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三話「七井 瑠亜の嘲笑」

黄金色の雲の上、八百万の神々が住まう神聖な世界、高天原。



アマテラス大社の会議室には、再び重苦しい空気が満ちていました。

朱いカーテンは閉じられ、前回と変わらぬ光景のはずなのに、

そこにいる神々の表情は、以前よりも一層険しく、深く沈んでいます。



「七井 瑠亜? 高天原側の調査で得た情報か?」


ウリエル様が資料をテーブルに置くと、室内の視線がそこへ集まります。


「ええ。日本には文字通り、八百万の神がおりますのでね」

「コイツがニャルラトホテプだと?」

「正確にはその化身です」


アマテラス様の『化身』という言葉に、会議室の空気が重くなります。

高天原の神々は、皆その言葉が意味することを理解しているようです。


「化身……? 奴が化けていると言うことでいいのか?」

「違いますね」


ウリエル様は『意味がわからない』という表情(かお)で眉をひそめます。

無理もありません。

天使と一柱の神様だけが存在する天界では、全知全能の神様が全てであり、

『化身』などという概念は存在しないのです。


「簡単に言えば共通の意識を持つ分身ですよ。しかして、本体とは無縁の存在」


「つまり、化身を倒したとて、本体には傷一つつかない……か」


ウリエル様の言葉に、神々は押し黙ります。

壁時計だけが、変わらず時を刻みます。


「左様です。おそらく、スーツ姿のそれも、あるいは」


アマテラス様は足を組み替え、扇子を静かに閉じます。

その瞳は資料ではなく、どこか遠くを見ているようでした。


(私達は幻を追わされている……ということか)

ウリエル様の表情に焦りが生まれます。


「化身の数は不明。本体の居場所も不明。

 そして、奴は今この瞬間も、下界で嗤っている」


室内がどよめきかけた瞬間、


パン――


アマテラス様が扇子で手のひらを叩くと、静寂が戻ります。

一度だけ。それだけで十分でした。


「高天原が動いたとて、意味はない」


その言葉の重さに、どよめきすら起きません。

神々はただ、互いに目を見合わせます。


「本気か……?」


ウリエル様が珍しく動揺しますが、アマテラス様の表情は変化しません。

策があるのか、あるいは本当にお手上げなのか、それを察することは出来ません。


「神が直接動けば、下界への影響が出る。

 しかも相手は化身。本体を仕留めるには……」


アマテラス様はそこで言葉を切ると、扇子をゆっくりと開きます。

その裏に表情を隠したまま、静かに続けます。


「奴自身が、姿を現すしかない」

「おめおめと姿を現す相手か?」

「ないでしょうね。そもそも『本体』などという概念がある相手かも不明ですから」


それが意味することを、神々は全員理解しました。

罠を張れる相手ではない。

待つしかない。


しかし、その間も、下界では何かが起きている。

沈黙を破ったのは、天界の神様でした。


長い顎髭をいじりながら、低く、静かに。


「……下界の者らに、任せるしかあるまい」


誰も、反論しませんでした。

壁時計が時を刻む音と、そして――


「七井 瑠亜……やつは今頃きっと『嗤って』いるのだろうな……」


ウリエル様の言葉だけが、朱いカーテンの閉じられた部屋に響きます。


――――


「さんかんびでしゅか?」


サタンちゃんは首を傾げ、尻尾の先のリボンが疑問符を描くようにくるりと回ります。

ピピは、サタンちゃんから渡された『園からのおたより』でそれを知ったわけですが、

肝心のサタンちゃんは何も知らないようです。


「幼稚園に、お家の人が見に来る日ですよ」


ピピが前かがみになって目線を合わせると、サタンちゃんはしばらくじっと考えます。

部屋のおばけ達も、何故かしんと静まり返って見守ります。


「……つまり」


サタンちゃんは腰に手を当てると、自慢気になります。


「妾を観る日でしゅね?」

「そうですよ」

(なんでやねん)


あゆむは心の中で、すかさずツッコミを入れますが、

ピピが怖いので声には出しませんでした。


「妾が主役でしゅね?」

「そうですよ」


「ピピママも来るでしゅね?」

「もちろんですよ」


サタンちゃんの尻尾がブンブンと元気よく空気を切ります。

おばけ達は慌てて避難します。


「じょーーーー!!」

「サタンちゃん、部屋が狭いです」


「妾が園を征服する日が来るわけでしゅね!?」

「ちゃうわい!」


あゆむは、思わず声を出してしまいました。

一方のピピはというと、サタンちゃんの返事を聞く前から既に目を輝かせ、

こっそりと、ワンピースのポケットからメモ帳を取り出していました。


『お弁当……いえ、参観日だからお弁当はない。ではサタンちゃんの服装は。髪は。靴は』

「ピピ、参観日に弁当はいらんぞ」


あゆむがそう声をかけると、ピピはハッとしてメモ帳を閉じます。

しかし頬は桜色で、目の輝きは消えていません。


「もちろん。わかっていますよ。あゆむ様」

「……なら何故メモを取っていた」

「気合いの問題です」


あゆむはため息をつきます。

トリエルがきょとんとし、

ゲザイトリオが「気合いでゲスー」「愛ザマスよー」「てやんでーい」と飛び回ります。


「あゆむ様も来てくださいますか?」

「……そうだな、行くか」

(七井 瑠亜がなにか仕掛けるやもしれんしな)


ピピのメモ帳が再び開きます。

今度は明らかに自分用のページに、何かを書き込み始めています。


「ほっとくか」

「正妻アピールのチャンスです」


あゆむは二度目のため息をつきます。


「じょー! みんなで来るでしゅ! でしゅ!」


サタンちゃんは部屋を跳ね回り、尻尾が床をペチペチと叩きます。

おばけ達が再び巻き込まれ、アンポンタンが真っ先に壁に激突します。


「おばけミサイルだぜ!」「懐かしの技ー!」「あゆむにお届けよー!」

「よこさんでええ!!」


部屋に笑いが戻ったところで、サタンちゃんがふと動きを止めます。

さっきまでの弾んだ声から、少しだけトーンが落ちます。


「……なない先生、最近おとなしいじょ」


それだけ言うと、サタンちゃんはすぐにまた、ピピのもとへ駆けていきます。

尻尾のリボンが揺れ、その言葉はおばけ達の笑い声にすぐ埋もれます。


しかし——あゆむの胸には、小さな棘が刺さったように残りました。


(おとなしい……か)


窓の外、二月の冬空は青く澄んでいます。

どこにでも潜める存在が、静かに嗤っているとしたら。

その笑い声は、きっとこんな青空の下でも、聞こえないのです。



――――



参観日当日の朝。

かの悪魔達が密かに集うソロモン幼稚園では、

色んな意味で『混沌』が満ちておりました。


「はーい、みんなー。今日はお家の人が来る日だよー」


あすか先生は、園室の前に立って笑顔を作ります。

頬の筋肉が、既に微かに引きつっています。


「先生、俺の母さんに紹介してやろうか?」「なんで?」


たけしくんが開口一番そう言い、あすか先生は即答しつつ、笑顔がピキリと音を立てます。

(あたしが彼女って言いたいんだろうが、その手にゃ乗んねーぞ、このクソガキ)


「たけしくん、今日はみんなのお家の人が来るから、ちゃんとした挨拶しようねー?」

「俺はいつでもちゃんとしてるぜ」

(コイツ……)


「先生、たけしくんとどこまで進んだのー?」


別の女の子がそう発言し、教室がわっと沸きます。


「Aまで行ったって本当?」「俺はZって聞いたー」「先生、答えろー」

「進むどころか後退だよー」

「はは、俺のあすかは照れ屋だな」

(ぶっ飛ばすぞ……!)


あすか先生の心の声が臨界点に達しかけたところで、園室のドアが開きます。

保護者の第一陣が到着し、園児達は一斉に「ママー」「パパー」と駆け出します。


たけしくんだけは動かず、腕を組んで仁王立ちのままです。


「俺は大人だから親なんて呼んでない」

(テメーが一番ガキなんだよ)


あすか先生は胸の中でそう叫びながら、入口へ向かいます。

笑顔の筋肉は、今日接着剤のように固まるかもしれません。


そこへ――


「失礼します」


白いワンピースに淡い水色のカーディガンを羽織ったピピが、

サタンちゃんの手を引いて教室に入ってきます。

ピピのその人間離れした美しさに、保護者の父親達からはどよめきが起こり、

肘打ちを横から食らったり、ヒールで足を踏まれたりしていました。


サタンちゃんは、普段の黒いフリルのワンピースではなく、

今日は少しだけ改まった格好です。


もっともツインテールはいつも通り、

そして尻尾の先のリボンも、今日は少しだけ大きなものに替えられていました。

ピピの仕業でしょう。


「ピピママ、来たでしゅ」

「来ましたよ、サタンちゃん」


ピピは園室をゆっくりと見渡します。

その目には、かすかに光るものがあります。


(サタンちゃんの晴れ舞台……感動です)

「ピピ、目が赤いぞ」


後ろからあゆむが小声で言うと、ピピは「これは武者震いです」と即座に謎の返答をします。

あゆむの隣にはトリエルが、目をきらきらさせながら園室中を見渡しています。


「幼稚園だー! トリエル来たことなかったー!」

「声が大きい」


あゆむが小声で制すると、トリエルはすぐに口を両手で塞ぎます。

それを見ていた園児の一人が「あの人面白い」と指を差し、

あゆむは曖昧な笑顔を返すしかありません。


「パパとママが来てくれて良かったでしゅねー?」


あすか先生が近づいてきます。

その目は、サタンちゃんへ向けられて、福笑いのおたふくのように歪んでいます。

口元も口裂け女のように大きく上がっています。


「あちろとた、顔が変形してるじょ」

「それを言うならアスタロトだよー、魔王(サタン)ちゃん」


あすか先生はそれだけ言うと、次の保護者対応へ向かいます。

その背中を見送りながら、あゆむは小声でピピに耳打ちします。


「あすか先生も大変だな」

「本当ですね」


ピピは静かに微笑み、椅子に座るサタンちゃんを母の顔で見守ります。


…………


参観が始まると、サタンちゃんは張り切ります。

先生の質問に真っ先に手を挙げ、たけしくんと競い合い、

工作の時間では尻尾も使って器用に折り紙を折ってみせます。


保護者席からピピが静かに手を振ると、

サタンちゃんの尻尾がブンブンと揺れ——あすか先生に当たります。


「いっ……!」

「大丈夫でしゅか?」

「平気でしゅよー?」


あすか先生が顔を歪ませる中で、

園室の端で、なない先生がそっと口元に手を当てます。


「まあ、元気な子ね」


その声はいつも通り、甘く、柔らかく『歪な』もの。


サタンちゃんの尻尾が、声に反応してピタリと止まります。

リボンだけが、風もないのに、ゆらりと揺れます。

あゆむはそれに気づきます。

ピピも気づきます。


なない先生は視線をサタンちゃんから外すと、

保護者席をゆっくりと見渡します。


その赤い瞳が、一瞬だけ——あゆむと目が合いました。

彼女は微笑みます。

人工甘味料の、笑顔で。


(来た)


あゆむの胸の中で、節分での邂逅が過ぎります。


(俺は逃げないぞ。ニャルラトホテプ)


あゆむは決意を帯びた瞳で、這いよる混沌――七井瑠亜を睨みます。


「みなさん、少し時間をいただいてもいいですか」


なない先生は静かに前へ出ます。

あすか先生は一瞬眉をひそめ止めようとしますが、彼女はもう黒板の前に立っていました。


「せっかくの晴れ舞台です。私にも時間くださいよー」


なない先生がそう甘い声を出すと、園室全体からクスクスと笑い声が起こります。

その声に乗っかるように、なない先生はあすか先生とあゆむ達に笑顔を送ります。


それは『嘲笑』でした。


「今日は保護者の方もいらっしゃるので……せっかくだから、昔話をしましょう」


そう言ってわざとらしく手を叩くと、園児達は大盛り上がり、

園児達がわいわいと手や机を叩き、保護者席からも期待するような視線が集まります。


たけしくんだけは腕を組んで「昔話とか興味ねえ」という顔をしていますが、

それでも椅子には座っています。


あゆむはピピと視線を交わします。

ピピは小さく首を横に振ります——何も感じない、という意味です。


あゆむは正面に向き直ります。

なない先生は、ゆっくりと話し始めます。


…………


最初の数分は、何でもない話でした。


遠い国の、遠い昔の話。

声は穏やかで、語り口は優しく、園児達は素直に聞き入っています。


ところが……

五分ほど経ったころ、あゆむは気付きます。


(教室が静かすぎる)


園児達は、さっきまでそわそわと動いていた体を止め、彼女だけを見ています。


保護者達も同様です。

笑顔が、いつの間にか消えています。


(何を話している……?)


あゆむは耳を澄ませます。

しかし内容は、するりするりと頭の外へ逃げていきます。

まるで夢の中で聞く言葉のように、意味だけが掴めない。

それでも——伝わってくるものがあります。

重さだけが、確かに積もっていくのです。


(なぜ聞き取れない。言葉は入ってくるのに)


あゆむはその不気味さよりも、苛立ちを募らせます。


そうして――変化が起こります。


最初に動いたのは、園児の一人でした。

隣に座っていたサタンちゃんから、そっと——体一つ分だけ、離れます。


本人も気付いていないかもしれません。

ただ、体が動いた。それだけです。


しかし、それは連鎖します。

もう一人。また一人。


波が引くように、静かに、ゆっくりと。

保護者席でも、視線が動き始めます。


話をしているなない先生ではなく——サタンちゃんへ。

サタンちゃんは、それに気付いています。


尻尾は動きません。

ただ、小さな体が、少しだけ——縮んでいます。


「ピピママ……」


声にならない口の動きで、サタンちゃんはそう呟きます。

ピピは何かを察し、動こうとしますが、あゆむがそれを止めました。


ここで、あすか先生の目が鋭く光ります。

彼女もようやく、この場の異変を掴んだのです。


(この女……何を話した)


あすか先生はなない先生へ視線を送ります。

なない先生は話し終えたのか、静かに微笑んでいます。


「七つの頭の魔王」「反逆者」「最悪の悪魔」


徐々にそうした内容が耳に届き、あゆむは全てを理解します。

やがて園室に黒くて重い空気が漂います。


「魔王怖い……」「あの子、なんで同じ名前なの……」

「あの尻尾……もしかして本物?」「悪魔……」


空気はどんどん重くなり、園室は暗くなります。


しかし、まるでスポットライトが当たるかのように、

あゆむとサタンちゃんの周囲だけ、その空気が避けて明るく目立ちます。

けれど、誰もそこへは近寄らず、まるで『コイツが出している』という顔でサタンちゃんを睨み、

サタンちゃんの周囲だけ、ぽっかりと——空白が生まれていました。


(まずい)


あゆむが立ち上がろうとした、その時です。


「魔王」


たけしくんは立ち上がっていました。

椅子を引く音が静かに響きます。誰も彼を止めません。


「お前、良い奴だろ」


それだけでした。

理由も、説明も、何もありません。

ただ、それだけです。


教室がしん……と静まり返ります。

なない先生は微笑んだまま、動きません。


サタンちゃんは、たけしくんを見ています。

その目が、かすかに——揺れています。


「……しもべ」


小さな声でした。


「向こうの方がいいな」


たけしくんは、サタンちゃんの隣の空いた席を見渡すと、

そこへどかりと座ります。


「お前らも来いよ」


それだけ言って、笑顔を見せます。

あすか先生は一瞬目を閉じると、静かに目を細めます。


(いいとこあるじゃねえか)


最初に動いたのは、あの女の子でした。

サタンちゃんから最初に離れた、あの子です。


ちょこちょこと、小さな足音で近づいてきます。

そして、サタンちゃんの隣に——座ります。


「……サタンちゃん、前に追いかけっこしたよね」


ぽつりと、そう言います。


「あれ、楽しかった」


また一人。今度は男の子が来ます。


「魔王の尻尾、触らせてくれたよな。かっこよかった」


それを皮切りに、次々とサタンちゃんの周囲に子供達が集まりだします。


「噴水に落ちたの、面白かったって笑ってたね」

「俺は公園のトランポリンで転びそうな時に、尻尾で助けられたぜ!」



「…………」


サタンちゃんの目から、ぽろりと涙が落ちます。

魔竜の尻尾が、小刻みに震えます。


「妾……妾は……」


ピピが立ち上がります。

しかしあゆむが、そっとその手を掴みます。

首を横に振ります。


「もう少しだけ、待て」


ピピは息を呑み、立ったまま、サタンちゃんを見守ります。


「妾は……本物でしゅか……?」


サタンちゃんのその言葉は、園室の誰にも意味は伝わらなかったでしょう。

しかし——あゆむには、聞こえていました。


トリエルにも。ピピにも。

それは、這いよる混沌が何度も突いてきた問いです。

作られた存在に、本物の心はあるのか。

強制された笑顔に、意味はあるのか。


「お前は魔王だ」


たけしくんが即答します。


「俺には本物だぞ、魔王」


サタンちゃんは、たけしくんを見つめます。

それからぐるりと、集まった仲間達を見渡します。

そして——泣きながら、笑います。


「……じょ」

それだけでした。

でも、それで十分でした。


…………


「ふふ……滑稽、ね」


なない先生の笑い声が、静かに響きます。

彼女は教室を、ゆっくりと見渡します。


嘲笑のはずなのに——その目には、どこか別の色が混じっていました。


「面白かったわ」


あゆむはなない先生を真っ直ぐに見返します。


「帰れ」

「ええ、帰るわ」


なない先生はスカートを軽く持ち上げ、一礼します。

それは——いつもの、舞台の幕を引く女優のような、所作でした。


「次は他のお仲間とも、遊ぼうかしら……」


そう言って、なない先生は自らの胸に手を当て、

次の瞬間——彼女は静かに闇に溶けます。


音もなく。煙もなく。

ただ、そこに誰もいなくなります。

教室に、沈黙が落ちます。


あすか先生が素早く動き、消えた場所へ向かいます。

しかしそこには何もありません。

人が立っていた痕跡すら、残っていません。


「……七井瑠亜の最後の言葉、気になるな」


たけしくんが首を傾げます。

サタンちゃんだけが、その場所を静かに見つめていました。



――――



幼稚園からの帰り道。

サタンちゃんはたけしくんと並んで歩いています。

いつもより少しだけ、歩幅が大きい気がします。


「しもべ」

「あん?」

「……ありがとうでしゅ」


たけしくんは鼻を一度鳴らすと、前を向いたまま答えます。


「今度ウィンナーを一本よこせ。礼はそれでいいぜ」


その言葉は冗談とも、本気とも取れましたが、

サタンちゃんには励ましに聞こえました。


『負けるな、いつも通りでいろ』


そう言っているように聞こえたのです。

サタンちゃんの尻尾が、ゆるりと揺れます。


「食い意地の張ったヤツでしゅ」


それだけ言って、サタンちゃんはピピのもとへ走り出します。


「ピピママー!」

「はい、おかえりなさい」


ピピはしゃがんで、サタンちゃんをしっかりと受け止めます。

その目は少し赤く、光るものがあります。


「泣いてるでしゅか、ピピママ」

「泣いていませんよ」

「目が赤いでしゅ」

「気のせいです」


あゆむはその横で、小さく口角を上げます。


…………


帰宅後、部屋は穏やかです。


おばけ達はサタンちゃんの帰還を祝うように飛び回り、

バアルゼブルが「おかえりなさいませ」と紅茶を差し出し、

トリエルがサタンちゃんに抱きついて「えらかったー!」と叫びます。


「えらいのはしもべでしゅ」

「下僕じゃねーっつってんだろ!」


どこからかたけしくんの声が聞こえた気がしましたが、

気のせいでしょう。


あゆむはソファに座り、紅茶を一口含みます。

ダージリンの、いつもの香り。


(終わった……か)


しかし——あゆむはすぐに、その考えを打ち消します。


「なあ、トリエル」


トリエルが「なーにー?」と無邪気に振り向きます。


「七井瑠亜の記憶……お前はまだ覚えているか」


トリエルは、こくりとうなずきます。

あゆむも覚えています。

ピピも。サタンちゃんも。

あすか先生も——おそらくは。


しかし――


あゆむは今日、帰り際に気づいたことがあります。

参観に来ていた保護者達が、駐車場で話していました。


「今日の参観、先生が昔話してくれたじゃない?」

「あったっけ? 覚えてないわ」

「え……私も気がついたら終わってたのよね」


不自然な笑い声が駐車場に響いていました。


(消えている)


あゆむはトリエルと、ピピと、静かに視線を交わします。

三人が同じことを理解した瞬間でした。


記憶が消えた。


七井 瑠亜という存在が、あゆむ達を除く全員から——消えた。


それは敗北ではありません。

しかし、勝利でもない。


「逃がさない……ってことだよな」


あゆむは天井を見上げます。

そこにはもう、黒い染みはありません。

きれいな白い天井。


——だからこそ、不気味でした。


這いよる混沌は、どこにでも潜める。

あらゆる場所に、あらゆる顔で。


「あゆむ様」


ピピがそっと、あゆむの隣に座ります。

その手が、静かにあゆむの袖を引きます。


「怖いですか?」


あゆむは少し考えてから、答えます。


「怖いな」


ピピは、それを聞いてから——微笑みます。


「わたくしも、です」


部屋の中では、サタンちゃんが笑っています。

トリエルが笑っています。

おばけ達が飛び回っています。


その声を聞きながら、あゆむは拳をひざの上で静かに握ります。


(次は——どこから来る)


窓の外、冬の空は青く澄んでいます。

どこかで、嗤い声が聞こえた気がしました。



――――



次回 落ちてきた天使と同居することになった件。


「魔王のひな祭り」にご期待ください。

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