一話「赤い目の先生」
黄金色の雲の上、八百万の神々が住まう神聖な世界、高天原。
アマテラス大社の会議室では、天界、高天原、両サイドの重鎮が集まっていました。
朱いカーテンは全て閉じられ、木製の長テーブルにあるのは、資料と水のみ。
普段はおちゃらけているアマテラス様も、今回ばかりは真剣そのものです。
「これが、ガブリエルから受けた報告を元に作成した、奴の資料です」
そう言って一つの資料を掲げ、見るように促すのはウリエル様です。
会場にいる神々がその資料に注目し、一斉に取り出します。
資料のページがめくられる音が部屋に響く中、アマテラス様の瞳が鋭く光り、
天界の神様の髭が微かに震え――会議室の空気が、ドライアイスのように重く沈み、
冷たさすら届きそうなほどです。
アマテラス様は足を組み、扇子で口元を覆うと、目線は資料に向けたままに語り始めます。
「ニャルラトホテプ……確かにそう言ったのですね」
アマテラス様は扇子をパチンと閉じると、それをまた開き、ウリエル様へ視線を飛ばします。
ウリエル様は静かにうなずくと、会議室はしん……と静まり返り、
彼女の次なる言葉を待つかのように、壁時計の音だけが部屋に響きます。
「そうです。ニャルラトホテプは、這いよる混沌として知られる存在です」
室内が一瞬どよめき、アマテラス様がそれを制するかのように会話を続けます。
「妙ですね」
足を組み替え、扇子を閉じては開く。
神々の視線は、アマテラス様の口元の扇子に集まり、
皆聞き耳を立てるように、妙だと言ったその真意に注視します。
「ニャルラトホテプは真の神ではありません……近年誕生した創作の中の集合知のはず」
『創作』
その言葉に室内がざわめき、神々がお互いにしゃべり始めます。
「創作と言うのは真か?」「ならば騙りということかえ?」
「民の信仰が神格化したのでは?」「にしては力が強すぎる」
ウリエル様が資料を握りしめ、眉をひそめて周囲のざわめきを睨む中――
パンパン!
アマテラス様が手を叩きますと、室内は再び静まり返り、
神々の視線はアマテラス様に集まります。
「ウリエルさん、貴女の見解は?」
ウリエル様は、置かれたペットボトルの水を一口含むと、静かに息を吐きます。
「先ほど、『騙り』という言葉が出ましたが……」
ウリエル様は周囲を見渡すと、神々は固唾を呑み、重い空気が場を満たします。
「私は半分当たりだと思っています」
「ほう……その心は?」
アマテラス様は扇子で口元を被ったまま、
もう資料には目をくれず、真っ直ぐにウリエル様へ目線を送ります。
ウリエル様は軽くうなずくと、その根拠を説明します。
「そもそもの騒ぎの発端は、大天使ミカエルの帰還から始まりました」
「つまり、日本は巻き込まれただけと言う事か!」
一柱の男神がそう野次を発すると、「うるせーぞ!」机を蹴る音が響きます。
机を蹴ったのはアマテラス様の弟の男神、スサノオノミコトです。
アマテラス様は、スサノオノミコトに一瞬目配せをすると、
ニヤリと扇子の影で笑みを浮かべ、目線をウリエル様に戻します。
室内は再び静寂を取り戻し、ウリエル様は言葉を続けます。
「大天使ミカエルは『異世界の』邪神に取り憑かれていました。
そもそも、『日本人』のための高天原の異世界転生ビジネスが背景あると、お忘れなく」
ウリエル様がそう牽制すると、先ほど野次を飛ばした男神は唇を噛み、
アマテラス様は扇子で顔を隠しつつも、クスクスと笑っています。
「最初それは何もない存在でした。しかし、この世界の知識や信仰に触れ、
ニャルラトホテプという存在を吸収した……こちらではそう結論ずけました」
「つまりどういうことだ? ウリエルさんよ」
スサノオノミコトが率直な疑問を呈すると、
ウリエル様は少し唸り、言葉を選びます。
「簡単に言えば、元々近い存在だった何かが、こっちの世界で兄弟に出会っちゃった!
それで一つになった……というところですよ」
「つまり、現状の『ソイツ』は間違いなく、その『ニャルなにがし』……なんだよな?」
ウリエル様はスサノオノミコトへ視線を送ると「ええ」とうなずき、
彼は着席し、頬杖をつきます。
「異世界の神が、ミームの怪異を取り込んで、真なる這いよる混沌となった……か」
アマテラス様はそう言うと、天井を仰ぎ、天界の神様が髭をいじり、低く真剣な声を出します。
「厄介なことになるな……」
「どういうことだよ?」
スサノオノミコトは、頬杖のまま神様を見つめます。
神様は「つまりな」と髭を触りつつ、会話を続けます。
「その真名は不明として、彼奴は現状、『化身の一つ』に過ぎないのだ」
「元々近い存在だった……と言っていたな?」
ウリエル様はこくりとうなずき、スサノオノミコトは姿勢を戻すと腕を組みます。
「今『ニャルなにがし』とされる者とて、『化身の一つ』ってことなんだろ?
なら……」
「それとは別に、更なる『混沌』が存在する」
ウリエル様より静かにそう発すると、室内は一層と重く静まり返り、
かの邪神『ニャルラトホテプ』の強大さに、神々は言葉を失うようでした。
「エミエル……貴女は、どうする」
ウリエル様は床を眺め、静かにエミエルへと思いを馳せます。
神々は静かに息を吐き、今はただ、互いに見つめ合うことしか出来ませんでした。
――――
「でしゅでしゅでしゅー! でっしゅっしゅー!」
そんな鼻歌をキッチンに響かせながら、尻尾を上向きでフリフリしてるのはサタンちゃんです。
今日はいつになく機嫌がいいようでしゅ。
「ずいぶん機嫌がいいのう」
あゆむが不思議そうにサタンちゃんを眺めますと、
腰に見慣れないポーチをぶら下げております。
「なんじゃいそれ?」
「お弁当ですよ」
あゆむの問に、横にいたピピが答えてくれました。
ピピの声にサタンちゃんも「でしゅー!」と元気よく答え、
あゆむもピピも自然と笑顔になります。
「幼稚園は給食じゃなかったか?」
「今日はお弁当会なんでしゅ!」
(そういや、学校でもそんなのあったな……)
あゆむは、そんな過去に軽く思いを馳せると、7畳の部屋に戻ります。
部屋ではサタンちゃんに呼応するように、おばけ達も太鼓を叩いてご機嫌です。
アンポンタンに関してはフラダンスを踊っていますね。
季節はまだ1月なのによくフラダンス踊れますね……
ここでお決まりの、あゆむへの攻撃ならぬ口撃が突如始まります。
アッチの「アロハー」にポンポが「オェェェ」であゆむの頭に白い汚物が!!
「やめーい! それを言うならアロハオエじゃい!」
「あゆむーん! ピピが吹いてあげますねー!」
あゆむが頭上で手をブンブンと振っていますと、
ピピの顔をしたタンタが汚い雑巾で頭をぐしゃぐしゃ!
あゆむの髪からは傷んだ牛乳のような臭いが立ち込めます。
「臭ぇな!? 誰か牛乳でも被ったか?」「モーー! 臭いわねえ」
「牛なだけにってかー!」
と漫才を始めてゲラゲラをお腹ポンポンです。
「このナス共が!」
あゆむはテーブルの上の食卓塩を取り出し、キャップを外して振りかけますが……
「ふっ!!」と、アッチが息を吹きかけると、その塩が跳ね返り、
そこからは小さなオタマジャクシおばけが大量発生!
まるで西遊記の孫悟空の術のようです。
「あゆむーん」「耳掃除よーん」「鼻掃除よーん」
ミニアッチ達はあゆむの耳や鼻に入って大暴れ!
「うひゃひゃひゃ!」
あゆむはくすぐったくなってその場で踊り出すと、
トリエルが遊んでると思ったのか、
「トリエルも遊ぶー!」と指をピーン!
部屋中のおばけ達が「ふっ」と息を吹きかけ多重分身!
耳に入るわ、鼻に入るわ、脇をくすぐるわで大暴れ!
あ、あゆむの脇に入ったおばけが「オェー」してますね。
入るならミカエルさんのにすればいいのに……え? なんですか、その目は?
い、いいじゃないですか!!
……ふーんだ!
「みんなで笑うって楽しいね!」
「どこがじゃい!」
口ではそんなことを言いつつも、
あゆむからは笑みが溢れます。
けれど、その『笑み』に小さな影が生れます。
その影の原因は他でもありません。
這いよる混沌――ニャルラトホテプの言葉です。
『強制された笑顔の先にあるものはディストピア』
ニャルラトホテプはそう言いました。
(笑顔か……)
トリエルから発せられる無垢な笑顔、『桜色の微笑み』
それは、彼女の権能『笑顔』を介して特別な力を持ちます。
あらゆる悪意や負の感情を消し去り、『強制的に』笑顔に変える天使の力です。
『今、君が感じたその笑顔。果たしてそれは本物なのかな……?』
ふと天井から、あるいは心の中から、そんな声が聞こえた気がしました。
(クソ……!)
その声に、あゆむは苛立ちを覚えます。
(奴は退散したんだ……)
あゆむは自身にそう言い聞かせますが、それは底なし沼のように、
あゆむが抵抗すればするほど、スポンジの奥の汚れのように染み出してきます。
その時です。
サァーっと波が引くように、その声が一気に消える感覚が、あゆむの胸に走りました。
「大丈夫?」
振り向くと、そこに居たのは茶色い目を輝かせる『笑顔の天使』エミエルです。
彼女はそれ以上は何も言わず、ただ静かに微笑みます。
彼女の意志とは無関係に、それは『桜色の微笑み』となります。
(一番辛いのは、きっとエミエルだよな……)
エミエルの権能にはいくつかの種類がありますが、
基本的な権能である『桜色の微笑み』に関しては、彼女の意思は介入できません。
エミエルの心にも、その力は効力を発揮するのです。
誰よりも『笑顔』を愛する天使・エミエル。
生前の彼女、桜井恵美の『魂の願い』がその力を与えました。
しかし今、その魂の願いが、エミエルの心を静かに苦しめています。
誰よりも笑顔を愛しているはずなのに、その本人は『本当の笑顔』から最も遠い存在にいる。
『自分が与えている笑顔は本物なのか』
彼女はこの自己矛盾を常に抱えているのです。
少なくとも、あの日以降からは。
「エミ」
あゆむは、気付けば彼女の名を呼んでいました。
エミエルはキョトンとした表情で、真っ直ぐにあゆむを見つめます。
あゆむは一歩前に踏み出し、ぎゅうっと、エミエルの肩を抱きます。
すると、彼女の頬は季節が一気に進み、秋の紅葉色に染まります。
「俺は……俺はお前の『笑顔』に何度も助けられているから」
それは自然と出た言葉です。
人外とのカオスな生活において、これまであゆむが明るく振る舞えたのは、
その性格もあったのでしょうが、最大の要因はトリエル、
そしてエミエルが持つ力である『桜色の微笑み』があってこそです。
アンポンタンが何をしても、トリエルがさんざん破壊しまくっても、
最後には笑って許せた。
それはその力があってこそ。
もしトリエルがいなければ、あゆむはとっくに自我が崩壊していたかもしれません。
だからこそ、発せられた言葉でした。
「うん……」
エミエルは静かにうなずき、
その茶色い瞳をトパーズのように輝かせ、微かに涙で揺らせます。
「……あゆむ様」
「ママー、どうしたでしゅー?」
ピピは、あゆむ達の様子をキッチンから静かに見守り、
沈んだ笑顔を向けます。
サタンちゃんがピピのワンピースを引っ張ると、
ピピは笑顔を作り、『幼稚園に行きましょうか』とサタンちゃんと手を繋ぎます。
「でしゅー!」
あゆむの力になりたくてもなれない歯がゆさは、ピピの心に影を落としますが、
サタンちゃんの無垢な笑顔が、それを吹き飛ばします。
…………
「でしゅしゅー! でしゅしゅー! でっしゅっしゅー!」
幼稚園へ向かう最中も、サタンちゃんは嬉しそうに、
小さな手と魔竜の尻尾をブンブン振りながら歩いていきます。
ピピも自然と目を細め、サタンちゃんを優しく見守ります。
町の人とも挨拶をよくするようになり、コスプレ好きな変わった母娘という認識なようです。
まあ、尻尾や角が本物とは思わないでしょうねえ……
…………
やがて幼稚園へ着きますと、サタンちゃんはやっぱり分離不安からか、
泣き出すまではいかなくなったものの、ピピのワンピースをぎゅっと掴みます。
「大丈夫でしゅよー! ママは迎えにきましゅよー!」
アスタロト……もとい、飛鳥 露都先生もニタァと微笑んで、幼女化した元上司をおちょくり……
優しくお出迎えしますが、今日のサタンちゃんはいつになくピピにしがみつきます。
「サタンちゃん? 大丈夫ですから」
ピピがそう優しく微笑みかけても、サタンちゃんは無言で首を横に振ります。
尻尾はだらりと下がり、元気がありません。
何か、不安でも抱えているのでしょうか。
(どこか一点を見てる……?)
あすか先生は、それに気付くと、視線の先を追います。
そこに居たのは新任の先生。
今日入ったばかりの20歳の女性の先生です。
(ただの人見知りか)
あすか先生はそう判断し、またしてもニチャア……
魔族時代は恐ろしくて、とても出来なかったうっぷんを晴らすかのごとく、
とにかくサタンちゃんをおちょくります。
「大丈夫でしゅよー! なない先生は優しい先生でしゅよー!」
あすか先生はそう言うと、園庭の奥にいた新任の先生を手招きで呼びます。
「始め――あたー!!」
ずてーん!!
新任の先生は顔から派手に転び、周囲の園児は大爆笑です。
「ダッセー!」「カッコ悪ーい!」
「あはは、先生かっこ悪いね」
新任の先生は、ゆっくりと起き上がり、後ろで束ねた赤黒い髪を手で払うと、
真っ赤な瞳でサタンちゃんに微笑みかけ、自己紹介します。
「今日から入った七井 瑠亜です。よろしくね」
「……うー! 近寄るなでしゅ!」
サタンちゃんは、ピピのワンピースをぎゅっと掴んだまま、
吠えるような声を発し、尻尾を地面に叩きつけて威嚇をします。
サタンちゃんの威嚇は、幼稚園の空気を一瞬凍りつかせました。
園児たちはぽかんと口を開け、ピピは驚いた顔でサタンちゃんを抱きしめます。
あすか先生は、いつものニタァとした笑みを浮かべつつも、目が鋭く光ります。
彼女は魔族の勘で、何かただならぬ気配を感じ取ったのでしょう。
「まあまあ、サタンちゃん。新しい先生にそんな怖い顔しちゃダメよー?
なない先生は、みんなの友達になるんだから」
あすか先生がそう宥めようと手を伸ばすと、
なない先生は赤黒い髪を整えながら、変わらぬ微笑みを浮かべます。
その瞳は、真っ赤なルビーのように輝き、どこか不自然な深みがあります。
彼女はサタンちゃんに向かって一歩近づき、優しく声をかけます。
「サタンちゃん、だっけ? 怖がらせてごめんね。先生、転んじゃってカッコ悪かったよね?
でも、先生仲良くしたいな。楽しいこと、一緒にいっぱいしよう」
その声は柔らかく、そして甘いものです。
けれど何故でしょう、その甘さは例えるならば人工甘味料。
『甘いだけ』で母性という後味がまるでないのです。
それを察するように、サタンちゃんはさらに尻尾で地面を叩き、ピピの後ろに隠れます。
「うー! 妾にちかじゅくな!」と、幼い声で叫び警戒を強めます。
ピピは困惑しながらも、サタンちゃんの頭を撫で、なない先生に視線を向けます。
「すみません、先生。今日はちょっと機嫌が悪いみたいで……」
なない先生は「ふふ、大丈夫よ」と笑い、視線を園庭の他の園児たちに移します。
すると、不思議なことに、周りの園児たちが一斉に彼女の周りに集まり始めます。
「先生、遊ぼう!」
「転んだの面白かった!」と、笑い声が広がります。
――が、
あすか先生は、サタンちゃんの威嚇を見て眉をひそめ、
内心で警戒を強めます。
(サタンが怯える?)
あすか先生は、なない先生とサタンちゃん、
それぞれに針のような鋭い視線を向けます。
なない先生は、一瞬あすか先生を見ますが、
直ぐに視線をサタンちゃんに戻すと……
ニコリ――と、人工甘味料の笑顔を作ります。
(この女、人間のはずだが……だがなんだ、この違和感)
ピピはサタンちゃんを宥めながら、幼稚園の門をくぐり、帰宅の途につきます。
サタンちゃんはようやく離れ、時折後ろを振り返ります。
(サタンちゃんが、あんなに誰かを怖がるなんて)
ピピは、なない先生には特別な何かは感じませんでしたが、
サタンちゃんの怖がり方は尋常じゃないと感じ、明日以降様子を見ようと決めます。
――――
夕暮れ時、ピピとサタンちゃんが帰宅すると、
サタンちゃんは珍しく元気なく、すぐにベッドに潜り込みます。
ミカエルさんは本を閉じ、声をかけようと手を伸ばしましたが、
「疲れたでしゅ……」とすぐにサタンちゃんが尻尾を丸めたため、
手を戻して、再び開いた文字の羅列だけを見ていました。
ピピは、そんなやり取りを見て、心配そうにあゆむに相談します。
「サタンちゃん、新任の先生に怯えてるみたいです。なにか、感じるものがあったみたいで……」
あゆむはエミエルと視線を交わし、うなずきます。
「人見知りじゃなくて?」
あゆむのその問いに、ピピはすぐに首を横に振り、
「だとしても、サタンちゃんは誰かに怯えることはないんです」と保護者としての見解を加えます。
「考えすぎじゃないのか? ピピは何か感じたか?」
ピピはあゆむの問いに対し、首を横に振り、
「わたくしには良い人に見えました」と、率直に返します。
「なら考えすぎだ」「そんなことないでしゅ!」
あゆむの返答とほぼ同時に、サタンちゃんの反論が飛びます。
サタンちゃんは布団に潜り込んだまま、
怯えたように声を張り上げます。
「あいちゅからは、古い魔族の匂いがしたでしゅ!」
「古い魔族……か」
(サタンのこの怯えようは、確かに変だな……)
あゆむはピピへ視線を向けると、
彼女は胸に手を添えて、不安げに盛り上がった布団を見つめます。
ピピのその表情は、あゆむの危機感を十分に刺激します。
思い起こされるのは、まだ記憶に新しい、かの邪神――ニャルラトホテプ。
(まさかな……)
あゆむは、そう流そうとしましたが、
一度心に生まれた疑念は、風の中で燃える火のように強まる一方です。
ニャルラトホテプはクトゥルフ神話の邪神……
あゆむにも、それぐらいの知識はあります。
あゆむは、そこから知識を掘り起こし、ある考えを口にします。
「ニャルラトホテプには複数の化身が存在するって言うな……神話通りなら」
「その人の名前は?」
エミエルの問いに、ピピは記憶の中からその名前を呼び起こします。
「確か……なない……ナナイ・ルア」
あゆむ達は顔を見合わせ、その響に不気味さを覚えます。
『ナナイ・ルア』
(這いよる混沌の響きに似すぎている……偶然か? いや――)
あゆむにはそれは『嘲笑』のように思えました。
かの邪神、ニャルラトホテプは誘っている……
いえ、『嗤っている』と。
『これぐらい、見抜いてみせろ』と、愉しんでいると。
(幼稚園が、次の舞台になるのかもしれんな)
あゆむは、そんな予感を強めて、ピピに囁きます。
「明日、俺も一緒に行く。エミエルもこい」
エミエルは静かにうなずき、桜色の微笑みを浮かべますが、その瞳には決意の光が宿っています。
その時です。
「お待ちなさい」
それを制するように、ガブリエルママが声を張り、そっとメガネを押し上げます。
彼女はまるで、戦場へ赴く騎士のような、そんな強い眼差してあゆむ達を見つめ、
あゆむは、普段見せない彼女の顔に息を呑みます。
「もしその『ナナイなにがし』が、件の邪神だったとして、無策で近づいてはいけません」
ガブリエルママはバアルゼブルへ視線を送ると、彼も同意するようにこくりとうなずきます。
バアルゼブルは微笑んでこそいますが、つま先はトントンと床を蹴り、
隠しきれない闘志が全身から漂わせているかのようです。
「エミエル殿はともかく、貴方はただの人間。そうした役目は私の方が適任でしょう」
珍しくバアルが微笑んでみせると、あゆむはそれを、警告を込めた心配りとして受け取ります。
それに続くように、ミカエルさんは本を閉じると、
「いざと言う時はわたしも手を貸しましょう」とバアルゼブルの方へ目線を送り、
彼は「これは心強い」と胸に手を置き、ミカエルさんに敬意を示します。
「わかった……そっちは任せるよ」
バアルゼブルはあゆむに軽く敬礼をすると、キッチンへ消えて、
やがて人数分の紅茶を持ってきます。
7畳の部屋がダージリンの芳醇でフルーティーな香りで包まれ、
緊張が和らぎます。
しかし――
ニャルラトホテプの影が、日常を蝕み始めようとしています……
――――
次回 落ちてきた天使と同居することになった件。
「節分の嘲笑」にご期待ください。




