第1話 異世界転移と、ささやかな希望
知らない鳥の声で目が覚めた。
高く、短く、二度鳴く。聞き覚えのない声だった。
重いまぶたを開けると、天井がない。代わりに視界を埋めたのは、何本もの太い枝と、その隙間から差し込む白い光だった。
「……どこだ、ここ」
掠れた声が出た。
起き上がろうとして、背中に鈍い痛みが走る。硬い地面の上で寝ていたらしい。腰まで軋み、手をつけば湿った土と枯れ葉の感触が返ってくる。鼻をつくのは、土と苔と青臭い草の匂い。
寝室じゃない。
そんな当たり前のことを確認するまでに、数秒かかった。
周囲を見回す。天を突くような巨木が鬱蒼と並び、その下には見たことのない草が茂っている。人の声も、車の音も、機械の音もない。あるのは風に擦れる葉音と、遠くで鳴く鳥の声だけだった。
俺はポケットへ手を入れた。
空だ。
反対側にも何もない。
「スマホも……財布もない、か」
身につけているのは見慣れた作業着だけ。腕時計すらなかった。
そこで、昨夜の記憶を探る。
'俺は確か、自宅のベッドで寝たはずだ'
酒を飲んだ記憶もない。旅行へ出た覚えもない。まして、こんな森へ来た覚えなどあるはずがない。
最初に浮かんだのは、夢だった。
だが、爪の間に入り込んだ土も、頬を撫でる冷たい風も、背中の痛みも妙に生々しい。
「……勘弁してくれよ」
膝を立てたまま、しばらく動けなかった。
四十二歳。
仕事では同期より早く出世し、期待もされた。それが職場異動先の上司との関係で崩れた。毎日のパワハラに耐え、同僚にも裏切られ、最後には『うつ障害』と診断された。会社では、いつの間にか腫れ物のように扱われるようになった。
家庭も壊れた。
妻は「見ていられない」と言い、息子を連れて出ていった。
仕事も、家庭も、人間関係も。頑張って残ったものを数えようとすると、ろくなものが思い浮かばない。
だから最近は、何かをやり直したいとさえ思わなくなっていた。ただ誰にも会わず、誰にも期待されず、静かに過ごしたかった。
それだけだった。
「……で、今度は森か」
笑おうとしたが、息が漏れただけだった。
その時、目の前の空間が淡い青色に揺らいだ。
「……は?」
何もなかったはずの場所に、半透明の板が浮かんでいる。思わず上体を引いた。
「なんだ、これ……」
板には文字が並んでいた。
【川田 直樹】
種族:人間
性別:男
年齢:42歳
職業:なし
LV:1
HP:88/88
MP:15/15
攻撃力:12
守備力:10
力:11
素早さ:9
知力:25
運のよさ:15
【スキル】
・ユニークスキル:『マーリーエクスプレス』 通称
・全言語理解
「……はは」
乾いた笑いが出た。
どう見てもゲームのステータス画面だ。
異世界転移だのステータスだのを真面目に考える日が来るとは思わなかった。
「うつ」になる前。
昔の俺なら、もう少し興奮したのかもしれない。
今は、驚きより先に面倒だという感情が来た。
「夢なら、そろそろ覚めてくれ」
試しに頬を抓る。
痛い。
「……そう都合よくはいかないか」
青い板は消えない。
俺はその場に胡坐をかき、表示を見直した。HPやMPはゲームと同じ意味なのか。LV1なら上がるのか。そもそも、誰がこんなものを表示しているのか。
考えても答えは出ない。
ただ、一つだけ妙に具体的な名前があった。
『マーリーエクスプレス』
名前には見覚えがある。
「マリエク……?」
意識を向けると、待っていたかのように表示が切り替わった。
【ユニークスキル:マーリーエクスプレス】
この世界の通貨を日本円へ自動換算し、現代世界の大手ネットショッピングサイト『マーリーエクスプレス』で商品を購入できます。
購入した商品は、即座にあなたの手元へ転送されます。
【為替レート】
金貨1枚=100,000円
銀貨1枚=1,000円
銅貨1枚=100円
鉄貨1枚=10円
※利用には対象となる通貨が必要です。
「……待て」
もう一度、最初から読む。
異世界の金を使って、日本の通販サイトから物を買える。買った物は、ここへ届く。
水も。食料も。薬も。工具も。
もし本当なら、とんでもない。
だが――。
「通貨が必要、か」
そこで現実に戻された。
財布はない。手持ちはゼロ。つまり、この能力がどれだけ便利でも、この世界の金を手に入れなければ何も買えない。
周囲を見渡す。人の気配はない。店どころか、道らしい道すら見当たらない。
「結局、まずは金かよ……」
元の世界でも散々追い回されたものに、ここでも追われるらしい。
笑えなかった。
それどころか、急に喉の渇きを強く感じた。唾を飲み込もうとしても、口の中が乾いている。腹も減っていた。
「……水」
声に出した途端、余計に喉が渇いた。
川の音は聞こえない。見覚えのない草や木の実を適当に口へ入れる気にもなれない。毒があるかどうかも分からない場所だ。
「水場を探すしかないか……」
立ち上がろうとした時だった。
靴の先で枯れ葉がずれ、その下で何かが鈍く光った。
「ん?」
しゃがみ込み、土を指で払う。
出てきたのは、小さな硬貨だった。古びていて、表面の模様は擦れている。だが、色は銅に近い。
「……まさか」
拾い上げた瞬間、視界の端に小さな表示が現れた。
【残高:100円】
息が止まった。
「本当に……銅貨なのか?」
偶然にしては出来すぎている。
だが、今は考えても仕方がない。喉は乾いている。目の前には、試せるものがある。
俺はマリエクを起動した。
視界に、見慣れた通販画面が広がる。カテゴリ、商品画像、検索欄。日本にいた頃なら何の感慨もなく眺めていたような画面が、今は冗談みたいに心強く見えた。
検索欄へ意識を向ける。
'水'
ずらりと商品が並ぶ。
残高は百円。選べるものは限られていた。
その中に、一つだけ手が届く商品がある。
【西アルプスの天然水 500ml:100円】
「……あった」
たかが水。
日本なら、どこにでもあったものだ。
なのに今は、宝物みたいに見える。
【購入しますか? YES/NO】
俺は一瞬だけ迷い、YESを選んだ。
ポンッ。
間の抜けた軽い音と同時に、右手に重みが生まれた。
「……嘘だろ」
透明なペットボトル。見慣れたラベル。キャップも未開封だ。
震える手で蓋を捻る。カチッ、とリングが切れた。
口をつけ、一気に飲む。
生ぬるい。冷えてなんかいない。
それでも、乾ききった喉を水が通った瞬間、思わず目を閉じた。
「……うまい」
半分ほど一気に飲み、盛大に咳き込む。
「げほっ……馬鹿か、俺は」
誰もいない森の中で、一人で咳き込む。
少しずつ飲め。そんな当たり前のことすら、喉が渇いていると忘れるらしい。
残りは飲み切らず、蓋を閉めた。
最初の一口で、少しだけ頭が冷えた。
この力は、本物らしい。
だからといって、何でもできるわけじゃない。金がなければ何も買えないし、この世界のことを俺は何一つ知らない。
それに、こんな力を不用意に知られるのもまずい気がする。
「……まずは人のいる場所か」
通貨のことも、物価のことも、どこにいるのかも知らない。
全部、そこからだ。
俺は手元のペットボトルを見る。
たった百円の水。
さっきまで何一つ持っていなかった俺の手の中に、日本から来た物がある。
それだけで、状況はほんの少しだけ変わった。
* * *
水を少しずつ飲みながら、俺は森の中を歩いた。
方角も分からない。地図もない。木の種類すら知らない。それでも、同じ場所をぐるぐる回らないよう、目立つ木や岩を覚えながら進んだ。
しばらくすると、木々の密度が少しずつ薄くなってきた。
地面にも変化がある。
草の途切れた細い筋。獣道かもしれない。だが、その先には枝を切ったような跡もあった。
「人が通ってる……のか?」
断定はできない。
けれど、期待するには十分だった。
その筋を辿る。
途中、茂みの奥で大きな音がして、反射的に足が止まった。
何かがいる。
姿は見えない。
息を殺して待っていると、葉が大きく揺れ、やがて気配は遠ざかっていった。
追う気にはならなかった。
ステータスには攻撃力だの守備力だのと書いてあったが、それがどこまで通用するのか分からない。武器すら持っていない俺が、正体も分からない相手と戦う理由などない。
「ゲームじゃないんだよな……たぶん」
独り言が増えた。
人と関わりたくないと思っていたくせに、誰の声もしない森がこれほど落ち着かないのだから、我ながら勝手なものだ。
さらに歩くと、木々の隙間の向こうに空が広がった。
その先、遠くに細い煙が上がっている。
「……煙?」
目を凝らす。
町なのか、村なのか。ここからでは分からない。
だが、煙が上がっているなら、誰かがいる可能性は高い。
ほっとした。
同時に、腹の底が少し重くなる。
人間は、もう信用したくない。
できることなら、深く関わりたくもない。
その気持ちは何も変わっていない。
それでも、金を手に入れるにも、この世界を知るにも、一度は人のいる場所へ行かなければならない。
一人で静かに暮らすために、人のいる場所を目指す。
何とも皮肉な話だった。
「……仕方ないか」
ペットボトルの残りを一口飲み、蓋を締める。
マリエク。
異世界の金さえあれば、日本の物を買える力。
今はまだ、水一本を買っただけだ。
それでも、この力を使えれば。
小さな家でもいい。
食うものがあって、静かに眠れて、誰にも邪魔されない。
そんな暮らしなら――。
もう一度くらい、生きてみてもいいのかもしれない。
「……今度こそ、悠々自適に生きてやる」
声に出すと、少しだけ可笑しかった。
財布もない。食料もない。この世界の名前すら知らない。
そんな男が、悠々自適も何もない。
「まずは今日を生き延びてからだな」
自分で言って、苦笑する。
前向きになったわけじゃない。
ただ、百円の水を一本買えたことで、何もなかったはずの明日に、ほんの少しだけ興味が湧いた。
あの煙の下に何があるのか。
この世界で、マリエクがどこまで使えるのか。
それくらいは見てからでも遅くない。
俺は煙の上がる方角へ、再び歩き出した。
■あとがき■
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