の状況によっては延長もあり得る」
「主な取引品目は?」
「衣類、装飾品、そして特殊な嗜好品だ」
俺は淀みなく答える。嘘は言っていない。これらの質問が、ただの形式的なものであることを祈りながら。
だが、その時だった。
背後から突き刺さるような、ただならぬ視線を感じたのは。
目の前の兵士たちからではない。もっと後方から、まるで獲物を値踏みするかのように、俺たちの全てを内側から暴き立てるような、粘着質で冷たい視線。
蛇に睨まれた蛙、という陳腐な表現が頭をよぎる。肌が粟立ち、背筋を冷たい汗が伝った。'これは、ただの国境警備兵の視線じゃない。明確な目的を持った、捕食者の視線だ'。
* * *
'誰だ……?'
俺は目の前の兵士との応答を続けながら、意識の片隅で視線の主を探った。兵士たちの肩越し、少し離れた場所に、その男は腕を組んで立っていた。
黒を基調とした、兵士たちの無骨な鎧とは明らかに違う、仕立ての良い制服。しかし、それは貴族が着るような華美なものではなく、極めて機能的で、冷徹な印象を与えるデザインだ。無駄な装飾は一切なく、その男自身の存在が、何よりも雄弁にその地位を物語っていた。
年の頃は三十代半ばだろうか。痩身で、神経質そうに整えられた銀髪が、冬の弱い日差しを反射して鈍く光る。だが、何よりも目を引くのは、その氷のように冷え切った双眸だった。感情を一切映さず、ただ対象を分析し、解剖し、利用価値を算出するような、無機質な光。
'こいつが……この場の支配者か'
直感が警鐘を鳴らしていた。目の前で俺を尋問している兵士たちは、ただの手足に過ぎない。この場の空気、兵士たちの動き、質問の意図、その全てが、あの銀髪の男の掌の上で踊らされている。
俺が男の存在に気づいたのを察したのか、男の唇の端が、ほんのわずかに吊り上がったように見えた。それは嘲笑と呼ぶにはあまりにも微かで、すぐにまた無表情に戻る。
俺の隣で、ライアンが息を飲んだのが分かった。彼もまた、あの男の異質さに気づいたのだろう。俺たちは視線を交わさない。だが、互いの緊張は痛いほど伝わってきた。
'この尋問は、ただの入国審査ではない。俺たちは、すでに何者かの明確な『意図』の対象になっている'。
* * *
その予感は、すぐに現実のものとなった。
銀髪の男が、まるでチェスの駒を動かすかのように、指先で小さく合図を送る。すると、それまで形式的な質問を繰り返していた兵士の口調が、明らかに鋭さを増した。
「そこの女たち」
兵士の侮るような視線が、馬車の中にいるヒルダとセーラに向けられる。二人は顔色一つ変えず、逆に冷ややかな視線を投げ返しているが、その空気が変わったことには気づいているはずだ。
「その服装、見慣れない生地に意匠だな。どこの工房で仕立てたものだ?」
「……さあな。あたしたちは、この商人が用意したものを着てるだけなんでね。気前がいいのよ、うちのリーダーは」
ヒルダがわざとらしく肩をすくめ、挑発的に答える。その度胸には感心するが、今は火に油を注ぎかねない。
「ほう。では、商人に聞こう」
兵士は俺に視線を戻す。
「その豪奢なドレスはどこで手に入れた? 我々の記録では、そのような鮮やかな染色の技術も、光沢のある生地も、アステル王国には存在しないはずだが」
'来たか……!'
俺の心臓がどくりと跳ねる。王家を相手にした時とは違う、もっと陰湿で悪意に満ちた探りだ。相手の狙いは、明らかに俺たちの『異質さ』そのもの。
「世界は広い。あんたたちの記録にない職人が、アステル王国のどこかの片隅にいてもおかしくはないだろう?」
俺が平然と返すと、兵士は鼻で笑った。
「その『職人』の名と場所を言え」
「残念だが、それは企業秘密だ。我々の商品の根幹に関わる」
俺と兵士の間に、火花が散るような緊張が走る。
「では、馬車の積み荷について聞こう。いくつか、我々の知らない品物が見えるが」
兵士の顎が、馬車の方を指す。そこには、俺たちが道中で飲み食いしたコーラの空き缶や、『カロリーフレンド』の空き箱が、無造作に置かれたままだった。'迂闊だった。仲間たちとの旅の楽しさに浮かれて、完全に警戒が緩んでいた'。
「それも、かの『職人』の作品か?」
執拗な質問。'これはもう、尋問というより尋問にかこつけた『鑑定』だ。俺たちの正体を探ろうとしている'。
'やるしかないか……!'
俺は最大の警戒を保ちながら、意識を銀髪の男に集中させた。
'鑑定、LV4!'
[鑑定中……]
「それらは全て、我々が独自に開発した商品だ。帝国の上流階級の方々にこそ、その価値が分かっていただけると思っている」
俺は不敵な笑みを浮かべて答える。'相手の狙いが分かった以上、こちらも『謎の商人』という役を演じきるしかない'。
「独自開発、か。ならば、その製法についても聞かせてもらおうか」
「先ほども言ったはずだ。企業秘密だ、と」
俺がそう言い切った瞬間、脳内に鑑定結果が奔流のように流れ込んできた。
[名前:クラウス・フォン・エルシュタイン]
[年齢:36歳]
[性別:男性]
[種族:人間]
[職業:ガルダ帝国諜報院 遺物監査局 次席監察官]
[LV: 45]
[HP: 400/400]
[MP: 850/850]
[攻撃力: 180]
[守備力: 250]
[力: 95]
[素早さ: 150]
[知力: 400]
[運の良さ: 130]
[スキル:真偽判定(Lv.5)、精神防壁(Lv.4)、魔力探知(Lv.6)、遺物探知(Lv.7)]
[状態:強い関心(対象:ナオキ一行の所持品および『未知の魔力』)]
[背景:帝国の国益のため、古代文明の遺物や規格外の力を持つ存在を捜索している。対象が持つ魔力の質が既知の魔術体系のいずれにも属さないことに気づき、強い興味を抱いている]
「――っ!」
背筋が凍る、とはこのことか。全身の血が逆流するような悪寒が走る。
'『遺物探知』『真偽判定』。そして、俺たちの魔力の質が違うことまで見抜いている。こいつは、ただの役人じゃない。俺たちのような規格外の存在を専門に『狩る』側の人間だ。最悪の相手だった'。
* * *
「……もういい」
銀髪の男、クラウスが、初めて低い声を発した。静かだが、有無を言わさぬ威圧感を纏った声だ。その一言で、場の空気が完全に支配される。
兵士ははっとしたようにクラウスを振り返り、直立不動の姿勢を取った。
「通行を許可する」
クラウスは俺から目を離さないまま、淡々と言った。
「……感謝する」
俺は内心の動揺を押し殺し、短く答える。'声が上ずらなかった自分を褒めてやりたい'。
兵士たちが道を開ける。尋問は、終わった。
だが、安堵感は欠片もなかった。むしろ、今まさに檻の扉が開かれ、中へと誘われたような感覚。
クラウスの目が、こう語っているように見えた。
'ようこそ、我が実験場へ。存分に楽しませてもらうぞ、面白いネズミども'
俺は、通行許可が下りたにも関わらず、安堵するどころか、むしろ帝国という巨大な敵の掌の上に乗せられたことを痛感する。彼らは俺たちを泳がせ、その一挙手一投足を観察し、利用し、そして最後には解剖するつもりなのだ。
馬車に乗り込み、ゆっくりと国境ゲートを越える。仲間たちの顔は、皆、強張っていた。
'この旅は、俺が想像していた以上に、遥かに危険なものになるだろう'。
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